教室に入ると既に他の生徒たちの姿はなく、授業の後片付けをしていたスネイプだけが残っていた。
嫌な予感がする。マルコは渋面になった。この二人の関係を知っているだけに、まさかこれから色々おっ始まったりしないだろうな、などと心配してしまうのも仕方がないことだろう。
スネイプは戻って来たリサを見て片眉を上げた。
「忘れ物をしてしまって」
ついさっきまで自分が使っていた机に向かうリサを尻目に、スネイプは再び片付けを開始する。カチャカチャと器具の音だけが聞こえる室内で、リサは椅子に座ってスネイプの後ろ姿を眺めていた。
「忘れ物は見つかったのかね?」
「まだです」
「ならば、探す素振りくらいしてみせてはどうですかな?」
「もう少ししたら、探します」
スネイプの動きがピタリと止まる。振り返らないままのスネイプは何処か呆れたような表情をしているものの、先程までと違い酷く穏やかな表情を浮かべていた。
「まさか……」
息を呑んだサッチの呟きがマルコの耳に届く。あぁ、バカ野郎。マルコは舌打ちを零したくなった。
「四十八点。さっきの授業で減点されちゃいました」
「精進して頂きたいものだ」
「教科書落としただけで減点って厳しくないですか?」
「見解の相違ですな」
「だから嫌われちゃうんですよー」
「生憎、我輩は痛くも痒くもないのでね」
一度も振り返らないまま片付けを続けるスネイプに、けれどリサは気にした風もなくその後ろ姿を見つめて微笑んでいる。こちらを振り返ることもしない薄情な男だというのに、何故そんなにも幸せそうに微笑むことが出来るのか。マルコには理解出来なかった。
「リサ……まさか………!!!」
サッチが真っ青な顔で叫んだ。甲板のあちこちで同じような表情をしている兄弟が多数。マルコは堪え切れずに溜息を吐き出した。リサのこの顔を見て気付かない人間はそういないだろう。何処からどう見ても恋する乙女だ。
「アイツもこんな顔するんだねい……」
思い返してみても顰め面か情けない顔しか浮かばない。サッチたちと笑っている顔は何度も見かけたが、自分に向けられた顔なんて殆どが顰め面だ。
その事実に、何故だか分からないが無性に虚しさを覚えた。
「君はいつまでそこにいる気かね?」
「もうちょっとだけ……」
「暇なら手伝いたまえ。そこの鍋を洗わせて差し上げよう」
「はーい」
立ち上がったリサが鍋が積み上げられた水道へと向かう。蛇口を捻り冷たい水を出すと、躊躇うことなくタワシを手に鍋を洗い始めた。それに驚きを露にしたのはスネイプで、目を見開いていたスネイプはすぐに呆れの眼差しをリサへと向けた。
「まさか、マグルのやり方で洗う気かね?」
「ダメですか?」
「……君の考えていることはよく分からん。まさか、こんな寒い教室で冷水に手を浸して洗う愚か者だったとはな」
「そんな罰則ばっかり与えるくせに何言ってるんですか」
「進んでやる愚か者は君くらいのものだ。冷たくないのかね?」
「すっごく冷たいです、今になってちょっと後悔してます」
色を失った指先を見てマルコは溜息を漏らした。奇しくも映像の中のスネイプと同じタイミングだったことはどうでも良いことだが、冷たいと言いながら鍋を洗い続けるリサは馬鹿としか言いようがない。欄干に頬杖をついて呆れの眼差しを送っていると、映像の中のリサはスネイプを振り返って照れ臭そうに笑った。
「でも、ほら……あの、洗ってる間はここにいる理由が出来るでしょ? 先生の役にも立てるし、邪魔にもならないし……」
「…………」
「あ、あははは! えーと……あの……すみません、その……」
自分で言ってて恥ずかしくなったらしいリサが顔を真っ赤にして俯く。
隣から「何この子超可愛いんだけど……!」と悶えるサッチの声なんて聞こえない。聞きたくない。耳を塞いだマルコは、ふと海面から甲板へと視線を向けた。見ればあちこちでサッチと同じように悶える兄弟の姿がある。重症だ。
「……風邪を引いても知らんぞ」
「そしたら先生に薬作ってもらいます」
「引かないように努力したまえ」
「おわっ」
バサリと頭に掛けられたマントで視界を奪われたリサが慌てふためく。手を洗ってマントを手に取ると、ローブ姿になったスネイプとマントとを交互に見て俯いた。
「……せんせーが風邪引いたら、薬作ってあげますね」
「結構だ、保管してあるのを飲む」
素っ気ない返事に「酷いなぁ」と返すリサは相変わらず俯いているが、その表情は想像に難くない。先程から見せる笑顔は親友たちといる時に見せていたものとは違っていて、リサに背を向けたままのスネイプも、授業中に見せていた最悪な教師とはかけ離れている。これで二人がただの教師と生徒だなどと言う輩がいたら是非とも顔を拝んでみたくなるほどの甘ったるい空気が漂っていた。
「何か……兄ちゃんはショックだ」
「俺のリサが……」
「俺たちの妹が、あんなオッサンに……」
「教師と生徒の禁断の恋……」
「俺の可愛い妹が……」
反対に、甲板に漂う空気はうざったいほどに暗い。溺愛する妹の恋の相手がとんでもない陰険教師で、とんでもない歳上だという事実に打ち拉がれている。その上、こうして甘ったるいやり取りを見せられるなど堪ったものではない。それなのに見ることを止められないという葛藤。マルコは何度目か分からない溜息を漏らした。
