03


時計の針が午前三時を過ぎた頃、不寝番以外の誰もが寝静まったモビーディック号の一室に淡い銀白色の光が灯った。
か細く小さな淡い光はゆらゆらと揺らめき、やがて小さな小瓶の中へと姿を消した。
手の中の小瓶を見つめるリサの目は潤み、苦しみに耐えるかのように唇を噛み締めて小瓶をデスクの上に置いた。杖をしまってベッドに潜り込むと、再び微睡んでいった。

デスクの上に置かれた小瓶は、暗い室内で淡く光を発し続けていた。




「リサー? まだ寝てんのかァ?」

朝食の時間になってもやって来ないリサを起こす為に部屋にやって来たサッチは、ノックを繰り返しても返事がこないことに首を傾げた。昨晩も魔法薬の精製に夢中で寝たのが遅かったのだろうか。前に何度か同じような事があった時はマルコがリサを叩き起こしていたが、恐らく自分には同じ方法は取れないだろうことはサッチもよく分かっていた。何せ、マルコは本当に拳骨を食らわせてリサを殴り起こしたのだから。可愛い妹に――否、たとえ妹じゃなかったとしても、女にそのようなことは出来ない。これが男だったのなら話はまた別だったのだけれど。
かと言って、サッチが得意とする技を使うにはリサはまだ子ども過ぎる。大人の女相手にしか使えないというのがこの技の悩みどころだ。尤も、悩むのはサッチだけであって、その技を使われた相手が今までどんな反応を示したかはサッチしか知らないことである。以前イゾウやマルコに言われた「お前の頭は都合の良いことしか記憶しねぇな」という言葉と共に記憶の彼方に押しやられている可能性も高い。

「入んぞー」

何度ノックをしても返事がないので、念の為に断りを入れてサッチはリサの部屋へと足を踏み入れた。何度かリサの部屋に足を踏み入れたことはあったが、そのたびに思うことがある。

「色気ねぇなぁ」

デスク。本棚。クローゼット。ベッド。本棚に並ぶ本は魔法薬だの薬草学だの癒術だのといった小難しい本ばかりだし、女らしい小物や化粧品なども見当たらない。化粧っ気のないリサだから化粧品が無いのは納得がいくが、それなりの年齢なのだから化粧品の一つや二つ持っていても良いのではないかと、リサからすれば要らない心配をサッチは常日頃からしていたりする。

ベッドの上には大きな膨らみがあり、リサが丸まって眠っていることは容易に想像出来た。

さて、どんな風に起こせばすぐに起きるだろうか。

そんな事を考えていたサッチの目に、小さな小瓶が入り込んだ。

「ん? 何だこりゃ?」

デスクの上にぽつんと置かれた小さな黒い瓶。小瓶を手に取って顔を近づけてみれば、瓶の中に淡く光る何かがあることに気付いた。液体のようには見えないが、これは一体何なのだろうか。

「――まさか、新しい薬か……!?」

また鳥肌の立つような恐ろしい材料を使った薬を作っていたのかもしれない。
一瞬で青褪めたサッチは、ベッドから聞こえた呻き声にハッと息を呑んでそちらを見た。寝返りを打ったリサが眉間に皺を寄せながら唸っている。

起きるな。
起きるな。
頼むから起きてくれるな……!!

サッチの願いは叶えられ、リサは目を覚ますことなく再び寝息を立て始めた。くーくーと寝息を立てる無防備な寝顔は歳の割に幼く見え、うっかり可愛いなどと思ってしまったサッチだが、手の中の温度のない小瓶が容赦なく現実を突きつけてくる。

隠さなければ。
どうにかして隠さなければ。

マルコが偵察中で良かったとサッチは心から思った。もし今日もマルコがリサを起こしに部屋にやって来ていたならば、サッチはこの小瓶の存在を知らないままだったはずだ。恐ろしい薬など飲みたくない。たとえ、可愛い可愛い妹が必死に作った薬だったのだとしても。

ごめん、リサ……!!

心の内で叫んだサッチは、音を立てないように気を付けながらそっとリサの部屋を後にするのだった。





「お、マルコ隊長が帰って来たぞ!」
「お帰りなさーい!」

モビー・ディック号の上を旋回したマルコは、こちらに向かって大きく手を振ってお帰りと叫ぶ兄弟の元へ下り立った。

「どうだった?」
「アンタの言った通りだ。ここら一帯だけやたら霧が立ち込めてるよい」

甲板に出ていた航海士長の問いかけに答えるマルコは渋面だ。
今まで何度もこの海域を通ったが、濃霧が発生したのはこれが初めてだ。ただの霧ならば、そんな日もあるだろうと笑って過ごすことが出来ただろうが、グランドライン前半の魔の三角地帯を彷彿とさせるような濃霧となればただ事ではないと判断するのが普通だ。ついさっきまで偵察として濃霧の中へと飛び込んだマルコだが、夜かと思ってしまうほどの暗い海は不気味で、本当に幽霊船でも出てきそうな雰囲気だった。濃霧を突き抜け空高く舞い上がった所から確認したところ、どうやら濃霧はモビー・ディック号の進行方向に存在してはいるが、数時間ほどで抜け出せる程度の範囲だった。

