07


モビー・ディック号には陰気臭い空気が漂っていた。
朝起きて部屋を出た瞬間から僅かに感じ取っていたどんよりした空気は、食堂に行けば濃度の濃いものとなってリサを襲う。
じとり。あちこちから寄越される視線にたじろぎ二の足を踏んだリサは、後ろから聞こえた足音に気が付いて勢いよく振り返った。

「何やってんだい、そんなトコで」

邪魔だろうが。立ち止まったマルコが、リサの情けない顔を見て片眉を跳ねさせる。
無言のまま食堂内を指せば、訝しげに眉を寄せて食堂へ顔を突っ込み、納得したように頷いた。

「放っとけ」
「でも……私、何かした?」
「アイツらの問題だ。お前にゃどうも出来ねぇよい」

おら、とっとと入れ。飯食いてぇんだよい俺は。
強引に背を押されて食堂内へ足を踏み入れれば、全身に突き刺さる視線たち。
朝食を取りに行くマルコの後を追い、その大きな身体の陰になるようにそそくさと歩く。

「気にすんなっつってんだろうが」
「気にするなって方が無理」

あちこちで何やらブツブツ言っているが、聞き取れないから余計に気味が悪い。
一体何だと言うのだ。下唇を突き出せば、ブサイク。容赦ない一言が突きつけられた。

「もう、何なの!? 私が何かした!?」

席について朝食を食べ始めること数分。同じテーブルに座る兄たちからも何か言いたげな視線が寄越され、かと思えば大きな溜息を吐き出される。せっかくの朝食は、味など欠片も分かりはしない。
テーブルを叩き付けて立ち上がり、食堂中に聞こえるように叫べば、あちこちで顔を見合わせ「だって……なぁ?」なんてやりとりが繰り返される。ブツブツブツブツ。けれど、決してリサ本人に言おうとはしない。
気持ち悪いことこの上ない。

「放っとけって言ってんだろうが」

向かいに座るマルコの何でもないような発言と、暢気に朝食を口に運ぶ姿が腹立たしい。キッと睨み付ければ、俺に当たるなと言わんばかりに顔を顰めたが知ったことではない。

「だって!! 朝っぱらから気持ち悪い! 何なのさ! 文句があるなら言えば!?」
「言えねぇからこうなってんだよい、放っとけっての」
「だから! その理由を教えてって言ってるの!!」

食堂中の視線を受けながら食べる食事が美味しいわけがない。気持ち悪くないわけがない。
怒りに任せて訴えれば、大きな溜息を零したマルコは周りを見回してから頭を掻いた。

「お前とスネイプの関係が気に食わねぇんだよい」
「は?」

何だって?聞き返したリサに、お前に男がいたことが気に食わねぇんだよい。答えてパンを齧るマルコ。
何だそれは。もっと深刻な理由かと思えば。本当に?嘘ではないのか?
じとりと疑うような視線を向けたリサに、マルコは嫌そうな顔をしながらも首肯する。

「何それ、意味わかんない」
「何それじゃねぇよ!!」

ガタン!立ち上がった拍子に椅子を倒しながら、サッチが吼えた。

「分かるか!? 可愛い可愛い妹に男がいたんだって知った俺たちの気持ちが……!!」
「しかもあんな性格の悪ぃオッサン……!!!」
「俺たちより歳上じゃねぇか!!」
「歳上趣味にも程があんだろコノヤロー!」

堰を切って出てくる、兄馬鹿な彼らの想い。けれどそれは涙を誘うようなものでも何でもなく、むしろリサからすれば「そんなことで落ち込んでんの?」の一言である。

「そんなことって何だ!!」
「あんなオッサン、俺たちは認めねぇぞ!!」
「あぁ、認めねぇ! 認めて堪るか……!!」

思いがけず知ってしまった、妹の恋人。既に死んでいるとか、そういう問題ではない。サッチたちからすれば、生死など微塵も関係ないのだ。

リサの恋人だった男。
あんな甘ったるい空気を醸し出す関係にあった男。
軽く十以上離れた男。
しかも性格最悪。
しかも教師。

落ち込むなという方が無理な話だ。
一晩経てばこのショックから立ち直れられるかと思いきや、一晩経って悪化したようにすら思える。

ダメだ。絶対ダメだ。
いくらそう思ったって、あれは過去の記憶。実際にあった出来事なのだ。
どのくらい付き合っていたのか、とか。どこまで進んだのか、とか。下世話なことまで考えだしたら恐ろしい答えに辿り着き、けれどそれらは全て『過去』のことであるから、今更リサに言ったところで何の意味も持たない。

