07


駐車場に車を止め、エンジンを切って溜息を一つ零す。
腕の時計を確認すれば、時刻は既に日付を越えてから二時間ほど経っていた。
家に入って風呂に入って――三時前には眠れるだろうか。
重い瞼を親指と人差し指で揉み込みながら、マルコは家の中へと入った。

いつもより重い足取りで部屋へ向かい、ネクタイを解きベッドに倒れ込む。
あぁ、ダメだ。風呂に入らなければ。スーツも脱がなければ。
休息を求める頭と身体に鞭打って何とか起き上がり、スーツを脱いで部屋着に着替えて風呂へ向かった。

湯船に入ることはしない。入ったが最後、そこで寝てしまうだろうことを自覚していた。
それほどに、身体は休息を求めているのだ。
車通勤にしたおかげで終電を気にせず仕事に打ち込めるようになったが、ここ最近ずっとこんな調子だ。

「電車に戻そうかねい………」

熱いシャワーで身体を温め、頭と身体を洗ってすぐに風呂を後にした。
あのままもう少しばかり温まっていたかったが、そんなことをするくらいなら早く部屋に戻ってベッドに潜り込んだ方がいい。
部屋に戻る途中、マルコは一つの扉の前で足を止めた。
おそらく、彼女はもう眠っているだろう。

そっと戸を開ければ、やはり部屋の電気は消えていた。
足音を立てないように部屋の中へと身体を滑り込ませて、ベッドへと向かう。
肩まで布団を掛けて眠る彼女は、きっといつものように身体を丸めているのだろう。掛け布団がこんもりと山を作っているのを見て自然と笑みが零れた。

「最近、話してねぇなぁ……」

こんな時間に帰ってくるのだから、当然と言えば当然だ。朝に一言、二言と挨拶を交わす程度。
ここ最近は休日出勤までしているのだから、必然と話す時間は無くなってしまった。
あどけない寝顔を見つめていると、欠伸がこみ上げてくる。あぁ、眠い。
かみ殺すことなく欠伸を零せば、涙まで滲んだ。

目の前には温かそうなベッド。
湯たんぽと称するには些か大きすぎるが、温もりを与えてくれるリサがいる。

「………ま、いいか」

部屋に戻るのが面倒臭い。
マルコはいそいそとベッドに潜り込み、小さく丸くなる身体を抱き寄せて目を閉じた。
ふわりと香る嗅ぎ慣れた匂いの中に、ツンと薬品のような臭いが混ざっていることに気付いたが、それを確かめることすら出来ないまま意識を手放した。





ピピピピ、ピピピピ

携帯から響くアラーム音で目を覚ましたリサは、目の前にある顔をぼんやりと見つめた。
何で? 最初に思ったことはそれで、まぁいいか。次に思ったことはそれだ。
アラームは五分おきに鳴ってくれるから、もうちょっとだけ。時計は七時丁度を指していたから、まだ大丈夫だ。

「んん……」

目の前の顔がグッと眉間に皺を寄せ、薄っすらと瞼が持ち上がる。
元々細い目だが、この時ばかりは更に細い。開いているのかすら疑わしいが、ほんの僅かな瞬きが目を覚ましたのだと教えてくれた。

「……いまなんじ」
「しちじ」
「んー……」
「おきる? ねる?」

欠伸混じりに問いかければ、あとごふんと舌足らずな声が返ってきた。うっかり可愛いなどと思ってしまったのは内緒だ。
アラームが鳴るよと言いながらマルコの身体に身を寄せれば、逞しい腕がもっとこっちに来いと抱き寄せる。

「、」
「どうした?」
「、んでも、ない」

ぎゅう、と抱きついてくるリサに、けれどマルコは目を閉じることはしなかった。
抱き寄せた身体から香る臭い。

「怪我したのかい?」
「………湿布臭い?」
「あぁ、どこだ?」

腕か、足か。確認する為に身を起こそうとしたマルコに抱き付いて、リサは首を振った。

「だいじょぶ、昨日ちょっと捻挫しただけ。大袈裟に湿布貼られちゃったの」
「………ホントに平気なんだな? 骨は?」
「大丈夫だって」

心配性な兄を安心させるように微笑めば、納得してくれたのかマルコも表情を和らげて再びベッドに倒れ込んだ。
隙間なく抱き付いて、押し付けた胸から聞こえる心音にホッと安堵の息を漏らして、リサがそっと目を閉じたその時。

