とある少女の葛藤


「ねぇ、いいこと教えてあげようか」

男はそう言ってニタリと目を細めた。
記憶の中の男は右の目以外を包帯と頭巾で覆い隠していたが、今こうして目の前にいる男は惜しげもなくその顔を露にしている。記憶の中の姿とは全く違うというのに、この目だけは変わらない。
愉しげに細まるこの目だけは、記憶の中の男と何一つ変わっていない。

そう言えば、あの頃からそうだったなと遠い記憶に思いを馳せてみる。
出来得る限り記憶を辿ってみるが、どの場面でも対峙したこの男は愉しげに目を細めていた。そんな記憶しかない。
いつだって自分はこの男にとって道楽を与える存在でしかないことを思い出して溜息を漏らした。

「あまり聞きたくありませんね」
「おや、残念」
「その台詞はそれらしい声と表情でどうぞ。で、注文は?」

手元の伝票を見下ろし利き手にボールペンを握りながら促せば、手前に座っていた若い細目の男が「中生を四つ」と指を四本立てながら言った。伝票に『生中』と書き、その横の欄に棒線を四つ引いた。あと一本で正の字だ。

「はいはい、他は?」
「後でまた呼ぶよ」
「かしこまりました。では失礼します」

接客業よろしく会釈をして立ち上がると、ひらり。制服のスカートの裾が微かに揺れた。

「あぁ、レイ君」

呼び止める声に動きを止めて顔だけで振り返れば、相変わらずニタリと笑う男がその口を三日月に吊り上げて一言。

「似合ってるよ」

ニタニタ。わくわく。
ニタニタ。そわそわ。
こちらの出方を窺う男に、殊更にっこり微笑んで口を開いた。

「ありがとうございます、曲者さん」
「やだな、今の私は真っ当な会社員だよ」
「あらまぁ、それは失礼しました。でもね、包帯さん」
「どこにも巻いてないよ」

むぅ、と不満げな顔をする男の抗議の声を無視して言い放つ。

「私はリサですよ」
「あぁ、そう。そうだったね、リサちゃん」

男の愉しげな声と視線を背中に浴びながら、リサは振り返ることをせずその場を立ち去った。




生まれた時からリサはリサだった。
六つの頃に両親が離婚し、母親に引き取られてからは働く母親の代わりに家事を受け持つようになった。夜の仕事をする母親との会話など無いに等しく、時折邪魔者を見るような目で見られる以外は割と平和な日々を過ごしていたとリサは自身の過去を振り返る。
八つの頃に母親は再婚し、新たに父となった男はリサに優しかった。優しかったけれど、それが上辺だけのものだということも気付いていた。リサを見下ろす目が徐々に下卑たものに変わっていくことに気付いてからは気取られないように距離を取るようにしたが、その甲斐虚しく十四の頃に父となった男に寝込みを襲われそうになった。母親は当然激怒したが、何をどう考えたのかは分からないが怒りの矛先は男を誘惑したらしいリサに向けられ、もう限界だと家を追い出された。

学校の三者面談にはやって来るし、書類に記す住所はそれまで住んでいたものと同じであるが、リサの住む家は彼らから一駅離れた安いボロアパートになった。悲しいとは思わなかった。身の危険を回避出来るのだから、むしろ喜んですらいた。
毎月送られる少ない仕送りでやりくりをし、高校に入ってからは更にそれが減るとアルバイトでそれを補うようになった。この焼肉屋は週に三回入れており、それとは別に週に二回コンビニでアルバイトをしている。
辛いとは思わなかった。まぁこんなものだろうと考える程には、物事に動じない性分だったのだ。

焼肉屋でアルバイトを始めたのが高校一年の春。それから季節は巡り、二度目の春を終えたばかりの初夏、この男がやって来たのだ。
リサの中に残る記憶の姿とは異なる姿で、あの頃と同じ部下を引き連れて。
偶然だよ。男は言った。それは事実なのだろう。男が驚き目を瞠るのを見たのは、記憶の中を探っても初めてだったから。
また来るね。その言葉で締めくくられた一度目の再会。二度目の再会は、それからひと月経った日――つまり今日だ。

「お待たせしました、中生四つです」

ジョッキに注いだばかりのビールをテーブルに運べば、男はありがとうと心の篭らない声で礼を言った。

「注文良いか?」
「はい、どうぞ」

男の部下から注文を受ける間も、男は愉しげにリサを眺めていた。

「伊作君に会ったよ」

受けた注文を復唱し、間違いが無いかを確認して立ち上がった所を見計らって男が言い放った言葉。それに思わず足を止めたリサは、けれど振り返ることはしなかった。本音を言えば振り返りたかった。けれど、そうするとこの男が喜ぶことを知っていたから。

「そうですか」

努めて平静を装った返事に、男は愉しげな声で「うん」と相槌を打つ。あぁ、結局愉しませてしまったのか。
おそらくこちらが必死に冷静さを保っていることすら見抜いているのだろう。やはりこの男は苦手だとリサは思う。

