英雄


薄汚い川、廃墟になった工場。土手の草は手入れなどされておらず、そこに生えた草たちは鬱蒼と生い茂っている。レンガ造りの家の間には石畳が敷き詰められており、川と道路とを仕切る古びた鉄柵が町全体に閉鎖的な空気を醸し出していた。

スピナーズ・エンド。イギリス某所にあるそこは、セブルス・スネイプが生まれ育った場所だ。

長かった戦いが終わり、魔法省の役人たちは魔法界復興の為に駆り出されていた。イギリスだけではない。ヴォルデモートが引き起こしたこの戦は他国にまで強く影響を及ぼしていた。
戦いが終わったからといって、愛する者を喪った悲しみや怒りが癒えるわけではない。

ヴォルデモートが滅びた。
こんなにめでたい日はない。

十数年前、彼らは犠牲になった者たちの死を悼むよりも先に平和になった魔法界を喜んだ。
そのことを、どんなに悔いていることだろうか。

ハリー・ポッターは役人に連れられてイギリス中を飛び回った。
家族を、恋人を、友人を喪った者たちと出会い、彼らを励ました。

『英雄』

嫌味ったらしく彼をそう呼んでいた男はもういない。
代わりに、魔法界の誰もがハリーをそう呼ぶのだ。
ヴォルデモートを倒した魔法界の英雄、と。

悲しみに明け暮れる彼らと出会ったハリーは、あちこちで感謝の言葉と共に謝罪の言葉をもらった。

あの時はすまなかった。
君の両親が亡くなったことよりも、平和になったことを喜んでしまった。

愛する者を喪った彼らは、その時になって漸く気づいたのだ。
赤ん坊だから、なんて理由にはならない。誰だって、大切な人を喪えば悲しいのだと。

英雄として彼らを励ます。
自らを英雄などと思ったことがないハリーは、魔法省の役人から依頼されたそれに難色を示したが、それでもその役割を引き受けた。
英雄として威張りたかったわけではない。ただ、それが自分にしか出来ないことなら。それで救われる誰かがいるのなら。そんな思いで引き受けたのだ。
魔法界が平和になることはつまり、魔法界で生きる人々が笑っているということだと思ったから。
そうであることを、彼の両親も、名付け親も、その親友たちも、誰もが望んでいるだろうと思ったから。

数週間かけて各地を飛び回ったハリーは、戦いからひと月後、漸くその場所を訪れた。

”すべて、彼女に譲る”

校長室の数ある肖像画の一つとなったスネイプは、新たに校長となったミネルバ・マクゴナガルにそう告げた。リサとスネイプの関係を知らないマクゴナガルは勿論、マクゴナガルから遺言を受け取った魔法省の役人も首を傾げた。そして彼らはハリーを訪ねたのだ。スネイプの記憶を見た彼ならば、『彼女』が誰であるのかを知っているだろうと信じて。

ハリーはその人物が誰なのかすぐに理解した。
理解して、怒って、そして校長室に乗り込んだ。

ふざけるな!
貴方は何を考えているんだ!!
これ以上彼女を苦しめるつもりか!?

額縁の中、ハリーに背を向けて薬の調合をしていた彼は振り返ることをしなかった。

”変えるつもりはない。我輩が所有したすべてのものを、彼女に”

振り返らないままに告げられたそれにハリーは憤り、拳を握りしめ唇を強く噛んだ。
言わなければ良かった。彼が自分の母を愛していた、などと。
彼女を傷つけることになると知っていたら、絶対に言わなかった。

後悔したって遅い。
彼女は知ってしまったし、心に深い傷を負ってしまった。
家族を喪った彼女は、日本へ帰ってからどうやって生きていくのだろう。
考えるだけで胸が痛み、何かしてやれないかと必死に考えた。

考えて、考えて、考えて。
ハリーはスネイプの家へとやってきた。

壁一面の本棚にびっしりと並べられた蔵書。
中には貴重なものも沢山あるのだろう。売れば高い値がつくものもあるかもしれない。
魔法薬学教授という肩書きを使って手に入れた貴重な薬草や材料は勿論、その間に自ら作り出した薬や出版した薬学書などから手に入る額だって中々のものだろう。


