定刻でアルバイトを終えて店を出たリサの携帯にかかってきた電話。取り出して見てみればそれは出来ればもうお目にかかりたくない曲者からのもので。渋々と出てみれば「やぁ、お疲れさま。頑張ってね」と語尾にハートマークがつきそうな甘ったるい声。
何がですか
そっち行ったから
は?
私たちのことバラしちゃった
え?
じゃあね
一方的に切られた携帯に首を傾げながら、意味が分からないとポケットに携帯を押し込んで。
――レイ
直後に届いた矢羽音に全身が凍りついた。
え、待って。うそ。本当に?あれ、やだちょっと待って。雑渡さん何て言った?バラした?え、何を?え、うそ、本当に?
ガンガンと警鐘が鳴り響く。逃げろと言っている。どうやって。足が動かない。足を止めてしまった。後ろの男にはもう自分が桜井レイだと知られている。逃げられない。
「そんなんじゃ、忍にはなれないぞ」
そう言った彼が後ろで笑ったのが分かる。それすらも恐ろしい。
「――久しぶり」
あぁ、駄目だ。私死んだと思った。
ひゅっと息を吸い込み、ごくりと生唾を飲んでおそるおそる振り返った先にいるのは、会いたくて仕方がなかったはずの男で。けれど今は会いたくない男で。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるのに足が竦んで動けない。怖い。色々な意味で怖い。
「、ど、して」
掠れた声が喉から出た。男は答えない。
眩しそうに目を細めてこちらを見つめる男が、ただただ恐ろしくて堪らない。背筋だけでない、全身が凍りついてしまったようだ。
「あー……いや、すまん。どっちで呼んだら良いのか分からないが………」
警戒心を抱かせない為か、男が気さくに笑いかけてくる。けれどこの土井半助という人間を少なからず知ってしまっているリサからすれば、ただただ恐怖しか浮かばない。恐ろしい。何度も彼に説教を受けた過去の自分が逃げろと訴えている。逃げられるものならとっくにそうしているのだ。足が動かない。
「取り敢えず、聞きたいことがある」
すっと伸びてきた手にびくりと身体が揺れた。身を縮こまらせて何とか逃れようと試みたが、男はそれで許してくれることはなく。
かさついた無骨な手が頬に触れた瞬間、ひくりと喉が鳴った。どうしようもなく怖くて逃げたいのに、心とは裏腹に男の温もりに涙が止めどなく溢れていく。温かい手が優しくて、懐かしくて、嬉しくて。
男の手に促されて顔を上げると、愛おしげに目を細めた男の指が確かめるように何度も頬を撫でた。はぁ、と湿った吐息が漏れ出る。
「、――」
土井先生。
そう囁こうと口を開きかけたその瞬間。
「――雑渡さんとのこと、私は聞いた覚えがないんだが?」
優しく頬を撫でていた指が容赦ない力でリサの頬を抓った。
「ひぃでででででっ!!! ひだい!! ひだい!!」
頬を容赦ない力で抓る手をどうにかしようと男の手首を掴んだり腕を叩いて訴えてみるが、返ってくるのは「んー?」という恐ろしいほどに優しい声だけだ。痛い。怖い。誰か助けて。助けを求められる相手はここにはいない。
「ごえっ、ごえんらはい!! ごえんらはい……!!」
何度も何度も、必死に謝罪の言葉を重ねると漸く解放された。ジンジンと痛む頬を押さえて蹲りながらリサはぐすぐすと鼻を啜る。昔から変わらない。容赦なさすぎだ。痛い。本当に痛い。
「、い、だい……っ」
「自業自得だ」
「っ、お、れの所為じゃない……っ! あれはっ! 雑渡さんがっ!」
「聞いたよ。言わなかったのが悪い」
「だって! 怒るじゃんか!」
「黙ってたからだよ。それから、女の子が「おれ」って言わない」
むぎゅ。今度はただ頬をつまんだ指が目尻に残った涙を拭い取る。
