「若さとは素晴らしいものじゃな」
隣の額縁から聞こえてきた声に、スネイプは鍋をかき混ぜる手を止めた。
不思議なことに、苦手意識を持つ相手の声は大きく聞こえるのだ。嫌いなものを全てシャットアウト出来ていたのなら、今の自分はここにいなかっただろう。
「頑なな君の心でさえも溶かしてしまう」
「………何のことですかな」
「君が彼女以外を愛せる日が来るとは思いもしなかったよ、セブルス」
ちっ。無意識に舌打ちを零したスネイプは、隣の額縁から聞こえてくる飄々とした笑い声に表情を歪ませた。
これだから老人は嫌いだ。スネイプは思う。
生きてきた年の数だけ無駄に口が達者になっていくのではないだろうかと思ってしまう。
ハリーを筆頭とする、過去スネイプにご教授頂いた生徒たちに言わせれば、お前も大概だと言われるのだろうが、この場にいなければスネイプの耳には届かない。
ヴォルデモートのように、自身を特別だと信じたまま恐ろしい方向へ突っ走る老人もいれば、ダンブルドアのように、自身が特別であることを良いようにして相手を自分の思う通りに操る老人もいる。タチの悪さは甲乙つけがたい。
かく言う自分は、そのどちらにもに踊らされた愚かで哀れな弱者であるのだけれど。
情けない。己の人生を振り返ってスネイプは溜息を零した。
リリーを愛していた。生涯をかけて愛していた。けれど、それを伝える勇気が持てなかった。
もし自分に勇気があったのならば、彼女との関係ももう少し変わったものになっていたかもしれないというのに。
彼女を失って、更に闇に傾倒して、その所為で本当に彼女を喪ってしまった。
彼女を愛しているのならば、とダンブルドアは言ったが、今考えてみればただの罪滅ぼしのようにしか思えない。
彼女の息子を護ると決めたことも、
その為に奔走してきたこの長い年月も、
ただ、彼女に赦されたかっただけなのだろうと。
文字通り全てが『終わって』、スネイプは安らかな生活を手に入れた。
既に死んだ身であるというのに、こうして小さな額縁の中で生きている。完成しても使うことの出来ない魔法薬の研究を繰り返すだけの日々。
持っていた研究資料は全て手放してしまったから、頭の中に残っている記憶だけを頼りにこうして続けている。
穏やかな生活といえばそうなのだろうか。
気を張る必要のない生活は、存外スネイプの心を穏やかにしてくれた。
こうして額縁の中での『生』を始めてから、ふとした瞬間に甦るのは愛した女性の顔だ。
学生時代、人目を盗んで共に魔法薬の勉強をしたことがあった。あの頃はまだ『友人』と呼んでもらっていた。
けれど、スネイプは気付いている。
ふとした拍子に思い出す――その程度にしか残っていないだけなのだと。
脳裏に焼きついたまま決して消えない笑顔がある。
瞼を閉じればすぐに浮かんでくるその笑顔は、今どこで何をしているのだろうか。
”先生”
耳の奥にこびり付いて離れない声がある。
誰もが嫌悪する男に、どうしてあのような甘ったるい声と表情を向けられるのか不思議でならなかった。
あの子はいま、どうしているのだろうか。
いつだって笑顔を絶やさない子だった。
それは隣に友人がいたからだ。彼女を笑顔にしてくれる友人がいた。
けれど、スネイプは知っている。
あの子は、隣に友人がいたからこそ泣けずにいたのだと。
それほどまでに大切な友が出来たことを、あの子は喜んでいた。
けれど、
それほどまでに大切すぎる友がいることを、スネイプは憂いていた。
利用するつもりなど毛頭なかった。
ひたむきな想いを向けてくるあの子をかつての己と重ねて、受け入れただけ。
凍りついていた心を溶かしてくれたあの子の笑顔を護りたいと思うようになっただけ。
親友が危険に曝されるたびに表情を翳らせるあの子を心配していただけだ。
あの子に笑っていて欲しくて、彼女に降りかかる危険を少しでも排除したくて。
だからこそ尋ねたのだ。あの子に。
危険なことはしていないだろうな? 何かあったらすぐに言いなさい、と。
全てが終わり、リサはスネイプが誰を愛していたのかを知った。
ハリーの動向を探る為にリサの想いを利用しただけなのだと――リサがそう考えてしまったとしても、何ら不思議ではない。
何もかもが裏目に出てしまう。
幼い頃からずっとそうだった。スネイプは諦念の笑みを浮かべた。
愛してくれたのに。
それに応えたかったのに。
愛していたのに。
愛などくだらない。闇の帝王として恐れられていた男は言った。
その愛に振り回されて生涯を終えたスネイプは思う。
「……私には、資格がなかったのでしょう」
愛する資格も。
愛される資格も。
愛を求める資格すらも。
自嘲するスネイプに、けれどダンブルドアは穏やかな表情で言う。
「愛に資格などいらないと、わしはそう思うがね」
しようと想って愛するのではない。
されたいと想って愛されるのではない。
欲しいと想って手を伸ばすのではない。
男女間にあるものだけが愛ではない。
親子の間にも、友人との間にも、どこにだってそれはあるのだから。
「ヴォルデモートはペットのナギニを大切にしておった。それはナギニを愛していたからじゃ」
どこにだってある。
誰にだってある。
気付くか気付かないか。
認めるか認めないか。
ただそれだけの問題だ。
「君の想いはリリーには届かなんだ。だが、あの子には届いておるはずじゃ」
”君を愛したあの子だからこそ、きっと”
これだから老人は嫌いだ。スネイプは思う。
既に命の灯火すら消えてしまったこの身だというのに。
鼻の奥が痛むのも、目に溜まったそれも、全て幻だとでもいうのだろうか。
「――リサ」
久方振りに口にした彼女の名前は、スネイプの心に温かく穏やかな光を灯してくれたような気がした。
「愛とは素晴らしいものじゃ」
まるで全て見えているかのように笑う老人に、スネイプは大きな舌打ちを零して額縁から姿を消した。