ぴちゃん、ぴちゃん。
水が滴る音に目を伏せながら、大きく深呼吸を一つした。
そっと目を開けば、湯気が充満した浴室の壁にある大きな鏡の中の自分と目が合う。
本当にいいのか?
鏡の中の自分がそう尋ねる。
「いいんだよ」
答える声は迷いなど無いが、感情すらも無いようで笑えた。
浴室を後にしてバスタオルで軽く身体を拭いて身体に巻き付ける。
こういう展開って初めてだからよく分からないんだけど、バスタオルで巻いて行けば良いんだよね?
着てた服をもう一回着て出てってもアレだし、素っ裸で出ていく勇気はさすがにない。
ノブに手をかけてもう一回深呼吸。
すーはー。すーはー。すーはー。
予定より多くなっちゃったけど、まぁいい。
よし。グッと唇を引き締めて、髪の毛から滴る雫を指で払って扉を開けた。
「お待たせ」
ムード作りの為なのか、ただ単に癖なのか、部屋は薄暗かった。
窓の外はまだ明るいけど、完全に閉められたカーテンのおかげで部屋の中は中々に薄暗い。
二メートルほど距離があるこの状態で、まだ相手の男の顔は見えない。ぼんやりシルエットが見える程度だ。
「あー……えっと、ごめん。私こういうの初めてで」
どうしたら良いか分からないから、教えてくれる?
そう続けると、微動だにしなかった影がゆっくりと動いた。おいで、とばかりに伸ばされた腕にそろそろと近寄れば、途端に速くなる心臓の音。
あぁ、もう。煩い。女は度胸だ!
大きな手に腕を掴まれて、強すぎない力で胸の中へと引き寄せられた。
マルコと同じくらいの身長。マルコと同じくらいの体格。
さすがに顔や髪型までは同じじゃなかったけど、多分無意識にマルコと似た男を探しちゃったんだと思う。
しょうがないじゃん、どうしたってマルコが好きなんだもん。
マルコ以外の男の腕の中は、思いの外居心地が良かった。
何でだろう、もっと気持ち悪く感じると思ってた。
まるでマルコに抱きしめられてるみたいだと、そんな錯覚まで起こしてしまう自分に自嘲して。
メリハリの少ない身体だし、初めてだし、可愛い顔をしてるわけでもない。
船のナースたちは誰もがナイスバディで美人で、それが普通だと思うから、やっぱり私は普通以下なんだろうと思う。
一応、確認は取った。
本当に私でいいのか、と。この人は笑って頷いてくれたけど、やっぱり心配になってしまうもので。
「あ、の……ごめん、そんな楽しくないかも」
ただでさえ、初めてで何も分からないんだから。
何かしてあげられるわけでもないし、噂によれば初めては痛いらしいし。ちょっと怖い。
ベイは「訓練の時にできる傷の方がよっぽど痛いわよ」って言ってたけど、本当だろうか?
「それでも良ければ、えーと、ど、どうぞ」
一歩下がって距離を空けて、俯いたまま小さく両手を広げてみた。
相手からの反応はない。無言。ひたすら無言。
え、なに。今更やっぱナシってなるの?何それすごい恥ずかしい。
「あ、あの――?」
おそるおそる顔を上げようとした途端、後頭部に手が回ってまた逞しい胸に顔を押し付けられた。
ぶっ。可愛くない声が出たのは仕方ない。ちょっと痛かった。乱暴すんなバカ。
それっきり何のアクションも起こさない相手に、緊張よりも困惑が強くなってきた頃。
聞き覚えのありすぎる声が、鼓膜を震わせた。
「本気なんだな」
「………!?」
驚いて顔を上げようにも、押さえつけられたまま動けない。
押し付けられた胸からダイレクトに響いてきた声。それは間違いなく、ここにいるはずのない人のもので。
マルコの、もので。
「ど、して……」
掠れた声が口から溢れ出た。
「本気で、あの男に抱かれるつもりだったんだな」
確かめるように紡がれたそれは、確信を持っていて。私の答えなんて求めていない。
「あんな、女を食いもんにして生きてるようなクズに」
別にあの男だから選んだわけじゃない。
ただ、女慣れしてそうだったし。なるべく痛くない方がいいし。
身長も体格もマルコに似てたし。どうせならマルコに似てる方がいいし。
けど、そんなこと言えるはずもない。何て言えっていうんだ。
そもそも、何でマルコがここに?どうして?