色々と言いたいことがあって、けれど声となるものはどれ一つとしてなくて。
「………何で黙ってたんだ?」
そう問われてリサは半助から視線を逸らしぐっと唇を引き結んだ。
「まぁ、何となく想像つくけど」
じゃあ聞くなと心の内でぼやいたら「今、じゃあ聞くなって思っただろ」とまた頬を抓られて涙が滲んだ。
生まれ変わっても土井半助は土井半助だと実感させられるリサは知らない。自分が死んだ後のことを。過去に土井半助として生きたこの男の末路を。何も知らない。だからこそ口にする。
「……せんせーは変わんないですね」
顔を見ないままに僅かばかり唇をひん曲げてぼやいたそれに返事はない。返ってきた沈黙にあれ?と内心首を傾げながらちらりと半助の様子を窺えば、半助は何とも言えない顔でこちらを見下ろしていた。
「………せんせ?」
「――そうだな」
どうしたの?と続ける間もなく返ってきた声にホッと安堵の息を漏らしたと同時に温もりに包まれた。驚き声を上げる間もなく肩に顔を埋めた半助の声が耳に届く。
「お前がいるからだ」
「、」
「お前がいるから、私は私でいられる」
「………は、はは……どーしたのせんせー、何か……こわい」
「次は出席簿が良いか?」
さっと取り出された黒い長方形。何度も痛い思いをさせられたそれを目の前に出され、リサは「どこから出したの!?」と叫びながら咄嗟に半助の手首を掴んだ。男だった頃でさえ敵わなかったのだから、女となった自分の抵抗など高が知れているだろう。それでも咄嗟に手を伸ばして抵抗を試みてしまったのは、それを見た瞬間に条件反射のように痛みを思い出したからだ。
「お、落ち着いて……! だっ、先生が変なこと言うから!」
「煩い! 何が変なことだ! 人の気持ちも知らないで……っ!」
「ご、ごめんなさい! 謝る! 謝るからそれしまって!」
お願い! 無理! 痛いのやだ!
必死になって訴え続ければ、ぎろりとこちらを睨み付けていた半助は大きく舌打ちをして出席簿をしまってくれた。どこにしまったのかはよく分からない。この人生まれ変わっても忍者なのか?という疑問まで浮かんだ。
「レイ――いや、リサか」
独り言のように名前を口にした半助をおそるおそる窺うと、ふ、と息を吐き出した半助がこちらを見た。
真っ直ぐ見据えてくるその目に思わずたじろいで、それでも何とか視線を逸らさずに見つめ返すと大きな手がくしゃりと頭を撫でる。
「お帰り」
「、」
「あんまり遅いから、迎えに来てしまったよ」
「………!!」
眉を下げて笑う半助にぐっと唇を噛みしめた。
声が出ない。
じわり、じわりと目の前が滲んでいく。鼻がツンとして痛い。
もう二度と会えないと思っていた。
もう二度と会ってはいけないと思っていた。
それでも会いたくて、声が聞きたくて。
自分だけが変わってしまったことが悲しくて。
”みんな、また一緒だったよ。きみ以外はね”
自分だけが輪から外されてしまったことが悲しくて。
帰る場所はもうどこにも無いと、そう思っていた。
「………かえって、いーんですか」
「他に帰る場所があるのか?」
揶揄うように尋ねられてリサは首を振る。
そんなもの、ない。どこにもない。
昔も今も、帰る場所なんて一つしかなかった。
「………どいせんせー」
「うん?」
「………っ、た、だい、ま……」
「………あぁ、」
お帰り。
その言葉と共に頬を包み込んだ大きな手を涙が濡らしていく。ぐしゃぐしゃになった顔に半助が苦笑を漏らしたのが分かって。宥めるように頬に触れるかさついた唇の感触に益々涙が溢れて。
「あ、いだ、がっだぁ……っ、」
止めどなく溢れる涙と一緒にずっと溜めていた気持ちを吐き出した。