「ここを抜けちまえばあとは何の問題も無さそうだよい。どうする、念の為に迂回して行くかい?」
「時間があればそうしたい所だが、さっきサッチから報告が上がってな。この間の宴で粗方の食糧を使い切っちまったから早く調達してぇんだと」
「ったく……調子に乗って作り過ぎるからだよい、食い切るのだって大変だったじゃねぇか」
「まぁ、そう言ってやんなよ。可愛い妹の初陣だったんだ、盛大に祝ってやらねぇとって思ったんだろ? イイ兄貴じゃねぇか」
「加減ってモンを覚えてくれりゃもっとイイ兄貴なんだがねい……」

甲板の隅っこで数名のクルーたちと何やらヒソヒソと内緒話をしているサッチを見遣り、溜息を一つ零す。また何か企んでるんだろうか、やたら真剣に囁き合っているサッチ達は、人目を忍んでいるつもりなのだろうが、逆に思い切り目立っている。

「まぁ、今更言ってもしょうがねぇ。オヤジに報告してくるよい」
「あぁ、いや、それなら俺が行ってくらァ。お前は表に出てる奴らに注意するよう言っといてくれや」
「了解」

白ひげの部屋へと向かう航海士長を見送り、マルコはぐるりと辺りを見回した。

「そういや、まだアイツ見てねぇな」

大方、医務室横に作ってもらった部屋に篭って魔法薬でも調合しているのだろう。放っておくと食事の時間すら忘れてしまう事もあるから、少し経ったら様子を見に行かなければ。そう考えてマルコは再び溜息を漏らした。一向に自分に懐かない妹だというのに、何故か自分が世話役になっている事実に複雑な思いを抱かずにはいられない。

「もうすぐ濃霧の中に突っ込むから、表に出てんなら気を付けろよい」
「おー、りょーかい」
「他の奴らにも言っといてくれや」

了承の返事を受けてマルコはサッチの元へと向かった。甲板の片隅でむさ苦しい男たちが頭を寄せ合ってヒソヒソと囁き合う様は傍から見たら異様でしかない。誰もが真剣な表情をしているのを見る限り、悪巧みといったような事ではないように見えるが、だとしたら何をそんなに必死に相談し合っているのか。

「何してんだい」

サッチの背に片膝をついて上から覗き込むようにして問いかければ、下から奇妙な呻き声が聞こえてくる。真剣な顔で囁き合っていた兄弟の視線が一斉に向いたかと思えば、口々に「そうだ、マルコ隊長なら……」「いや、でも……」「ほら、前だって……」などとブツブツ呟いている。

「何だよい」

背骨を狙って膝をぐりぐりと押し付けながら問いかければ「いだいいだい……!! ちょ、それいでえええぇぇっ!」と悲鳴が上がった。

「で、何の話してんだい」
「フツーに尋ねらんないのお前は!?」
「つい」
「ついじゃねぇよ! 痛ェんだからな!!?」
「はいはい、悪かったよい。で、何の話――ん? 何だそりゃ」

サッチの手の中の小さな瓶を指して尋ねれば、あからさまに肩を跳ねさせたサッチがマルコから視線を逸らす。一斉に明後日の方向を向いて、突き出した唇で口笛まで吹き出す始末だ。分かりやす過ぎる態度しか取れない兄弟に一抹の心配を覚えながら素早く小瓶を取り上げれば、それがリサのものであることはすぐに分かった。

「何だこりゃ、新しい薬かい?」
「やっぱり!!? ――ハッ!」

思わず叫んでしまったらしいサッチが慌てて口を塞ぐのをジロリと睨み付け、どういう事かと問い詰めればサッチは観念して白状した。曰く、リサを起こしに部屋に行ったらデスクの上に小瓶があったのを見つけ、これも魔法薬だと思って咄嗟に持ち出してしまったらしい。

「観念したんじゃなかったのかい」
「バカ野郎! 気持ち悪ィモンが入った薬なんて飲みたくねぇって思うのは当然だろ!!? 極力飲みたくねぇんだよ俺らは!!」
「死にゃしねぇじゃねぇか」
「だって隊長!」
「そりゃ隊長はいいさ!」
「自分は飲まねぇんだもんよ! でも俺らは……!!」
「あ゛ー煩ェ!! 分かった、分かった。んで、お前らはコレをどうするってんだい? 棄てんのか?」

まさか、とサッチたちは声を揃えた。魔法薬などという、サッチたちからすれば毒薬と紙一重な代物を作るリサだが、それでも可愛い妹であることに変わりはない。この薬だって、元はと言えば自分たち家族の為なのだと思えば愛しさは募るばかりだ。材料に毒が使われていたとしても、棄てるなど出来るはずがない。