「あ、の……さっきの、人は?」
「気になんのかい」
そんなにあの男が良いのか。そう尋ねられて言葉に詰まる。
そんなわけない。そういう意味じゃない。
ただ、私と関係を持とうとしていた男がマルコにどんな目に遭わされたのかと思って……少しだけ同情しただけだ。
「あの野郎と寝て、それで何か変わんのかい」
答えられなかった。
だって、そんなの分かんないもん。分かるわけない。
劇的に変わるはずがないって事もちゃんと分かってる。
それでも。
「……変わるかも、しれない、じゃんか」
「変わらねぇよい」
何も。微塵も。感情の篭らないマルコの声が追い打ちをかける。
どうしてそんなこと言うの。
変わるかもしれないじゃん。変わるって信じるしかないじゃん。
今のままじゃ、ダメだから。何とかしたかったんだよ。
どうしたら良いのか必死に考えて、それで答えを出したんだ。
一度や二度抱かれたって変わらないかもしれない。
後悔するだけかもしれない。
それでも、何か変わったかもしれない。
私の気持ちが、ほんの少しでも変わったかもしれない。
何かが、変わったかもしれない。
「お前が後悔して、俺が後悔して、それだけだ」
お前は泣いて、俺は怒って。ただ、それだけだ。
良いことなんざ何一つありゃしねぇ。
まるで未来が分かってるかのように、マルコは私を諭す。言い聞かせるように。
「やだ」
短く、けどハッキリと拒絶した私にマルコが息を呑んだのが分かった。
「私は、マルコの人形じゃない」
後悔しても、泣いても。
何も変わらなくても、変わったとしても。
間違っていても、それでも。
「もう子どもでいたくないの」
もうガキじゃない。いくつだと思ってるんだ。
いつまでも男を知らないなんて、滑稽じゃないか。
「それにさ! こういうのから始まる恋だってあるでしょ?」
うそ。マルコ以外を好きになるつもりなんてない。
けど、今のままじゃ妹としてしか見てもらえないから。
今までだってずーーーっと妹で我慢してきたんだ。
もうちょっと我慢して、他の男と寝て、経験を積んで。
それで、いつか一人前の女になれたら。
そしたら、またマルコに好きだって言いたい。
「だから、邪魔しないで」
わざと突き放すような言い方をして、目の前の胸板をグッと押し返す。
呆気なく距離をくれたマルコにほんの少しだけ痛む胸に自嘲して。
あの人がどうなったか分からないけど、取り敢えず今日は無理そうだと判断して置いてきた服を取りに行こうと踵を返したその時だ。
「ふざけんな」
苛立ったような声に思わず足を止めた。
びくりと震えた剥き出しの肩を大きな手が掴んで、グッと力が篭る。
こわい
恐怖が一気に全身を駆け巡った。
今まで、こんな声をかけられたことなんてない。
怒られた時だって、こんなものじゃなかった。全然違った。
きら、われた……?
ひゅ、と息を呑んだ瞬間、強い力で突き飛ばされた。
ぼふん!クッションになってくれたベッドの上に投げ出されたおかげで痛みはない。
「ま、る」
引き攣った声で名前を呼ぼうとした私に、大きな人影が覆い被さってくる。
それはマルコで間違いないはずなのに、全然知らない人みたいに思えた。
「、る、こ?」
「好きだっつったり、諦めるっつったり……勝手にベイの所に逃げて、挙句にどこの馬の骨とも知れねぇ野郎に簡単に脚開こうとしやがって」
口早に紡がれる言葉は確かに私への怒りを露にしている。
こわい。
いやだ。
こわい。
何で。
だって、マルコが。
だって、だって、だって――。
ベッドに投げ出された拍子に、身体に巻きつけていたバスタオルが外れたことにすら気付けなかった。
首筋をつ、と撫でる手にビクリと身体を震わせれば、それに気付かないはずがないのにマルコは構うことなくその手を下へと伸ばしていく。
遠慮を知らない手が、鎖骨を撫でていく。
私の知らない感覚を呼び起こす手は、確かにマルコの手なのに。
知らない。
こんなの、知らない。
マルコ。声にならない声で名を呼んで、マルコを見上げて――息を呑んだ。
「、」
「誰でもいいってんなら、俺に寄越せ」
その言葉の意味を理解することも出来ないまま、唇に押し付けられた何かに更に混乱して。
考えることを放棄した。