「他の皆にも、会ったよ」

答えないリサに男は続ける。追い打ちをかけるかのように。

「みんな、また一緒だったよ」
「、」
「きみ以外はね」
「――失礼します」

心臓が。心臓が煩い。早足で奥へ引っ込んで、何度も何度も深呼吸をした。
あぁ、くそ。あの野郎。だから嫌いなんだ。だから苦手なんだ。いつだってあんな風に揶揄うのだから。

「桜井? どうした、具合でも悪いのか?」
「――、いえ…大丈夫です」

先輩に当たる男性に首を振って微笑みを返せば、あんま無理すんなよというありがたい言葉を頂いた。その直後に「これ四番テーブルな」と押し付ける辺りが先輩らしい。はいと頷いて受け取った料理の品々をトレイに載せて、リサは笑みを貼り付けた。

「お待たせしました」

慣れた営業スマイルで料理を運ぶ間も感じる男の視線。
それに混じって向けられるのは、男の部下たちの気遣わしげな視線だ。つくづく、あの男は部下に恵まれていると思う。あんな性格をしているくせに慕われるなんてずるい。

”みんな、また一緒だったよ”

男の放った言葉は予想以上に重くのしかかったようだ。微かに震える手が悔しい。
もっと上手に隠せたら良いのに。一度くらいこの男を翻弄してやりたいのに。

”きみ以外はね”

その夢が叶う日は、まだまだ遠いようだ。




生まれる前のことを覚えている人間はこの世界にどれほどいるのだろうか。
いわゆる前世というものを覚えているリサは、物心付いたころから違和感と戦っていた。前世の自分が男だったからだ。
忍術学園という忍を育てる学び舎で六年間勉学に励んでいた記憶は、まるで昨日のことのように覚えている。何故こんなにも鮮明に覚えているのだろうかという疑問はもうとっくの昔に答えを出すことを諦めた。

男としての記憶がある状態で女として生きることは酷だった。
気を抜くと自分を『俺』と呼んでしまい、気を抜くと仕草も男らしいものになってしまう。女物の下着やスカートなんて以ての外だ。
そんなリサを両親は奇妙なものを見るような目で見たし、極力関わらないようにした。自分の娘が普通でないことを受け入れることが出来なかったのだろう。

小学校に上がってからも苦悩は続いた。
男子女子の差が少なかった低学年はまだ良かったが、高学年になるにつれて生まれる女子と男子の差。性別の違いは時には彼らを仲違いさせたし、女子はグループというものを作って派閥争いのようなものまで始めるようになった。
少しでも『普通』にさせたかったらしい母親から与えられるのはどれもスカートで、毎日心許ない下半身に溜息をつきながら学校へと通っていたリサにはそんな事まで気を回す余裕などありはしなかった。女子トイレに入ることですら苦痛だったのだから、男女の機微だとか派閥だとかにまで考えが及ぶはずもなかったのだ。

学校では孤立し、家では新しい父親の視線から逃げる日々。
心身共に疲弊していたリサの唯一の逃げ場は放課後の公園で、人目を避けて木々が生い茂る場所を探しては一心不乱に鍛錬した。
鍛えて、鍛えて、鍛えて――それでも見下ろす自身の身体は、あの頃のようなものには到底ならなかった。
あの頃何度も見たくのたまの身体と重なる自身の身体は紛れもなく女で、けれど心は男のままで。自分を『私』と呼ぶことすら苦痛だったリサからすれば、中学に進学しても孤立した状態というのは逆に楽だったのかもしれない。

二次性徴を経て漸く自分が女であることを受け入れられるようになり、両親とも離れて暮らすようになってからはだいぶ気持ちが楽になった。気を休めることの出来なかった家が漸く本当の意味で帰る場所となり、気持ちに余裕が出来始めた高校では女の友達も出来た。
過去の友人たちと再会することは出来ないままであったが、自分が性別も名前も姿も変わって生まれ変わったのだから皆そうなのだろうと思っていた。

思っていたのに。

”みんな、また一緒だったよ”

あの男の言葉はどうしようもなくリサを揺さぶった。
一緒。誰もが一緒。リサ以外。否。リサではない。前世ではレイという名前の男だったのだから。

レイ以外は、みんな一緒。
レイだけが違う。

どうして?
どうして?
どうして?
どうして?

疑問の答えなど分かるはずもなく、ただただ彼らに想いを馳せるだけの日々が続いた。
男に尋ねれば教えてくれたのかもしれない。何だかんだ言って、あの男は前世で親友だった保健委員長には甘かったから。学園を卒業してから男の部下となった彼の為にも、教えてくれたかもしれない。

けれど、どうしてもそれは出来なかった。
出来ない理由があった。

降りしきる雨の中で見た彼らの泣き顔が消えない。
苦痛に顔を歪める彼らの叫びが、涙が、消えないのだ。

彼らを思い出しては、あるはずのない傷跡が痛む。
前世でレイの身を貫いた彼らの武器が、生まれ変わった今でもリサの身体に突き刺さっているような錯覚を覚えてしまう。

消えないのだ。
どうしても。
どうしたって、消えてくれない。

「彼らに、会いたくないかい?」

会いたいに決まっている。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。
けれど、男に答える言葉はただ一つしかない。

「――別に」

会えるはずが、ないのだから。

”……行くのか?”

はいと頷いたレイに「そうか」と呟いた彼の悲しげな笑みが、焼きついて離れない。