久しぶりに電車で通勤したはいいものの、やはり終電まで粘って仕事をしてしまった。
人気の疎らな電車に乗り込んだマルコは、空いていた席に腰を下ろして小さく息を吐いた。
ガタン、ゴトン
ガタタン、ガタタン
独特な揺れは疲れた身体に睡魔という刺客を差し向けてくる。
少しだけ。ほんの少しだけ。
そう思って目を閉じたマルコが目を覚ますのは、電車が最寄駅のホームに滑り込んで戸が開いた時だった。
「、やべっ」
ピーというホイッスル音に慌てて立ち上がり、プシューと音を立てて閉まろうとする扉をすり抜けてホームへと下りた。
向けられるいくつかの視線に居た堪れなくなりながら、そこでまた溜息を一つ。
早く帰って風呂入って寝よう。
睡魔に寄り添われながら車を運転する時のように、事故に遭う確率はグッと減ったが、こちらはこちらで寝過ごすという厄介な危険がある。
果たしてどちらがマシなのだろうか、と働かない頭でぼんやりと考えた。
生命の危険がない分、電車通勤の方が良いのだろうが、今のマルコの頭はそれさえも考えられないほどに睡魔に侵されている。
のろのろと歩いて辿り着いた家に入り、部屋へ戻ったマルコはネクタイを解いてイスの背凭れに放ると、真っ先にベッドに倒れ込んだ。
風呂に入らなければ。
スーツも脱がないと。
しなければならないことは次々に浮かんでくるのに、抗うことが出来ぬままマルコの意識は深い場所へと沈んでいった。
「――コ、マルコ」
身体を揺すられている感覚と耳に届いた声に、マルコの意識は浮上した。
「マルコ!!」
「、えーす……?」
いま、なんじだ?
八時!!
即座に返ってきた言葉に、パチリ。マルコは大きく目を見開いた。
「八時!? ヤベェ! 遅刻する……!」
そう言えばスーツを着たまま眠ってしまった。あぁ、皺が出来ている。
慌てて脱ぎ始めたマルコに、エースはそんなことはどうでも良いと大きく手を振った。
「悪ィが、急いでんだ。話なら今夜――」
スーツを脱ぎ捨て、新しいシャツに袖を通しながらエースに視線を向けたマルコは思わず口を噤んだ。
「エース……?」
どうしたんだ、お前。困惑を露にマルコは尋ねた。
一睡もしてないのか目の下には隈が出来ていて、いつも笑みが浮かぶその顔は今にも泣きそうに歪められていた。
「俺……約束したんだ、絶対誰にも言わないって」
俺が護ってやりたかった
けど、俺、何も出来なくて
どうしたら良いかも分からなくて
俯き肩を震わせながら苦しげに吐き出すエースの様子は尋常じゃない。
頭の片隅で警鐘が鳴り響いていた。
何かが起こっている。
一体、何が――?
「マルコ、ごめん」
顔を上げたエースの目には涙が溜まっていた。
「護れなくて、ごめん」
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい。
警鐘、が。
痛いくらいに、つよく。うるさく。
「リサ、が」
大切な妹であり、大切な想い人でもある彼女の名前を口にすると同時に、
エースの目から透明な雫が溢れて頬を伝った。
「あいつ、イジメに遭ってるんだ」
”何だ、随分と汚れてんな”
”怪我したのかい?”
知ってた。知ってた、はずなのに。
怪我を、していた。
制服が、汚れていた。
”あー……うん。昨日転んだの”
そんな言葉を鵜呑みにして、露ほども疑わないで。
エースは、何と言った?
「い、じめ……?」
「半月くらい前からずっと……アイツ、最近は何もないって言ってたから、俺……」
エースの声が遠い。
すぐ目の前にいるはずなのに、声が遠く聞こえる。
「でも、昨日の朝マルコからアイツが捻挫したって聞いて………それで、放課後アイツの学校行ったんだ」
そしたら、
言葉を切ったエースが更に顔を歪める。溢れた涙を乱雑に拭って、また溢れた涙が頬を濡らして。
ハァ……、鼻を啜ったエースが気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐き出した。
「アイツ、囲まれ、てた」
男子も女子も入り乱れて、
誰もが罵倒して、殴って、蹴って。
嗚咽を漏らすのを必死に堪えながら、その目に映した事実をエースは紡ぐ。
マルコの表情が歪んでいくことにすら、気がつかずに。
「バットで……っ、なぐ、られて………ひだり、うでが――っ、」
「――もういい」
「っ、」
吐き捨てられた言葉にエースは言葉を噤んで顔を上げた。
そして、息を呑む。
こちらを見下ろすマルコの、いつもと変わらないその表情に。
けれど、その目に篭められた確かな怒りに。
「リサは何処だ」
「、が、こう……いった」
殺意にも似た怒りに全身を貫かれ、震える声で言葉を紡いだ。
そうかい。マルコはいつもと変わらない声音で頷いて。
ぽん。
「ありがとな」
頭に乗せられたその手に怯えてしまったことに気付いただろうに、マルコはいつものように微笑み礼を紡いだ。
「ま、るこ」
危険だ。
エースの頭の中に警鐘が鳴り響いている。
「どう、するんだ?」
何を馬鹿なことを。
そんなの、分かりきったことじゃないか。
「アイツの学校行って来るよい」
まるで幼子に言い聞かせるかのように。
優しく。穏やかに。
「、おれも、いく」
「バカ。学校あるんだろうが」
「今日は! ……いいんだ、だいじょう、ぶ、だから」
スーツに身を包み、振り返ったマルコのその目を見て、
あぁ、ダメだ。
ごめん、リサ。
「そんじゃ、ちょっくら手ェ貸してくれるかい?」
ネクタイを締めながら、マルコが笑う。
「ふざけたガキ共から、うちの宝を取り返さねぇとな。ついでに――」
危険だと叫ぶ警鐘は止まない。