「じゃあ勝手に持ち出してんじゃねぇよい」
「しょうがねぇじゃん! 思わず持って来ちまったんだもん!」
「オッサンが『もん』言うな」
「これ……やっぱ変なもん入ってんのかなぁ……?」
「俺、芋虫は嫌だ……」
「俺だって内蔵だの脾臓だの……オ゛ェッ」
「むりむりむりむり……!」

真っ青な顔で震える兄弟たちを見回し、マルコは溜息を漏らしながら頭を掻いた。サッチたちの気持ちは分からないでもない。確かに、そんな薬を飲めと差し出されたら「ふざけんな」と蹴り飛ばす自信がある。けれど、それとこれとは話は別だ。

「アイツはまだ寝てんのかい」
「多分……結局起こせなかったし……」
「なら、アイツが起きる前に戻して来いよい。起きてコレが見つからねぇってなったら煩ェだろうから」

家族の為を思って作った薬だ。その家族に拒絶されたら悲しむに決まっている。皆に元気に航海して欲しいと願うからこそ、魔法薬を作るのだ。ならば妹のその想いを汲んで飲み干してやるのが兄である自分たちの役目だ。たとえどんなに嫌な材料が入っていたとしても、後からトイレに駆け込んだり寝込んだりする羽目になったとしても、彼女の前では躊躇せず飲み干してみせるべきだ。

「自分は飲まねぇくせに……」
「そうやってカッコイイことばっか言ってさ……」
「ズリィぜ隊長……」
「言うだけならタダだよい。おら、とっとと戻してこい」

サッチの手に瓶を押し付けようとして、マルコはその手を止めた。

「?」
「どした?」

瓶を受け取ろうと手を出したまま首を傾げるサッチを無視して、マルコはジッと瓶を見つめた。黒い小瓶が光ったように見えたのだ。瓶を顔に近付けてジッと見つめれば、瓶の中で何かが淡く光っていることに気付いた。液体のようには見えない。

「何だ? これ……」

蓋を開けて中を覗けば、中には淡く光る何かが揺らめいている。炎かと一瞬思ったが、それとは違う。まるで、コーヒーに入れたミルクのようだとマルコは思った。闇に溶けつつある淡い銀白色の光は固形でも液体でもなく、気体のようだ。初めて見るそれに興味を惹かれ、ジッと小瓶を見つめていたマルコは気付かなかった。

「!! 何だ!?」
「おわっ! 真っ暗……!」
「何だ何だ!?」
「夜!?」

いつの間にか濃霧の中に入り込んだらしい。吃驚したと呟きながら辺りを見回せば、サッチたちも同じように辺りを見回しながら驚いたな、などと笑っている。

「どれくらいで抜けんだ?」
「二、三時間もあれば抜けんじゃねぇか? 狭い範囲だったからな」
「へぇ……ここら辺で濃霧なんて初めてだよな、さすがグランドライン」

さすがグランドライン。そんな言葉で全ての不思議な事象が済まされてしまうのだから、やはり興味は尽きない。何年、何十年この海を航海しても飽きが来ないというのは喜ぶべきことだろう。毎回同じではつまらない。不思議な事象こそを求めるのが海賊なのだから。

「ん? マルコ、あの瓶は?」
「え?」

サッチの指摘を受けてマルコは手の中へと視線を落とした。手の中には先程まであったはずの小瓶の姿はない。

「………まさか、」
「落としたのか……?」

足元を探してみるが瓶はどこにも見当たらない。奇しくも甲板の隅にいたマルコの背後は海。小さな瓶など欄干の間をするりと通り抜けて海へ落ちてしまうことだって十分有り得るのだ。

「…………」
「……あーあ」
「あんなカッコイイこと言ったのに」
「俺ら、ちゃんと返すつもりだったのに」
「なー」
「まさか海に落とそうなんて思ってなかったよな」
「なー」

ここぞとばかりにマルコを責めるサッチたちは、顔が緩みそうになるを必死に堪えているのだとすぐ分かる。薬が落ちてダメになってしまったことが相当嬉しいらしい。しかもそれをしたのが自分たちではなく、リサの味方ぶっていたマルコなのだから尚更だ。

「まぁ仕方ないな!」
「落としちまったもんはな!」
「マルコ隊長、あとでちゃんと謝りに行ってくれよ!」
「そうだそうだ!」
「……テメェら……元はと言えばテメェらが勝手に持ち出したりするから……!!」

怒りを露に声を荒らげてみせるが、マルコが落としたという事実は変わらない。欄干から身を乗り出して真っ暗な海を見下ろすが、当然ながら小瓶は見当たらない。
おそらく散々文句を言われるのだろう。わざとではないと言っても通じないはずだ。作っていた薬をダメにされたという理由で、あれだけ嫌がっていた戦闘までしたリサだ、どんな報復が待っているのか考えるだけで憂鬱極まりない。背後でハイタッチして喜び合うサッチたちにうっかり殺意を覚えてしまう。