「はーい、そこまで」
ぱんっ。
間延びした声と共に、誰かが手を鳴らす。
教室中の視線が一斉にそちらに向けられた。
「あ」
「げ」
「ん?」
「あーーっ!!」
教室に入って来た人物を見て、リサ、ナミ、ゾロ、サンジがほぼ同時に声を上げた。
「あらら。こりゃ危なかったな、ぎりぎりセーフだ」
「………遅ぇんだよい」
確かに聞こえた舌打ちには敢えて触れるまい。
渋々と、本当に渋々と相川から手を離して立ち上がったマルコが首の裏を擦りながら戸口に立つ男を睨み付けた。
「手は出すなっつっただろうが」
「テメェが遅いのが悪い。それに、リサに殴りかかろうとしたから蹴り飛ばしてやっただけだ」
正当防衛だよい。
悪びれることなく飄々と続けたマルコに顔を引き攣らせたのは誰だっただろうか。
身長、体重共に健全な男子高校生が軽々と宙に舞うほどの強さで蹴っておいて、正当防衛と嘯くマルコに、けれどそれを指摘する者はいない。
恐怖に駆られていたのは、何もマルコと対峙した相川だけではないのだ。
「過剰防衛って言葉、知ってるか?」
「さぁ、聞いたことがねぇな」
嘘つけ。
反射的に呟いたナミは咳払いでそれを誤魔化して口を開いた。
「マルコさんが呼んだのよね? じゃあ、さっさとコイツらどうにかしてちょうだい」
死人が出る前に。
心の内で続けた言葉は、どうやら言葉を向けた相手に見事に伝わったようだ。
「んんっ、まぁ、そうだな。早いとこ終わらせよう。それからナミちゃん、今日も悩殺スーパーボイン最高。この後ヒマ?」
「ざけんなクソノッポ!! ナミさんを誘おうなんざ百万年早ェ!!!」
「あ、あの……貴方は一体………?」
突然の来訪者に困惑しつつも正当な質問を投げかけた教師に、男は額のアイマスクをポケットにしまいながら教室中を見回した。
「あぁ、こいつァ失礼。俺はクザンだ」
「はぁ……」
困惑する教師を余所に、クザンはマルコに寄り添うリサへと視線を向ける。
向けられたリサと言えば、クザンが現れた時点で慌ててマルコへ駆け寄りその腕の中に収まっている。
「こ、こんにちは……」
かけられる挨拶も何処かぎこちない。
「つれないじゃないの、そろそろ俺にも笑いかけてくれて構わねぇのに」
知り合って数年。
脅えさせるようなことをした覚えはないが、リサは一向にクザンに近づこうとはしない。
こうして挨拶を寄越すようになっただけマシと言えばマシなのだろうが。
けれど、クザンは知っている。
リサがこういう態度を取り続ける一番の原因は、当たり前のように彼女を腕に閉じ込めている男なのだと。
「必要ねぇよい。こっち見んな」
「理不尽って言葉知ってるか?」
マルコとクザンの関係は何とも複雑である。
過去、新米警官として派出所勤務だった頃に学生だったマルコと、ひと悶着どころか何度も何度も何度も悶着を起こした所為だろうか。
それは決して自分の所為ではなく、むしろ可愛げのない高校生だったマルコが悪いと思うのだが。
更生して真面目に就職したマルコとはその後も腐れ縁のという、何とも嬉しくないもので繋がっている。
そんなマルコから助けを求められてしまえば、クザンとしては応えないわけにはいかない。
警察官であるという事実は勿論、腐れ縁が続いた長い年月で、マルコという人間をそれなりに理解してしまったから尚更だ。
「まさかお前が俺に頼る日が来るとはね。ふあぁ……あぁ、すまん。嬉しくて涙が」
「欠伸じゃねぇか、欠伸ィ!!」
口煩く突っ込みを入れるサンジは、クザンの視線からナミを護ろうと必死にナミを背後に隠している。
そのナミから向けられるのは「サンジ君素敵!」という賞賛にキラキラした眼差し――などではなく。
「ちょっと、サンジ君邪魔」
事の成り行きを見届けたいと思うナミの言葉は、騎士を気取って仁王立ちするサンジを落ち込ませるには十分すぎるものであった。
「とにかくだ。あー……何だっけか――あぁ、そう。そうだ、そこの君たち」
そこの君たち。
クザンの目が壁際にぴったり張り付いている生徒たちへと向く。言葉と視線に加えて、指先まで向けられては勘違いだと思うわけにはいかない。
突然矢面に立たされた生徒たちは、困惑を露に「え?」と口々に零すばかりだ。
「俺はそこの怖いオジサンから話を聞いただけなんだけど、君たちの意見も聞きたいから、取り敢えず来てもらおうか」
「、ぇ……?」
”来てもらおうか”?
