とある教師の渇望


「本日の授業はこれまで!」

教科書を閉じながら宣言すれば、生徒たちが「ありがとうございましたー!」と声を揃える。過去の記憶と変わらない風景に思わず頬を緩めながら、土井半助は忍装束ではなく学生服に身を包んだ生徒たちを眺めた。
帰りの支度を終えた頃から始まるホームルームはものの数分で終わり、委員会へと走っていく生徒たちに廊下は走るなよと注意して一息ついた。今日も一日、平和だった。

「土井せんせー!」
「ん? どうしたきり丸」
「町内会の掃除っていつでしたっけ?」
「あー……いつだったかな」

はて、いつだっただろうか。思い出せない。
腕を組み暫し記憶を辿ってみるが、どうにも日付が思い出せない。

「すまん、部屋に戻って確認してみるよ」
「もー、早めに教えてくださいよー?」
「あぁ、あとでメール入れとくよ」
「お願いしまーっす! んじゃ、僕はバイトに行くんで!」
「気を付けろよー!」

はーい!と元気よく返事をして駆けていくきり丸の背を見送り、はたと気づく。

「廊下は走るなー!」

叫ぶも時既に遅し。きり丸の姿は無かった。
はぁ、と溜息を落とした半助は出席簿を手にして教室を後にする。職員室に向かって進みながら、途中すれ違う生徒たちと挨拶を交わし、走る生徒たちには「こら、走るな」と注意をして。

「土井せんせー!!」

背後から呼び止める声に足を止めて振り返れば、委員会に向かったはずの猪名寺乱太郎が血相を変えてドタドタとこちらに駆けてくる。

「こら乱太郎! 廊下は走るなと――」
「た、大変ですー!」
「――何だぁ?」
「と、とにかく! 保健室に来てください!」

叫ぶなり半助の手を掴んだ乱太郎が来た道を駆けていく。引っ張られるようにして足を進めながら、半助は尋常ではない乱太郎の様子にまた厄介事かと痛みを訴える胃を押さえた。

「やぁ、どうも。こんにちは」

乱太郎に連れられてやって来た保健室で半助を待っていたのは、保健委員長である善法寺伊作から茶を受け取っていた曲者――雑渡昆奈門だった。
記憶の中と違い今世では大火傷を負っていないこの男は、包帯と頭巾で覆い隠していた素顔を晒して暢気に茶を啜っている。

「………貴方、何してるんですか」
「久しぶりに伊作君たちに会いたいと思ってね。尊奈門も貴方に会いたいと言っていたから」

来たんだよ。その言葉と同時に左で風を切る音がした。咄嗟に身を屈めれば上から降ってくる舌打ち。

「、尊奈門く――」
「覚悟!!」

間髪入れずに襲い来る尊奈門が手にする獲物が蛍光灯の光に反射してギラリと光る。うわ、と思わず声を漏らしながらも攻撃を見極めて全て躱せば、尊奈門が苛立ち紛れに再び舌打ちをした。
するりと躱したその瞬間に手にしていた出席簿を持ち替え、尊奈門の手首へと狙いを定めて振り下ろす。手から零れ落ちた獲物が床に跳ねると同時に足を出して部屋の片隅へと蹴りやれば、悔しさを隠しもせずに尊奈門が半助を睨み付けた。

