一通りの買い物を終えたリサは、ルーシーたちと別れて一人街の広場にいた。
目の前に佇む一本の桜の木を見上げていると、幼い頃日本で過ごしていた記憶が甦ってくる。毎年桜の花が咲くたびに近所の桜並木を家族で歩いていた。父と母の間に挟まれ、大きくて優しい手と手を繋ぎながらその道を歩くのが好きだった。桃色に囲まれたその一本道が、まるでおとぎ話のワンシーンのようだと興奮したことをよく覚えている。
不意に聞こえた笑い声に振り向けば、仲の良さそうな親子が手を繋ぎながら歩いているのが見えた。まだ幼い黒髪の少女が、両親の間に挟まれて幸せそうに笑っている。夜ご飯どうしようか、なんて笑い合う彼らをぼんやりと見送ると、今度は向こう側から一組のカップルが歩いてくる。互いに指を絡ませ、身体をぴったりと寄せ合う二人はとても仲睦まじく、聞こえてくる会話も何とも甘ったるいものだ。知らず溜息が漏れた。
さて、この後どうしようか。
すぐそこにに見つけたベンチに腰を下ろし、背もたれに背を預けてリサは大きく息を吐き出した。もうそろそろいい時間だというのに、一向に腹が空かない。酒場に行く気分にはなれないし、かと言ってもう船に戻ってしまうのも何だか勿体無い。もう暫くはこのまま桜を眺めながら優しい記憶に想いを馳せていたい――そう思いそっと目を閉じたリサの耳に、羽音のようなものが届いた。それは小さな虫が鳴らすものではなく、雀が立てる小さな音とも違う。どちらかと言うと巨大な鳥がバッサバッサと羽ばたく音だ。徐々に近くなるそれに目を開き空を仰げば、桃色の桜の上から幻想的な青い炎が舞い降りてくる。
「………」
幻想的な青い炎を纏った鳥から人へと姿が変わっていくのを、リサはぼんやりと眺めていた。
顔から胸、腹から下半身へと徐々に人の姿へ変わっていったマルコは、その足が地につくと、最後にその翼を腕へと変えた。それに伴い行き場を失くした小さな青い炎が宙に溶けて完全に消えたのを見届けると、リサはベンチに腰掛けたままこちらを見下ろすマルコをじっと見上げた。
「……何だよい」
物言いたげに見えたのだろうか。いつも通りの仏頂面から出てきた声はどこかぎこちない。
「そっちが何」
素っ気なく言い返せば、気分を害したのかマルコの眉に僅かに皺が寄った。けれど返答はない。いつもならば何かしら憎まれ口を叩くはずのこの男は、やはりどこかぎこちない様子で目の前に立っている。
兎にも角にも、マルコがそこに降り立ったことで桜が見えなくなってしまった。折角久しぶりの桜を堪能してたというのに、今は顰め面でどこか挙動不審なオッサンを眺めなければならないなんて冗談じゃない。
「邪魔」
だからこそ思ったままにそう告げれば、眉間の小さな皺は大きな皺へと変わった。それと同時に聞こえた舌打ちがマルコの苛立ちを顕著なものにしている。
それでも何か思うところがあるのか、何も言わずにその場から退いてくれたマルコは、不機嫌さを隠しもしないままベンチへ――つまりリサの隣へ腰を下ろした。遠慮の欠片もない座り方にベンチが悲鳴を上げる。
まさか壊れることはないだろうが、隣でそんな風に座られては気持ちの良いものじゃない。じとりと横目で睨みつければ、鼻を鳴らしたマルコがふいとそっぽを向いた。
一体何をしに来たというのか。どうせまたふざけたことでも言いに来たのだろう。そう思い無意識に下唇を押し出すリサだが、今マルコがこの場にいるという事実にほんの少しばかりささくれ立っていた気持ちが和らいだのを感じずにはいられない。島に上陸した兄たちが何処で何をしているのかを知っているからこそ、余計に。
けれど、それを素直に表に出せるほど可愛らしい性格をしていないリサは、決して桜から視線を逸らさないまま口を開き、可愛くない言葉を口にする。
「こんな所にいて良いの」
そしてそれに返ってくる答えも、マルコらしく可愛くないものである。
「意味分かんねぇ」
「他のお兄ちゃんたちは嬉しそうに酒場に入ってったよ」
こんな所にいていいの、お兄ちゃん。
あからさまな皮肉を口にするリサに、けれどマルコはそれを鼻で笑い飛ばした。
「お前の兄貴なんざ御免だ」
そして続いた台詞は「どうしてもなりてぇってんなら、もっと可愛くなって出直してこい」だ。それを同じように鼻で笑い飛ばしたリサも、同じように「こんな優しくない兄ちゃん欲しくない」と吐き捨てる。
二人の間に僅かな沈黙が落ち、やがてどちらともなくふと表情を緩めた。
「これ以上どうやって可愛くなれってのさ」
「俺だって十分優しいだろうが」
