ねむい。
すごくねむい。
でも、まだねたくない。

「寝るんなら部屋行くか?」

すぐ傍で聞こえる声に首を振ったけど、ちゃんと振れたのかも分からない。背中から伝わってくる温もりが心地良くて、降ってくる声も心地良くて。「しょうがねぇ奴だな」と笑いながら頬を滑る指とか、離れないようにとお腹に回された腕とか、何かもう全部心地良くて。

「まるこ、さん」
「ん?」

優しく聞き返す声に、私は一体何て言ったんだろうか。
分からないまま私の意識は微睡んでいった。




父さんと母さんが事故で死んだのは私が小学生の頃だった。三年生か四年生かそこらだったと思う。
父さんは普通の会社員で母さんは専業主婦で、二人はすごく仲が良かった。並んで歩く二人の間に割り込んで二人と手を繋ぐのが好きだった。
高校生だった兄貴はとんでもない不良で、父さんとの喧嘩が絶えなかった。家に帰って来ない日も多くて、兄貴の話になると母さんはいつも悲しそうに微笑んでいた。

私は、兄貴が嫌いだった。

父さんと母さんが事故に巻き込まれて死んだのは、父さんと兄貴がいつもより激しく言い争った次の日だ。前日、父さんは凄く怒っていて、兄貴も怒っていて、母さんは泣きそうな顔で私を抱きしめていた。

”るせぇ! とっとと死んじまえ!!”

そう吐き捨てて家を出て行った兄貴の背中は、今でもよく覚えている。
父さんは怒りと悲しみで顔を歪めながら拳を握りしめていて、母さんが鼻を啜っていた。
二人とも泣いていた。私も泣いていた。怖かった。あんな事を言った兄貴も、本気で怒った父さんも。

あの日は土曜日だった。
会社が休みのお父さんが買い物に誘ってくれて、でも私は前日の恐怖が拭えなくて友達と遊ぶ約束をしているのだと嘘をついて家を出た。本当に誰かと遊べば気が紛れるんじゃないかと思って友達の家に行ってみたけど、誰もが親と買い物に行くだとか遊びに行くだとかで断られて。人気のない公園で少しだけブランコに乗って家に帰った。

父さんと母さんはいなかった。
買い物に行ってくるという書き置きがあって、私は一緒に行かなかったことを後悔した。

一緒に行けば良かった。
何時に帰ってくるんだろう。
早く帰って来ないかな。

そんなことを思いながら、誰もいないリビングのソファで膝を抱えた。興味のない番組は寂しさをちっとも紛らわせてくれなくて。
早く帰ってきて――そう強く願った時、玄関の戸が開く音がした。
帰ってきた!嬉しくなってリビングを飛び出した私を待っていたのは、父さんでも母さんでもなくて。

”………何だよ”

大嫌いだった兄貴だった。
家を出て行くと兄貴は言った。荷物を取りに来ただけだと、そう言って部屋に行ってしまった。
また泣きそうな顔の父さんが浮かんで、母さんが静かに泣くのが浮かんで、私は兄貴の後を追って部屋に向かった。

行かないで。父さんと仲直りして。
私の願いはちっとも聞いてもらえなくて、兄貴は泣きじゃくる私なんか見向きもせずに家を出る準備をしていた。当然だ、だって私は兄貴に出て行って欲しかった。父さんたちを悲しませる兄貴が嫌いだった。いなくなれば良いのにっていつも思っていた。でも、本当にいなくなったら父さんたちが悲しむから。兄貴なんかいなくたって良い。ただ、父さんたちに悲しんで欲しくなかった。

どうしたら良いのか分からなくて立ち尽くしていた時に鳴り響いた電話。
これ幸いと兄貴の部屋を後にした私は急いで受話器を取った。もしかしたら父さんかもしれない、母さんかもしれない――そんな願いも虚しく、知らない男の人の無機質な声が耳に響いて。
告げられた内容に何度も何度も聞き返して。そんなの嘘だって叫んだ時に背後で音がした。振り返れば訝しげな兄貴がこっちを見ていて、その手には大きな荷物。もう何が悲しいのか分からなくて、声を上げて泣いた。

