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どちらかというと無愛想な人間だった。
話しかけられれば普通に受け答えするが、無闇やたらと笑みを振りまくような人間ではなく、クラスメイトでさえ彼女が笑うのを見た記憶はない。
無表情と表現するのは些か大袈裟ではあるが、何でもないことで笑い合える年頃の彼らからすれば、彼女は十分『無表情』だった。

だからこそ、彼らは疑わなかった。
校内でもそこそこ有名で、異性だけでなく同性からもそれなりに人気を博している彼だからこそ、疑うものは誰一人としていなかった。

彼に告白して、フラれて、逆上して、殴った。

現に彼の頬には見事な手形と爪で引っ掻いたような傷がついているのだ。疑う余地もない。
彼らはこぞって彼を擁護し、彼女を批難した。

何だよアイツ。
最低。
ふざけんな。

思いつく限りの暴言を口にし、とある女子生徒は帰路についた。
明日、学校で会ったらちょっとくらい文句を言ってやろう。彼の頬の傷がまだ残ってるようだったら、批難してやろう。
そんなことを考えながら眠りにつき、夜が更け、やがて陽が昇る。
目覚まし時計の音で目を覚ました女子生徒は、未だ霞がかった頭をフラフラさせながら身支度を始め、朝食を摂る。いつもと同じ時間に家を出て駅へ向かい、電車に乗っていくつ目かの駅で友人と合流する。

そこで思い出すのだ。同じ学校に通う友人の顔を見た途端に。唐突に。

「昨日さ、凄かったんだよ」
「え、何々? 何があったの?」

今の今まで忘れていた事柄を、女子生徒は友人へと語る。
人気者の彼が告白されたこと。フッた相手が逆上して彼を殴ったこと。

「えー!? 何それ、ありえなくない!?」
「マジマジ! 超ありえないでしょ!? ふざけんなって話だよね!」

そこが電車の中だということも忘れて、熱の入った彼女たちは声を大にして会話を続ける。
背後に立つサラリーマンがその煩さに顔を顰めようとも気付くことなく。斜め前に座るOLが煩さに舌打ちを零したことにも気付かず。

「つーかさ、殴ったってことはフラれると思ってなかったって事でしょ?」
「だよね! 何様って感じじゃない!?」
「え、誰なの? ソイツ何組? 同じ学年?」

満員電車の中、キーキー声で話す彼女たちの声はいっそ清々しいほどに通る。
誰もが顔を顰めていることに気付くこともないまま、女子生徒はとある生徒の名前を口にした。

「桜井だって。三組の、桜井リサ」

桜井リサ。

その名前は正面に立つ友人だけでなく、背後にいたサラリーマン、斜め前に座るOL、延いてはその車両にいた殆どの人間の頭に刻み込まれた。
人気者に告白したものの、フラれて逆上し暴力をふるった女として――。




授業から戻ってきたリサは溜息を零した。
死ね、消えろ、クズ。多種多様な暴言が油性ペンで、はたまた彫刻刀で机に刻まれている。
面倒な噂が流れてから四日が過ぎた頃に汚された机は、それから更に一週間経った今日この瞬間、水に濡れていた。バケツを引っくり返したのだろう、机の回りには水が溢れていたし、現在進行形でぴちゃぴちゃと水が床に滴っている。

問題なのはそこではない。それだけならば机や床を拭けば良いだけなのだから。

「………」

親指と人差し指で、机の上にあるそれを摘む。水分を吸ってべしょべしょになったそれはもう読解することも難しいだろう。
陰気なことをするものだ、と再度こみ上げる溜息を飲み下して、かつて教科書だったそれをゴミ箱へ放った。
もう乾かしても使えないのだ、必要ないだろう。

問題はここからだ。先程の教科書は次の時間に使うものである。
机の中に入れておいたのを、親切にも誰かが机の上に水を撒き、教科書を開いた状態で逆さに乗せてくださったのだ。真ん中で開かれた教科書は先の移動教室で授業を受けている間にたっぷり水分を含み、使い物にならなくなってしまった。

さて、この次の授業をどう切り抜けようか。
そんなことを考える間もなく始業ベルが鳴り、クスクスと嘲笑っていたクラスメイトたちが席につく。
あぁ、これでは座ることも出来ないではないか。まずは雑巾で拭くところから始めなければ。

ガラガラと音を立てて扉が開き、教師が入って来る。

起立、礼。着席。

号令係は授業どころではないリサに構う事なく自らの役目を全うし、クラスメイトたちはそれに従った。

「ん?」

そこで漸く教師は気付く。ただ一人、席に着いていない生徒がいることに。
その生徒の机が水浸しで、床も水浸しで、教科書すら出していないということに。
教師は徐に顔を顰め、そして自らの教科書を手に取った。

「桜井、ちゃんと拭くように」

たった一言。それだけをリサに寄越した教師は、それ以降リサに構う事なく授業を開始した。
返事をする間すら与えられない。そこかしこから聞こえるクスクスという笑い声。誰もがニタニタと目を細めてこちらを見ている。

最早、文句すら出せないその状況に溜息を零したリサは、雑巾を取るべく掃除用具がしまわれたロッカーへと向かうのだった。