「どこが」
「同じ台詞返してやるよい」
二人仲良くベンチに座り、何とも心が和む桃色の木を眺めながらもその会話は刺々しい。けれど、それがリサとマルコだ。素直で愛らしいリサなど存在しないし、優しいマルコも存在しない。初めて出会ったその日からずっと、二人はそのまま変わらず生きてきたのだから。
ふわりと心地良い風が二人の間を吹き抜けた。ひらひらと散りゆく桜の花をふわりと巻き上げた優しい風は、まるで意思を持ったかのようにその身に絡め取った桃色の花びらを二人の頭上へと降らせていく。その風につられるようにして顔を上げたリサの鼻に、一枚の花びらがふわりと落ちてきた。
「っ、くすぐったい」
ぶるぶると顔を振って花びらを落とすと、隣から「何やってんだ」と揶揄を含んだ声がかけられる。
私の所為じゃない。そんな意を含ませてじとりと見遣れば「バーカ」と笑うマルコの金色の髪の天辺に桃色がちらほらと散りばめられているのが見えた。どんな髪質なのか、ふわふわと頭の天辺から生えている(ように見える)金色に桜の優しい桃色がやけに可愛らしい。けれど、その金色の下――つまり顔の部分は可愛さの欠片もない。その異様さが、何故だろうか面白くて堪らない。
「ぶっ、くくっ」
「?」
気付いていないらしいマルコが訝しげに見てくるが、その所為で更に強面になった顔がまた面白い。顔より上はこんなにも可愛らしいのに、下がどうしようもなく凶悪面だ。
「……何か分かんねぇが腹立つ」
理由は分からずとも何かを察したのだろう。一層凶悪面になったマルコがぶるぶると頭を振ると、桜の花びらがひらり、ひらりと揺れながら落ちていった。
「あーあ、落ちちゃった」
「付いてたんなら言えよい」
ったく。ぐしゃぐしゃと頭を掻いて残った花びらを落としきったマルコは、最後にもう一度ぶるぶると頭を振った。ぐしゃぐしゃだった髪がそれで元通りになるのはどういう原理だろうか。いずれにしろ、可愛らしかったあの光景はおそらくもう拝めることはないのだろう。あーあ、ともう一度呟いてリサは再び桜の木へと視線を戻した。
「………」
「………」
二人の間に再び沈黙が落ちる。
落ちてきた陽が橙に染め上げる広場を、先程も通った家族やカップルたちが来た道を戻っていく。おそらく家に帰るのだろう。その後は夕食の支度をして、幸せな食卓を囲むのかもしれない。何気ないやり取りや他愛もない話をすることが、どれだけ幸せなことか。両親を喪ってから嫌というほど思い知った。
ぼんやりと彼らを見つめていたリサは、同じように道行く人たちを眺めていたマルコが咳払いと共に居住まいを正したことでハッと我に返った。反射的に隣へと顔を向ければ、あさっての方を向いたままのマルコがガリガリと頭を掻き溜息を漏らした。
「お前、俺と結婚する気ねぇのかい」
「……またその話」
もう聞き飽きた。心の内で呟いてリサも溜息を漏らす。自然と視線は足元へ落ちていき、視界に入った爪先を何となくコツコツとぶつけ合ってみた。足元に落ちている桃色の花びらはリサだけでなくこのベンチに座った沢山の人に踏まれたのだろう。黒ずんで擦り切れたそれが、何だか物悲しく思えた。
「もう言わねぇよい」
「、そ、なんだ」
へぇ、ふぅん。
何度も自分が言ったことであるはずなのに、実際にマルコの口から言われると心臓がざわつく。身体の奥底からスッと冷えていくようで何だか落ち着かない。
自分が望んだことじゃないか――そう思うのに、まるで焦燥感を煽るかのように爪先を合わせるタイミングが早くなっていく。コツコツと小さな音を鳴らしていたそれは、気がついた頃にはぶつかり合うたびにびりびりと足に振動が伝わってくるほどに強くなっていた。咄嗟に膝の上に置いた手にギュッと力を篭めると、漸く足がぴたりと動きを止める。まるで自分の足じゃないみたいだ。僅かに痺れの残る爪先をぼんやりと見つめながら、リサはマルコに気付かれないようにそっと息を吐き出した。そうすることで身体の内側に溜まったものを全て吐き出し終えた頃、まるで見計らったかのようにマルコが再び口を開く。
そして飛び出た言葉は、リサが驚くには十分過ぎるものだった。
「取り敢えず、俺と付き合え」
「、は……?」
呆然と見つめた先、マルコは至極真剣な顔でこちらを見つめている。
「そんで、結婚はその次だ」
それならば文句ないだろう――そう言わんばかりのしたり顔をするマルコに、リサは静かに深呼吸を繰り返して立ち上がり、
「――この、バカッ!!」
大声で怒鳴りつけてやった。