ピピピピ、ピピピピ

アラームが再び鳴り響いた。
舌打ちを零したマルコが直後に溜息を漏らす。

「疲れてる?」
「最近、帰るの遅いからなぁ……」
「だから言ったのに。車で行くの止めた方がいいって」

マルコが仕事人間だということは家族中が知っているのだ。
車通勤に変えるとマルコが言った時は揃って反対したものだ。確実に日付を越える――最悪、帰って来なくなる、と。
皆の反対を押し切って車通勤を始めたマルコは、やはりというか。皆の予想通りだった。
日付が変わるのは当たり前。日付が変わる前に帰って来たら奇跡。

「もう若くないんだから」
「悪かったな」

目の前にある頬をむぎゅっとつまめば、いたい。リサが声を上げる。
あぁ、こうして触れるのも久しぶりだ。緩む頬をそのままにもう片方の手も頬へと伸ばしてむぎゅむぎゅと押し潰す。

「いたい、てば」
「ふはっ」
「むぎゅ」
「可愛い奴だねい」

緩みに緩みまくった顔をどうすることも出来ずに笑うマルコに、リサは不貞腐れたような顔で頬を膨らませた。

「ずるい、好きって言っても応えてくれないくせに」
「俺も好きだっつってんじゃねぇか」
「そういう好きじゃないもん」

ふん、と鼻を鳴らしてベッドから降りるリサを見送るマルコの笑顔に苦いものが混じる。

兄妹としてではなく、異性として。
すき。そう告げられたのはいつだったか。あれからもう二年は経っただろうか。
それは勘違いだと。そう思い込んでるだけだと。諭しはしたものの、リサは納得しない。

困ったのは、その二年の間にこちらが見方を変えてしまったという事実で。
可愛い『妹』に頬を緩ませながら手を伸ばして頭を撫でて抱き寄せて――そこで唐突に思い出す。
あぁ、そう言えば惚れてしまっていたのだと。
途端に素直になる鼓動に気付かれないようにそっと距離をおいて、ぎこちなく微笑んで。

幸か不幸か、未だそれに気付かない彼女はまた妹扱いだ、と頬を膨らませている。
どちらとも取れるように好きだと想いを告げてみても、彼女は気付かない。

「………はぁ」
「疲れてるね」

誰の所為だ。そう言ってやりたいのをグッと堪える。
完全に目を覚ました今、眠かったとはいえベッドに潜り込むというのは良くなかったのではないかと思うが、思い返してみれば昔から一緒に寝ていたではないかと開き直る。疚しい気持ちを抱かずに潜り込んだのだから、セーフだ。セーフ。誰が何と言おうがセーフだ。

「ちゃんと休まないと」

ベッドに片膝をつき、心配そうにこちらを見上げるリサに、うっかり手を伸ばして我に返った。
ぐしゃぐしゃと頭を撫でながら「分かってるよい」と答えれば、いつもそればっかりと顰め面。

「それでね」
「?」
「着替えたいんだけど……」
「――あぁ、悪い」

時計を見れば七時十五分。そろそろ部屋に戻って用意をしなければ。
ベッドを降りて扉へ向かう途中、壁にかけてある制服が目に入った。明らかに薄汚れているそれに首を捻る。

「何だ、随分と汚れてんな」
「あー……うん。昨日転んだの。捻挫もその時」
「おいおい、大丈夫か? ちゃんと前見て歩けよい」
「はーい」
「じゃあ、気を付けて行って来いよい」
「うん、マルコも。行ってらっしゃい」

右手を挙げてそれに応え、マルコは自分の部屋へと戻っていった。