それらをすべて、リサに。


金も、権利も、本も、薬も、材料も、何もかも。
この家さえも、彼女に。

いくら何でも、有り得ない。
材料や薬などは研究所に寄贈すれば良いはずだ。研究途中の薬だって、そこに譲渡すればスネイプの後を継いで研究してくれる人間がいるに違いない。
現に、戦いが終わったまだひと月だというのに、魔法省にはいくつかの研究所からスネイプの研究資料等をすべて譲って欲しいと交渉を持ちかけられている。

より有効に活用できる道があるというのに、スネイプはそれを選ばなかった。
あのスネイプが、だ。それはハリーだけでなく魔法省の役人たちやマクゴナガル、隣の額縁でレモンキャンディーを食べていたダンブルドアでさえも驚かせた。

おそらく、リサは受け取りを拒否するだろう。
自分を騙していた男の私物など、見たくもないに決まっている。

そう思うのに、ハリーはスネイプの家にやってきた。
立会いの為に同席する役人も、もう少しで来るだろう。

パチン。ラップ音と共に魔法省の役人が二名、ハリーの目の前に現れた。

「待たせてしまいましたね」
「いえ、僕も今来たところです」
「良かった。それにしても……すごい本ですね」

これなんて、もう何処にも出回っていない本ですよ。
一冊の本を手に取った役人は、感心したように呟いた。

「これを、本当にすべて……?」
「えぇ、それがスネイプ先生の遺言です」
「聞いてはいましたが………いや、しかし……」

勿体ない。役人の唇が音も無いまま動いた。

「あ、そうだ。忘れないうちに。これが彼が最期に所持していたものです」

受け取った箱を床に置いてハリーは蓋を開けた。
最期に着ていたローブは綺麗に洗濯されて丁寧に畳まれて一番下に入っていた。

その上にあるのはスネイプの杖と、

「これは……写真?」
「えぇ、この人が『彼女』で間違いないですよね?」

照れくさそうにはにかむリサの笑顔。
マグルのカメラで撮ったらしいそれは、ハリーも見たことのないリサの幸せそうな笑顔が絶えずこちらに向けられている。

「それで、あの……この子は………」

気遣わし気にこちらを見る役人に、ハリーは曖昧に笑った。
混乱するのも無理はない。

よりによって、スネイプはハリー・ポッターの親友にすべてを譲ると言っているのだから。
この写真を見れば、彼女がスネイプを想っていることは一目瞭然だ。
そして。

「”いつの日も、彼女が笑顔である為に”」
「彼は確か……その、君のお母さんのことを……」
「…………えぇ、そうですね」

あぁ、何て。
何て、何て、何て。

涙が頬に伝った。

写真の裏には付箋が貼っており、そこには「この写真は処分するように」とあった。
お願いする立場のくせに上から目線なのは、長年教師として生きてきたからか、それともこの付箋がハリーの目につくと分かっていたからか。

「僕に頭を下げるなんて真っ平だ、ってことかな」

頭を下げられても困るからその方が良いけど。
呟いてハリーは涙を拭った。

「この家にあるものはすべて、彼女のものになります」
「えぇ……勿体ないですが、仕方ありません。本来ならば、研究材料や資料等はすべてこちらの独断で研究所に送ることになりますが――」

何せ、これだけのものが揃っているのだ。
故人の意思だからといって、はいそうですかと素直に従うことは出来ない。

けれど、セブルス・スネイプは別だ。

本来ならばそうなるはずの彼の遺産は、すべて彼の意思通りに一人の少女とも呼べる女性に引き渡されることになるだろう。

「彼は、英雄ですからね」
「えぇ、貴方と同じです」

ざまぁみろ。
今も額縁の中で調合に勤しんでいるであろう男に向けて呟き、ハリーはほくそ笑んだ。