「あの……何処に………?」
「ん? あぁ、すまん。ちゃんと自己紹介する必要があったな」
困惑する生徒たちを尻目に、クザンはスラックスのポケットやらベストのポケットやらを漁り出すした。
「ん? あららら……」
どこだ、どこだとあちこち漁り出して数秒後、漸く見つけた小さな黒い何かを取り出してホッと安堵の息を漏らす。
「良かった、忘れてなかった」
その手に持つ黒い何かを徐に突き出して、クザンは再び口を開いた。
「俺はクザン。警官だ」
これでも。警察手帳を見せながら続けたクザンに、本当にな。マルコが返す。
そんな二人のやり取りを呆然と眺めながら、生徒たちはパチパチと目を瞬いた。
そして、理解する。クザンの言った言葉を。
「、け、いさつ……?」
「そう、警察。そこの怖いオジサンが大事に大事にしてる女の子が、学校でイジメに遭ってるって聞いたもんで」
事情、聞かせてくれる?
先程と変わらない口調で続けたクザンの言葉は、しかし生徒たちにとっては死刑宣告でしかない。
「学校周辺の聞き込みも軽くしてみたけど、その子が複数の生徒たちに追いかけられてたって目撃情報も出た」
やるなら徹底的にやらねぇと、こうやって足を掬われちまうんだ。
クザンの言葉はもう耳に届かない。
目撃情報。
見られ、てた。
校外の人間に。
だって、彼女が逃げるから。
だから追いかけた。
追いかけて、
罵倒して、
殴って、
蹴って。
それを見られてた。
最初から最後まで、全部。
顔、も――?
「あ、あぁ……」
蒼白になった顔を引き攣らせ、生徒たちは立ち竦む。
こわい。
こわい。
こわい。
どうしよう。
だって、
だって、だってだってだって――!!
「そ、そいつが悪いんだ! 俺らはっ、騙されてただけで……っ!」
仲間だと思ってたのに。
友達だと思ってたのに。
俺たちを騙して、利用するから。
「あぁ、そういうの要らないから。ちょっとくらいは聞いてやらないこともないが、限度ってモンがあるでしょ。君らのはとっくにそれを超えちゃってんの」
必死の訴えすら、届かない。
誰にも届かない。
だって、どうして。
必死に言い訳を口にする彼らの顔がみるみる絶望に染まっていく。
悪くない。
自分たちは悪くない。
何度も訴えて、訴えて、訴えて。
一人の女子生徒の目が、マルコの腕の中にいるリサへと向いた。
あぁ、そうか。
そして漸く気付くのだ。
彼女は、ずっとこうだったのか、と。
誰にも信じてもらえずに。
罵声と暴力に苦しみながら。
ひたすらに、耐えていたのだ。
「っ……ごめん、なさい………」
自然と溢れ出た謝罪の言葉。
他の生徒たちの声に掻き消されるほどのか細いそれに、けれどそれを聞き取ったリサの目が向けられる。
何度もその姿を目にしていたが、こうして目を合わせるのは初めてかもしれない。
「、ごめんなさい……ごめんなさい………」
溢れ出た涙を拭うこともしないまま、何度も何度も謝罪の言葉を紡ぐ。
赦して。
ごめんなさい。
赦して。
ごめんなさい。
――助けて。
絡み合っていた視線は、大きな手によって遮られた。
リサの目を覆い隠した大きな手を辿っていけば、圧倒的な力でもって相川を捩じ伏せた男の顔が映り込む。
調子に乗るな。
お前にその資格はない。
決して赦さない。
向けられる冷たい双眸が訴えてくる。
その目に見据えられ、女子生徒は理解した。
あぁ、そうだ。
彼は言っていたじゃないか。
”テメェらの人生、今日で終いだ”
ハッタリでも何でもなかったのだ。
彼女を傷付けた人間に、この男は一片の恩赦すら与えるつもりはない。
これから、自分はどうなってしまうのだろうか。
そう考えた瞬間、途方もない恐怖に駆られた女子生徒は、
ただ泣き叫ぶことしか出来なかった。