07


息が苦しい。
足が縺れる。
それでもリサは止まらなかった。止まれなかった。
脳裏にこびり付いて消えない親友たちの笑顔が、ただただ苦しかった。

この笑顔はもう二度と見れない。
お前はもうあの世界には帰れない。

記憶の中の屈託ない笑顔たちがそう嘲笑っているようだ。怖い。ただただそう思った。

「、あ……っ!」

出っ張っていた木の根に足を取られて身体が傾ぐ。受身を取れないまま地面に倒れ込むと、打ち付けられた全身が痛んだ。すぐには起き上がれず、その状態のまま呻いていると遠くで聞こえるフォークスの鳴き声。
漸く身体を起こしたリサは、立ち上がる事も出来ずにその場に座り込んだ。そう言えば、フォークスはどうしてこの世界にいるのだろうか。どうやってこの世界に来たのだろうか。ずっと疑問だったはずなのに、ちゃんと考えたことはなかったな、と考え足らずな自分を自嘲した。

大きな溜息が口から漏れ出る。俯き目を閉じると嫌でも思い出すアリウムの言葉。
彼の母はリサと同じだ。知らない世界に放り出されて、帰る方法など分からなくて。
どれだけ絶望しただろう。どれだけ助けを求めただろう。

”お前の父ちゃん、海賊かい”

”あぁ、そう言ってた。その他は何も知らねぇってさ”

その言葉はつまり、そういうことだ。
見知らぬ世界に放り出されて、右も左も分からなくて、杖も無くて、どうしたら良いか分からなくて。
これまで碇泊した島で他の海賊たちを見たことがあるが、あの海賊たちは白ひげ海賊団の皆とは違うのだとすぐに分かった。

兄となった彼らとて、自分たちの欲望に忠実だ。けれど、ちゃんと店で金を払って買うという当たり前のルールを守っている。島の住人たちを無闇やたらに脅かしたりはしない。気に入った女がいたからといって、力づくでどうこうしようとはしない。彼らはそんな人間ではない。

だが、他の海賊たちは違う。少なくとも、リサが島で見た海賊たちは。彼らこそ闇の魔法使いや魔女と同じような人種だ。妥協も譲歩もない。譲り合う心など持ち合わせてはいないのだ。選民思想とでもいうのだろうか、海賊だから赦される。強いから赦される。そういう考えの人間たちも確実に存在しているのだ。
そして、アリウムの父親はそういう人間だったのだろう。

「――っ、」

身体が震えた。恐怖が全身を支配する。止まったはずの涙が再び溢れ出し、震える唇からは荒い吐息とぶつかり合う歯の耳障りな音が零れた。

いやだ。
こわい。
こわい。
たすけて。
だれか。

「、せんせ……っ!」

助けて。助けに来て。お願い。助けて。助けて。助けて。
不可能だと分かっていても、願わずにはいられなかった。





走り去っていくリサの背を苦い顔で見つめていたマルコは、溜息と共に椅子に座り込んだアリウムへと視線を戻した。頭を抱えて固く目を瞑る姿は少年には不釣合いで、たったそれだけの仕草で彼がどれだけ大変な思いをして生きてきたのかが窺い知れた。

「なぁ……オッサン」
「オッサンじゃねぇ。マルコだ」
「俺の母ちゃんさ、家に帰りたいってずっと泣いてたんだ」
「………」

俯いたアリウムは自嘲の笑みを浮かべていて、少年らしくないそれにマルコはまた顔を顰めた。

「海賊船に乗せられてたらしくて、でも俺が出来たからって下ろされたんだって。だから俺のことなんか殆ど見てなくてさ、いつも向かいに住んでた優しい婆ちゃんが俺の面倒見ててくれた」
「………そうかい」
「婆ちゃんは母ちゃんの事情を知ってたらしいから、母ちゃんがおかしくなっちまったのも仕方ないんだって言ってた。母ちゃんが俺を見ないのも、家に帰りたいって泣くのも……俺、母ちゃんと殆ど話したことなかったんだ」

諦めたように笑うアリウムの肩は僅かに震えている。テーブルの上の割れたカップを見下ろしたマルコは、溜息を一つ零して立ち上がるとアリウムの頭を小突いてレジへと向かった。

「悪ィな、カップ割っちまった。これで足りるかい?」
「え? は、はい! ありがとうございます……!」

カップ代にしては多過ぎるチップを渡された店員は緊張気味に頭を下げる。出口へと向かったマルコは、一度振り返ると情けない顔でこちらを見つめる少年に向けて口を開いた。

「それで、お前はどうしたいんだ?」
「っ、」

泣きそうに顔を歪めたアリウムを残して店を出ると、先程まで青空が広がっていたというのに、灰色の厚い雲が太陽を覆い隠していた。

「ひと雨きそうだな……」

呟き頭を掻いたマルコは、ぐるりと辺りを見回すとある一点に視点を定める。町外れに広がる鬱蒼とした森の上空を旋回するフォークスは頻りに鳴いていて、まるで誰かを呼び寄せているようだった。

「そこにいんのかい」

あのバカ女は。独りごちてマルコは歩き始めた。
優しい言葉などかけてやるつもりは毛頭ない。慰めてやるつもりも。そんなこと、自分よりももっと優しい人間――例えばサッチ辺りが妥当だろう――がしてやれば良い。
自分にできることと言えば、ただ一つ。

「ったく……不細工なツラしてやがったら承知しねぇぞい」

それは、優しすぎる家族の誰にも出来ないことだろうから。