とある教師の悔悟


「お前は馬鹿だ」
「いだっ!」

飛んできた醤油皿が半助の額に直撃した。加減されたそれが割れることはなかったけれど、当てられた額は中々に痛い。そっと触れてみると微かに腫れていた。酷い、明日も授業があるのに。どうしたのかと尋ねられたら何と答えれば良いのだ。

”ちょっとツラ貸せ”

放課後、仕事を終えて寮へ戻ろうと校舎を出た所で、門の付近に立つ尊奈門を見つけた。顔を合わせるなり素っ気なくそう言った尊奈門は半助の返事を待たずにスタスタと歩き始めてしまい、どうしたものかと悩みはしたが結局はこうしてついて来た。

そして向けられる容赦のない言葉の刃たち。
的確なそれらは傷心の日々を送っていた半助の傷口を更に押し広げ、その上たっぷりと塩を塗り込んでくれた。

仕方のないことだと思う。それだけのことを自分はしてしまったのだから。
あの頃はもっと幼い印象を与えていた尊奈門は、最期に会った時には今のような冷めた雰囲気を纏っていた。それは半助から送られた果たし状の所為であることは容易に推察出来たが、今になって思い返してみてもやはり彼しかいなかったのではないかと半助は思う。

謝罪の言葉を受け取る気はないと言い放った彼が何を望むのかは半助にも想像がついて、けれど今の自分ではそれに応えられないということも理解していた。謝罪の言葉以外に何もないのだ。何も言えない。
酒の所為にしてずっと溜め込んでいたものを吐き出してもみたが、尊奈門は目を細めただけで何も言わなかった。何かを考え込むようにして目を伏せた尊奈門から漸く返ってきた言葉は「幸せになりたいか?」という問いかけ。
無意識にしてしまったらしいそれに舌打ちを零した尊奈門に自分の考えを告げれば「だから嫌いだ」と言われてしまった。そんなこと、あの頃からずっと知っているというのに。

「何が”幸せならそれで良い”だ」

ぐい、とビールを一気に飲み干した尊奈門が吐き捨てる。
どうでも良いけどこの子未成年なのにどうしよう、なんて考えてしまったのは、これから告げられるであろう尊奈門からの言葉が怖いからだ。逃げたい。そう、逃げたいのだ。ついて来てしまったことを半助は後悔していた。

真っ直ぐな男だった。
いつだって「勝負しろ!」と真っ直ぐにぶつかってくる男だった。それは半助にとって迷惑極まりないものでしかなかったけれど、めげずにひたすら突っ走る尊奈門を羨ましく思ったのも事実で。
自分は尊奈門のように脇目も振らず突っ走ることは出来ない。どんなに望んだって手に入れられないのだと理解していたから。もし自分が尊奈門だったら、後先考えずに「行くな」と手を伸ばすことが出来たのだろうか。

考えて自嘲する。そんなことをすれば桜井レイという人間が壊れていただけだ。
どうしようもなかったのだ。他に選択肢など無かった。正しかったかどうかは分からないが、少なくとも間違ってはいなかった。

けれど、帰ってきて。

”――お返し、します”

脳裏に焼き付いたあの姿が変わり果てて帰ってきたのを見て。
あぁ、本当に死んでしまったのだと受け入れてしまって。お帰りと囁いてしまって。
すとんと落ちてしまったのだ。何かが。骨だけとなったレイにそっと触れて、もう良いかと思ってしまった。

彼らを責めるつもりはない。彼らが間違っていたのかどうかも分からないから。
レイが変わり果てていくのを目を逸らさずに見つめ続けたのだろう彼らの想いを否定する気なんて起きなかった。

仕方ないのだと思った。
仕方なかった。こうなる運命だった。そうやって受け入れてからは、幾分か穏やかな気持ちになれたと思う。
変わり果ててしまったとしても、アレは桜井レイだったから。共にいれることを幸せだと思った。思ってしまった。

「私はアイツが何を考えてるかなんて知らない。知りたくもない。お前の考えてることだって知りたくない。けどな、これだけは分かる」

そう言ってテーブルに手をついた尊奈門がぐっと身を乗り出して。伸びてきた手が半助の胸倉を掴んだ。

「幸せな奴なんか、どこにもいない」
「、」
「前に進んだ奴もいない。納得したフリをして誤魔化してる馬鹿がいるだけだ」
「そんなも、く、」

名前を呼ぼうとして、更に強く引き寄せられる。
間近に見える尊奈門の大きな丸い目が、真っ直ぐな目が情けない顔をした半助を映し出していた。
あぁ、止めろ。止めてくれ。そう思うと同時に、彼の目に映る自分の顔が歪む。

「いつまで逃げるつもりだ! 土井半助!!」
「っ、」
「正々堂々勝負しろ!!」

それは。
それは、過去に何度も言われた台詞で。

あの頃と変わらない真っ直ぐな目が半助を見据えている。
その目に映る自分はこんなにも情けない顔をしているのに。

「過去のお前が喪ったものは、今のお前とは関係ない」

いいかよく聞け、土井半助。
真っ直ぐな目で。真っ直ぐな声で。尊奈門は言った。

「今は戦乱の世ではない。私たちは忍でもない。お前が、お前たちが……っ、私たちだって、幸せを望んだって良いじゃないか……!!」
「――、」

何を言おうとしたのかは分からない。ただ無意識の内に口を開いて、けれど音を発する前に半助は尊奈門に突き飛ばされて尻餅をついた。悔しげな顔で、その目に薄らと透明な膜を張った尊奈門はパーカーの袖でぐいと涙を拭い去ると帰ると呟いて立ち上がる。

「、尊奈門君……!」
「私はあの頃の自分が不幸だったとは思わない。あんな時代でも私にだって幸せだと思う時はあった。心残りがあるとすれば一つ」

お前を我が宿敵と思い続けていたことだけだ。

障子を開け放ち、靴を履いた尊奈門はそれきり何も言わずに帰ってしまった。
一人残された半助はテーブルに残る料理たちと、空いてしまった向かいの席をぼんやりと見つめた。

「……………馬鹿だな、君は」

こんな男を宿敵だなんて。自分は逃げたのに。あんなにも最低な頼みごとをしたのに。
くしゃりと前髪を掴み、半助は大きく息を吐き出した。湿っぽいそれは、内に溜まっていた何かを全て外に出してくれたようにも思う。

”――レイ……?”

あの日、無意識に飛ばした矢羽音に少女は微かに肩を揺らした。振り返る事こそしなかったけれど、確かに届いたのだ。

”………リサ、です。桜井、リサ”

桜井レイだった彼は、桜井リサとして生まれ変わっていた。男ではなく、女として。

「……………今度は、」

今度は、良いだろうか。この手を伸ばしても。
彼は――彼女は受け止めてくれるだろうか。受け入れてくれるだろうか。

あー、と意味のない音を発しながら天井を見上げる。
天井から吊るされた灯りから庇うように目を覆えば、つい先日会った彼女の姿がはっきりと見えた。

忍装束を着ていた顔の見えないレイの姿が、先日見た彼女へと塗り替えられていく。
思い出せなくなってしまった声を再度探してみれば、やはり先日の彼女の声へと変わっていて。

半助は小さく笑った。