だからこそ黙っていたのだが、リサを見てしまえば口をついて出てしまいそうになってしまう。考えるな。何も言うな。必死に押し殺した結果が、リサに向けてしまったあの視線だ。

「ききき、聞くけどよ」

震える声で誰かがリサに問いかける。

「お、おま、あの……まさか、その………何もしてねぇ、よな?」
「おいバカ止めろ!!」

即座にサッチが叫んだ。

何言い出すんだバカヤロー!
だって! 気になっちまうんだよ……!!
あるわけねぇだろ!? あってたまるかコノヤロー!
分かってるよ俺だって! けど!

何だこいつらは。あちこちで飛び交う声に溜息をついたリサは、アホらしいと呟いて席についた。冷めてしまった朝食を口に運びながら、未だに何やかんやと喚き合う兄たちに肩を落とす。

「だから放っとけって言ったじゃねぇか」

朝食を食べ終え、コーヒーに手を伸ばしたマルコが呆れたようにぼやく。それに溜息を返したリサは、頭を掻いて口を開いた。

「実際、何かあったんだろ?」

いつの間にか隣にやって来ていたイゾウが楽しげに口端を吊り上げている。視界の端でマルコが顔を顰めたのが見えた。

「聞いてどうするの」
「何、朝っぱらから煩ぇ奴らに灸を据えてやろうと思って」

おそらくそれは、彼らにとってとんでもなく苦しいものになるだろう。
絶望の淵に立たされる彼らを見て笑いたいだけなのだ、イゾウという男は。リサは引き攣った笑みを浮かべた。

「………何もないよ」

ほんの少しばかり声を張り上げて答えれば、ピタリ。あちこちで飛び交っていた声が一斉に止んだ。
ジッと息を凝らして期待の視線を向けてくる兄たちに内心で溜息を零しながら、リサは同じ言葉を繰り返す。

「何もない」
「へぇ? 抱き合っただけか? キスくらいしただろ?」
「……まぁ、それくらいは」

止めてえええぇぇ!!誰かが叫ぶ。

「で、でも! あの国はそれが挨拶だったから」
「挨拶でキスすんのか!? 誰とでも!?」

叫んだサッチの声に見えた羨望の色には気付かなかったことにしよう。

「絶対ってわけじゃないけど、ほっぺにキスとかはあったよ。ちょっとスキンシップが激しいんだよ」

私の生まれた国はもっと控えめだった。だから私はそんなことしてない。そう続けたリサに、安心したように兄たちが笑う。そんな彼らをつまらなさそうに見遣ったイゾウは、何かに気付いたのか再び口端を上げた。

「そういや、マルコにキスされたんだったな」

ブッ!正面のマルコがコーヒーを噴き出した。汚い!叫んで慌てて自分の朝食を引き寄せる。よし、かかってない。良かった。ホッと胸を撫で下ろせば、ゴホゴホと咳き込んだマルコがイゾウを睨み付けた。
リサに向けられていた視線は、明らかな敵意を孕んでマルコへと向けられている。

「ずっと敵視してたくせに」
「一人だけやたらリサを警戒してたよな、マルコ隊長」
「蹴り飛ばした時だってあった」
「荷物全部取り上げてたし」

ブツブツ。ブツブツ。
あちこちで囁き合い――しかも全てマルコに聞こえるようにだ――、責めるような視線を向ける。
耐え切れなくなったマルコは、舌打ちを零すと元凶であるイゾウと、そして何故かリサを睨み付けて食堂を去って行った。
その後ろ姿が見えなくなると同時に、イゾウの楽しげな笑い声が響く。おそらく廊下のマルコにも聞こえているのだろう。全く。いい性格をしている。

「つーか、私が睨まれた理由が分かんない」
「『キスくらいで』騒ぎ立てたことを根に持ってるんじゃないか?」

くつくつ笑うイゾウの言葉に、そう言えばあの時もそんなことを言っていたなと思い出して納得し眉を寄せた。どう考えたって、自分は悪くないではないか。

「良かったじゃねぇか、惚れた男が初めての相手で」
「…………キスだけだからね」

どうせ見抜かれているのだろうけれど。
それでも、素直に頷くのも何だか気恥ずかしかったリサは、悔し紛れに訂正すると楽しげに笑うイゾウの視線を受けながら残りの朝食を掻っ込むのだった。