「あー……久しぶりだね、尊奈門君」
「土井半助!! 私と勝負しろ!!」
「いやぁ、私らの決着はもう着いたでしょうよ」

ほら、ね。覚えてるだろう?と苦笑を浮かべたまま語りかければ、どうやらそれは尊奈門の気分を大いに害したらしく。

「あんなもの……!! 私は絶対に認めない!!!」

まぁ、そうだろうね。心の内で返事をして半助は苦笑を浮かべ続けた。それ以外にどんな反応をしたら良いのか分からなかったから。

「尊奈門」

雑渡が尊奈門の名を呼べば、尊奈門はぐっと拳を握りしめて俯いた。昔も今も、彼はどこまでもこの男に従順である。

「すみませんねぇ、土井先生。この通り全く納得していなくて」

そう言って目を細める雑渡にも半助は苦笑を貼り付けたまま言葉を濁す。それが面白いのか、雑渡はニタリと笑みを深めて茶を啜った。

「雑渡さん、今日はどんな御用でここに?」
「何だ、もう組頭とは呼んでくれないのかい」

伊作の問いかけに残念そうな声を出した雑渡は「今はもう部下じゃないですしね」と苦笑する伊作に肩を竦めると、伊作の髪に付いた埃を払った。大方、どこかで転んだりでもしたのだろう。生まれ変わっても保健委員長の不運は健在だ。

「君たちに教えてあげようと思って」
「何をですか?」

首を傾げる伊作を愉しげに見つめ、雑渡は人差し指を立てた。医務室中の視線がそこに集中する。

「――桜井レイ君」
「、」
「っ、見付けたんですか!!?」

身を乗り出して問い詰める伊作に雑渡はニコニコ笑いながら頷きを返す。
チラリとこちらを見たその目は、おそらく半助が微かに反応を示したことにも気付いているのだろう。

「偶然にも、会ってね」
「っ、どこで!! どこでですか!? 雑渡さん……!!」
「桜井先輩はどこにいるんですか!?」

伊作と共に乱太郎までもが雑渡に詰め寄る。必死な表情で教えて欲しいと頼み込む生徒たちを眺める雑渡をじっと見つめていた半助は、こちらを睨み付ける尊奈門の視線に気付いてそちらに視線を向けた。

「………」
「………」

考えの読めない目でこちらを睨み付ける尊奈門の視線が痛い。自分が悪いのだと知っている。分かっている。
けれど、それでも。何度やり直したとしても、きっと自分は同じ選択をしたのだろうと半助は思う。だからこそ微笑むことしか出来ないのだが、更に眉間のしわを濃くした尊奈門を見る限り、きっと自分は上手く笑えていないのだろう。

「会いたくないんだってさ」

雑渡の静かな声が医務室に広がる。

「、え……?」
「……そんな、」

乱太郎と伊作が呆然と呟くのを、半助は無言のまま眺めていた。
何故だろう。あぁ、やはりと思ってしまったのだ。

あの日、生命を落とした自分は再び土井半助として生を得た。前世の記憶を所持したまま、この平和な世界でぬるま湯に浸かっているような感覚を拭えないまま成長し、大川学園に就職した。記憶のそれと変わらない彼らと再会を果たし、生徒たちもこうしてやって来た。

ただ一人、桜井レイだけがいなかった。
その存在を誰にも知られないまま。彼が生まれ変わっているのかすら分からないまま。

何故だろうと考えることはしなかった。
生まれ変わっていないのかもしれないと考えたし、生まれ変わっても彼は姿を現さないだろうと考えてもいた。

あぁ、そうか。
やはり、彼は。

分かっていたことなのに。

”今日で……最後です”

そう言って悲しげに微笑んだ彼の顔がぼやけて見えない。
彼の台詞は覚えているのに、声が思い出せない。

彼はどんな顔だった?どんな声だった?

幼い頃から何度も何度も思い出そうとして、けれどそうすればそうする程に彼の姿は半助の中から消えていった。

もう顔も声も思い出せない。
桜井レイという名前と、彼が前世の自分にとって大切な存在であったことだけしか分からない。

「レイ……何で………」
「桜井先輩……」

肩を落とす伊作や乱太郎は覚えているのだろうか。あの頃、誰よりも彼を想っていた半助ですら、思い出せないのに。
あの時引き止めていれば良かったのだろうか。あの時行くなと引き止めていれば、彼は今も隣にいただろうか。

「……………レイ」

声に出さずに囁いた名前は生まれ変わった今でさえ、こんなにも半助の心を震わせる。
まるで呪いのようだ。そんなことを考えた半助は、今また彼の姿を思い出そうと目を閉じた。
思い出せないと理解しているのに。思い出せないと理解しているからこそ。求める気持ちは増すばかり。