とある教師の前進


「それじゃあ先生、また」
「………出来ればもう会いたくありませんがね」

にっこりと人の好さそうな笑みを浮かべる雑渡に、半助はぎこちない笑みを貼り付けてポケットの中の財布を強く握りしめた。せめて自分が飲み食いした代金くらいは払いたかったというのに、雑渡はにこにこ笑いながら半助の訴えをのらりくらりと躱して全額支払ってしまったのだ。店の外に出て「では頑張ってください」なんて笑顔で見送られる雰囲気になっているが、流され続けるわけにもいかない。

「雑渡さん、私は貴方に奢ってもらう理由がありませんよ」

だからこそそう切り出したというのに、雑渡は相変わらず考えの読めない笑みを浮かべたまま半助の顔を指した。突然目の前に突き出された指に思わず身を引いて、その指が指す先へと視線を移して辿り着いたのは自分では見ることの出来ない額。

「それが理由にはなりませんか」
「…………随分と部下思いなんですね」
「いやぁ、先生には負けますよ」

間髪入れずに返ってきた言葉に半助はぐ、と言葉を詰めた。どうしよう、物凄く悔しい。勝てる気がしない。
出来ることなら今後はこの男に関わることなく生きていきたい。もう二度と会いたくない。それなのに、この男は言う。半助の心の内まで綺麗に見透かして言うのだ。

「それじゃあ土井先生、また」
「………えぇ」

頬が引き攣るのをどうすることも出来ないまま、半助は貼り付けた笑みで雑渡を見送った。

この平和な時代に新たに生を受けてから二十五年。半助は思う。自分はもう忍者ではない。もう二度と忍者にはなれないのだと。
そうしなければならないという強迫観念に囚われて鍛え続けてきたこの身体は、昔と全く同じといかないまでもそれなりの動きを出来るようにはなっている。けれど、心だけは。

”っ、土井、半助ェェッ……!!”

怒りと悲しみと悔しさ――色々なものが混じった目が。
ぎり、と食いしばった歯が。
深く刻まれた眉間の皺が。
色を失くすほどに強く刀を握りしめた指が。
溢れ出る涙が。
ぼたぼたと溢れ落ちて半助の頬を濡らした生温い液体が。

思えば、一度たりとて彼と本気で向き合ったことはなかった。あの頃の彼はまだ経験が浅く、また忍者の本分は戦いには無いという理由から適当にあしらっていただけだった。半助との本気の決闘を望み経験を重ねた彼に、自分はあのような残酷な仕打ちをしてしまった。

”………ありがとう、尊奈門君”

改めて思い返してみても、最低だ。どうしようもなく最低で、残酷で。雑渡が怒るのも無理はない。生まれ変わった今でも尊奈門が引きずっているのも無理はない。当然のことだ。

それなのに、良いのだろうか。

くしゃくしゃになったメモを取り出して、半助は思う。
尊奈門の為に、伊作の為に。憎むべき相手である半助を助けようとする雑渡の部下への想いが、ただただ痛い。これを受け取る資格は自分には無いと分かっているのに、それでもこうしてメモを開いて歩き続けているのは、これが雑渡からの遠回しな復讐だと理解しているからだ。

損な人だ。

つい先ほど分かれたばかりの男を思い出し、苦い笑みを浮かべた半助はメモをポケットの中へと押し込んだ。




二十四時間営業のコンビニエンスストアの前。半助は入口から少し離れた灰皿スタンドの脇に立っていた。コンビニに背を向ける形で立つ半助の耳には店内放送が薄らと届く。客が出入りするたびに自動ドアが開くと、今度は店員のお決まりの台詞が聞こえてきた。これで何度目だろうか。時計を確認してあと少しだとそっと息を吐き出す。手汗がじっとりと湿ってくる。緊張しているのだろうか。胃が痛い。

不意に携帯が震えた。取り出して受信したばかりのメールを開けば、弟から今どこにいるのかという問いかけ。
あぁ、そう言えば何も伝えていなかったなと今更ながら思い出して苦笑した。おそらくまたアルバイト先でお土産をもらったのだろう。友人たちと食べる分が減ってしまうだろうに、彼はいつだって最初に半助の元を訪れてお裾分けをしてくれる。兄弟だから当然だろとはにかむかつての教え子であり、我が子のような弟のような存在だった彼は、今世では血の繋がった実の弟となっているのだから驚きだ。

土井という姓を名乗るたびに嬉しそうにはにかむ弟が可愛くて仕方ないのだが、残念なことに互いに過去の記憶を持っている。兄として思う存分甘やかし構い倒してやりたいのだけれど、そのたびに恥ずかしいから嫌だと真っ赤な顔で叫び逃げる彼は、最近では教師と生徒なのだからと抱きしめさせてもくれなくなってしまった。少なからず残念に思っているのだが、さすがに生徒たちの手前それを表に出すことは出来ない。非常に残念である。