その間にも映像は進み、スネイプのマントを羽織ったリサが――ここでまた悲鳴が上がった――擽ったそうに笑いながら鍋を洗い続けている。暫くは使い物にならなそうな兄弟にどうしたものかと頭を掻いたマルコもまた、海面へと視線を戻した。結局は、好奇心には勝てないのである。
目を覚ましたリサは焦っていた。
「おかしいな……何処行ったんだろう?」
確かにデスクの上に置いておいたはずの小瓶が無くなっているのだ。デスクの下もベッドの下もバッグの中も全て調べたが、やはり見つからない。
「――あ、呼び寄せれば良いのか」
何で気が付かなかったんだろう、と杖を取り出して呼び寄せ呪文を口にする。数十秒後、目的の小瓶は部屋の外から飛んできた。手の中に収まった小瓶を見てホッとするも束の間、瓶の中身が無いことに気付いてリサは慌てて部屋を飛び出した。
「まさか、誰か間違って飲んだりなんかしてないよね……!?」
魔法薬を好んで飲もうとする輩などこの船にはいないだろうが、もしもという事もある。いつも寝過ごした時はマルコが起こしに来てくれるが、今日はそれもない。もしかしたらマルコが持って行ったのかもしれない、とリサはマルコを探して食堂へと駆けていった。
けれど、食堂にはマルコどころか他のクルーの姿もない。この時間ならいつもは誰かがいるはずなのに、今日に限っていない。来た道を戻ってマルコの部屋もノックしてみたが、やはりいない。あとは甲板か白ひげの部屋か。しらみ潰しに探していく他ない。
廊下を駆け漸く甲板が見えてきた頃、あと少しだとラストスパートをかけようとしたリサの耳に『彼』の声が聞こえてきた。
「、」
思わず足が止まる。
息を切らし、ドクドクと煩い心臓の音を耳の近くで聞いた。
聞き間違いではない。
「先生は今夜も見回りですか?」
「いや……」
言葉を濁す『彼』の声。
あぁ、本物だ。
あの人の、声だ。
「………そう、ですか」
沈んだ自分の声に唇を噛みしめる。床に張り付いた足を何とか動かしてのろのろと甲板に出れば、大勢のクルーたちが船から身を乗り出して海面を見下ろしている後ろ姿が見えた。白ひげまでいる。クルーたちの中にマルコの後ろ姿を見つけたリサは、無意識にそちらへ向かって歩いていた。リサに気付いたマルコが何か声を発しようと口を開くが、リサの表情を見て何を思ったのか結局何も言わずに再び海面へと視線を戻した。
「さっきの授業の前、ドラコを突き飛ばしたんです」
スネイプのマントを羽織った自分が俯いている姿が見えた。スネイプは無表情のまま俯いたリサを見ている。
「穢れた血だって言われてムカついたので、足を踏んづけたまま突き飛ばしてやりました」
「日に日に酷くなっていくな、君の報復は」
「罰則、受けます」
「そうして頂きたいのは山々だが、今夜は――」
「じゃあ明日受けます!!」
「、」
「明日はいますよね? ちゃんと、帰って来ますよね……?」
縋るようにスネイプを見つめる過去の自身を見下ろすリサを、マルコはチラリと盗み見た。愛した男の身を案じている過去の自分をどんな想いで見ているのか気になったからだ。けれど、すぐにそれを後悔した。
リサは静かに微笑んでいた。
けれどその目は微笑ましいものを見る目ではなく、まるで愚か者を嘲るようなそれだ。
嘲笑。
お前は馬鹿だ。
どうしようもない愚か者だ。
過去の自身を見下ろすリサの目はそう告げていた。
「お前……」
思わず声を発した次の瞬間、リサの目が大きく見開かれたのをマルコは見た。
咄嗟に海面を見下ろせば、映像の中でスネイプがリサを抱きしめている。ローブの中に顔を埋めたリサの表情は分からないが、抱きしめるスネイプの表情だけは丸分かりだった。
「――約束する」
今にも泣いてしまうのではと思うほど、スネイプは苦しげに顔を歪めていた。
マルコやサッチにはその表情の意味は理解出来ない。恋人に身を案じてもらって何故その表情をするのか。生きて帰って来れないかもしれない、と思っているが故のその表情なのだろうかと推測することしか出来ない。
けれど、リサは違う。
その表情の意味を嫌というほど理解している。
理解せずにはいられない。
あの頃、スネイプの腕の中でその腕の力強さに歓喜し、幸せを噛み締めていた自分の何と愚かなことか。
与えられる言葉が彼の本心だと信じて疑わなかった。
今もそうだ。
彼に騙されていたのだと、自分が被害者だと、そう思っていた。
けれど、違うのかもしれない。リサは唇を噛み締めた。
彼がどんな想いを抱いて傍にいてくれたのか。
彼がどんなに自分を責めていたのか。
ハリーの動向を探る為だけにリサの傍にいた彼は、何を考えていたのか。
考えることを放棄し、裏切られたと嘆くばかりだった自分の方が加害者ではないか。
「――っ、」
堪え切れなくなり、懐から杖を取り出して海面に向けてひと振りすれば、映像は波飛沫に掻き消された。ハッと息を呑んだ兄たちの視線がリサへと移る。杖をもうひと振りすれば、海に溶けて消えたはずの銀白色の淡い光を放つ何かがふわふわと浮き上がってリサの手の中の小瓶へと戻っていった。