”おい、何なんだよ”

大声で泣き出す私をうざったそうに見て、兄貴が私から受話器を奪い取った。電話の向こうにいる相手と一言二言話して。

兄貴の手から荷物が落ちた。
私は益々大きな声で泣いて、泣いて、泣いて。

ぼやけた視界の先に見えた兄貴の背中が、前日に見た父さんの悲しげな背中と重なって見えた。




「何だ、起きちまったのか」

ワリィな、と心の篭もらない謝罪を口にした兄貴が私に布団をかけてくれる。マルコさんの腕の中で眠ってしまった私を運んでくれたらしい。ぷんぷんと漂ってくるお酒の臭いに「くさい」と訴えれば「へいへい、そりゃすんませんね」なんて投げやりな謝罪が返ってくる。

「ゆめ、みた」
「んぁ?」
「おとーさんと、おかーさんの」

薄暗い部屋の中で兄貴が振り返る。ベッドの端に腰を下ろした兄貴の大きくてゴツイ手が伸びてきて私の目を覆った。
そんな事しなくても、暗くて殆ど何も見えないのに。

「そーか」
「うん、わらってた」

嘘だ。
父さんと母さんが死んだという電話がかかってきた時の夢――もう何度も何度も見た夢。
何度も何度も見て、魘されて、起きて、泣いて。泣いて、泣いて、ひたすら泣いて。でも、兄貴は一度も泣かなかった。

あぁ、違う。そうじゃない。
一度だけ。たった一度だけ。
瞼の裏に浮かんだ兄貴の泣き顔を思い出して微笑む。

夢に見たことはないけど、でも、きっと。
もし夢に出てきてくれることがあれば、二人は絶対笑っているはずだ。

「にーちゃんがやさしいから、いっぱいわらってたよ」
「そーか」
「うん、きっとにーちゃんの夢にも出てくるよ」
「そりゃ怖ェな」

兄貴が笑ったのが気配で分かって、温かい手が離れていった。

「お前に変な虫が付いちまったって、どやされちまう」
「それ、マルコさんのこと?」
「まさか俺のダチとくっつくなんて、夢にも思わなかっただろうからな」
「不良だったもんねぇ、ふたりとも」

当時の兄貴とマルコさんを思い出して笑う。笑える。今だから、笑える。
あの頃は悲しくて仕方なかった。今だって、もし二人が生きていたらと思う時もある。

でも、傍にいてくれた。
兄貴も、マルコさんも。サッチさんも他の皆も、ずっと一緒にいてくれた。

「兄ちゃん」
「すっかり目ェ覚めちまったみてぇだな」

何だ?って兄貴が笑う。
記憶の中の父さんと同じ顔で笑う。私の顔も母さんに似てきたんだろうか。

「すきだよ」

あの頃はきらいだったけど。そう続けた私に、兄貴は嬉しそうな申し訳なさそうな顔で曖昧に笑った。

「たまに可愛いよな、お前」
「何言ってんの――」
「そいつはいつだって可愛いよい」

私の言葉を遮って聞こえた声。内容は私が言おうとしたものと全く同じだ。
兄貴と同時に振り向けば、開いたドアの所に不満気な顔のマルコさんが立っていた。

「何怒ってんだ?」

首を傾げる私の気持ちを代弁してくれる兄貴。
不満気な顔のままこっちにやって来たマルコさんは、何故か兄貴に掴みかかった。
ちょ、何してんの?と問う間もなくマルコさんが口を開く。

「俺だってまだ言われてねぇのに……!」





酔っ払い、空気読め





呆れた視線を向ける私たち兄妹に気付いているのかいないのか、マルコさんは悔しそうな顔をしている。
本当にコレで良いのか?こっちに向いた兄貴の視線がそう問いかけてくるのに溜息を返して。

「はいはい、マルコさんすきですよー」
「心がこもってない、やり直しだよい」
「「酔っ払いうぜぇ」」

私と兄貴の声が重なったことは言うまでもない。