”レイ先輩はあんな人だったから、だから……兄ちゃんが傍にいないと駄目なんだ。だから、絶対見つけなきゃ”

俺も手伝うから!ときり丸が必死な顔で訴えてきたのはもう何年も前の話で、その様子から何となく知られているのだろうなと察した。どう返したら良いか分からず当たり障りのない返事をしたのだけれど、それにも拘らずきり丸は今でも桜井レイという人間を探してくれているらしい。乱太郎の何かを訴えるような視線にも気付いてはいたけれど、何と答えたら良いのか分からず知らないふりをした。彼らを導く教師である自分が逃げるなんて情けない。

「お疲れさまでしたー」

自動ドアが開いた。聞こえてきた店員の声はさっきまでのお決まりのものではなく、声も入口のすぐ近くから聞こえた。さり気なくそちらへ視線を向ければ、コンビニの制服から学校の制服へと衣装を変えた店員が半助とは反対の方向へ歩いていく。スクールバッグを漁り取り出した携帯はピリリと着信を告げていて、画面を見た店員が「げ」と呻いて電話に出た。

「もしもし」

何とも嫌そうな声である。電話はそう長くかからず、二言、三言話しただけで終わってしまった。携帯を制服のポケットを押し込んで去っていく彼女の背に、そっと呼びかける。

――レイ

二人だけの矢羽音があった。
最初はただ彼を助ける為だけのものだった。くのたまの悪戯を何度も受ける情けない生徒を助ける為だけのものだった。落とし穴に落ちた時、くのたまに囲まれた時、はたまた何かの事件に巻き込まれた時。生傷の絶えなかった彼を助ける為に作ったものだった。

二人だけの矢羽音があった。
それは終ぞ、彼と半助以外の人間が知ることのなかった、たった二人だけが知る矢羽音だった。

歩いていた店員の足が止まった。他の音など何もなかった。ただ、半助が飛ばした矢羽音だけだ。
止まった。店員の足が、確かに止まった。振り返ることはない。振り返ることが出来ないのだろうと分かる。
止まる気など無かったのだろう。もし彼女がコンビニの前に立つのが半助だと知っていたならば、最後まで反応することなく歩き続けていただろう。けれど彼女は知らなかった。一度たりともこちらを見なかったから。
思わず足を止めて。何でもなかったように歩き出すには大きすぎる失態を彼女は犯してしまった。

「そんなんじゃ、忍にはなれないぞ」

彼女からの返事はない。構うことなく半助は彼女に向かって足を進めた。
一歩、また一歩と足を進めるたびに彼女との距離が縮まっていく。すぐそこに、彼女がいる。こちらに背を向けたまま微動だにしない彼女が――いや、違った。微かに震えている。目を凝らして見なければ分からないほど微かな震え。
それが分かるほど近くに、彼女が。彼が。いる。

「――久しぶり」

レイ。リサ。どちらの名前で呼べば良いのか分からず、半助はただそれだけを口にした。
どうやらそれは正解だったらしい。彼女がひゅっと喉を鳴らして、それからゆっくりと振り返った。

「、ど、して」

掠れて上擦った声が半助の鼓膜を震わせる。
今にも泣き出してしまいそうなのを必死に堪えて俯いた彼女は、つい先日スーパーで初めて出会った少女だ。

知らない少女だった。
きり丸が突然「あっ!」と叫んで駆け出し、追った先で彼女の持つカゴを掴んでいた。

知らない少女だった。
町内会の掃除の日、ジュースを奢ってくれたと聞かされただけの少女だった。

知らない少女だった。
けれどどこか覚えのあるような、不思議な少女だった。

知らない少女だった。
レイと同じ姓を持つ少女は、どこか挙動不審で怯えているようにも見えた。

知らない少女だった。
けれど、半助とレイだけしか知らないはずの矢羽音に反応した少女だった。

半助が無意識に「レイ」と呼んだ少女だった。

「あー……いや、すまん。どっちで呼んだら良いのか分からないが………」

びくりと少女の肩が揺れる。
スクールバッグの紐を持つ手に力が篭ったのが見えた。

「取り敢えず、聞きたいことがある」

少女に向けてそっと手を伸ばすと、再び身体を揺らした少女が更にぎゅっと身を縮こまらせた。
それに構うことなく頬に手を伸ばしてこちらを向けさせれば、ついに決壊した涙がぼろぼろと溢れて頬を濡らしている。ひくりと喉を鳴らした少女の両頬に触れ、確かめるように何度も何度も親指で頬を撫でて。

「――雑渡さんとのこと、私は聞いた覚えがないんだが?」

ぎゅううう、と。力強く頬を抓ってやった。