背中に強い衝撃を受けてマルコは目を覚ました。どうやら意識を失っていたようだ。ガンガンと痛む頭を押さえながらゆっくりと身体を起こせば、視界に入った板張りの濡れた床がここが甲板である事を教えてくれた。
はて、自分は一体どうしたのだろうか。ぐっしょりと濡れた感触に海に落ちた事を知るが、何故そうなったのか分からない。目を閉じて頭痛が引くのを待っていると、頭上から声が降ってきた。
「おーい、マルコ? 大丈夫か?」
「……あぁ」
この声は恐らくサッチのものだろう。返事をすればサッチがホッと安堵の息を漏らしたのが聞こえる。漸く治まりつつある頭痛を頭を振ることで消し去ったマルコは顔を上げた。自分を見つめる無数の視線。家族全員が甲板中に集まっているらしい。そんなに心配させてしまったのか、そう考えて謝罪の言葉を述べようと口を開きかけたマルコの視界に一人の少女が映った。
警戒しているような、心配しているような。複雑そうな顔のリサと目が合った瞬間、脳裏に甦るいくつもの出来事。それは紛れもなく数十分前に起こった出来事で、全てを思い出したマルコは次の瞬間、勢いよく甲板に頭を打ち付けた。沸き起こる爆笑に耳まで羞恥に染まる。
「グララララ! どうやら元に戻ったみてぇだな」
降ってくる声に顔を上げる事すら出来ない。あぁ、そうだ。自分はとんでもない醜態を晒してしまったのだ。顔を上げられない。恥ずかしすぎて死ねる。リーゼントの笑い声が煩わしい。サッチ殺す。真っ赤な顔でサッチを睨み付ければ、途端に肩を跳ねさせたサッチが慌ててリサの背後に隠れた。図体の大きさを考えれば隠れる事など不可能なのだが、今のマルコにはリサという壁は白ひげと同等である事は間違いない。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
かち合った視線を逸らすことが出来ない。醜態の数々が甦り何を言えば良いのかすら分からない。リサも何も言わないから余計に気まずい。謝罪の言葉すら出てこない。ただ一つ言えることは、リサを盾にして「いやー、悪かった! ごめんな?」などと暢気に笑うサッチへの殺意が半端ないということだけだ。
「――元に戻ってるんだよね?」
漸く口を開いたリサからの問いかけに一瞬遅れで頷けば、大きなため息をついたリサが一歩踏み出してマルコへと手を伸ばす。ぱしん。何故か分からないが、反射的にその手を叩き落としてしまったマルコは、甲板が一瞬で静まり返った事でハッと我に返った。リサの視線が痛い。
「――座って、早く」
言われるままにその場に腰を下ろせば、屈み込んだリサの手が再び伸びてくる。額に触れた小さな手に柄にもなく緊張したのは、きっと皆の視線が集まっているからだ。そうに違いない。
「目、見るよ」
自分のそれよりも遥かに小さな手が頬を包み込む。両の親指が下瞼を引き下げ、真っ黒な瞳が覗き込んでくる。おかしい。おかしい。おかしい。心臓が煩い。まさかまだ薬の効果が残っているのだろうか。否、違う。自分の行動が甦って恥ずかしいだけだ。
「気分は?」
「………最悪だ」
「だろうね、私もだよ」
至近距離にあるリサの顔が嫌そうに歪む。その事に安堵したマルコはリサへと手を伸ばした。目を丸くしたリサを抱き寄せて大きく息を吐き出す。腕の中から聞こえる奇声は聞こえなかったことにしよう。
「良かった」
「な、何が!」
「お前がただのちんちくりんにしか見えねェ。安心した」
「悪かったな!」
腹部に強烈な一撃を食らったが、リサの攻撃など痛くも痒くもない。笑みを零したマルコはリサを解放して立ち上がると元凶であるリーゼントの男を見据えた。
「さーて、サッチ……」
「ひっ、ま、待て! 話せば分かる!!」
「随分と楽しい事をしてくれたじゃねぇかよい」
「お、落ち着けマルコ!! リサ! 助けてくれ!」
両手を前に突き出して怯えたように後退るサッチににじり寄っていれば、背後のリサがマルコの名を呼ぶ。チラリと振り返れば、リサは珍しく凶悪な笑みを浮かべてサッチを見据えていた。
「徹底的にやっちゃって」
「そのつもりだ」
「ギ、ギャアアアアァァァッ!!!!」
サッチの断末魔が甲板中に響き渡った。
「で、結局アレは何だったんだよい? 俺は何をされたんだ?」
気の済むまでサッチを懲らしめたマルコは、つい今しがたリサに乾かしてもらった髪をぐしゃぐしゃと掻きながら尋ねた。甲板のメインマストにはマルコによってボコボコにされ、リサによってベニヤ板に磔にされたサッチが海賊旗に並んで風に煽られている。綺麗に作られていたリーゼントは見るも無残なものになっていた。
「愛の妙薬だよ。前に話したでしょ、惚れ薬」
リサの言葉にマルコは舌を打ってサッチを睨み上げた。風に靡く髪の毛が顔に纏わりついてそこだけホラーじみている。
「余計なモン盛りやがって……」
「だが、何でリサだったんだ? 盛ったのはサッチなんだろう?」
傍にいたジョズがリサに問いかけるとリサは僅かに唇を尖らせて頷き、杖を使い肩から提げたバッグからいくつかの小瓶を取り出すと、それをマルコ達の前に広げてみせた。
「こっちがアモルテンシアっていって、世界一強力な愛の妙薬。で、サッチが使ったのはこっち。親友のお兄さんが経営するお店で私が買ったの」
「買った? リサがか?」
目を丸くしたジョズに頷いたリサは、マルコからの視線に気付いて慌てて首を振った。
「ち、違う! 使う為じゃない! 悪戯専門店の品物だから、本当に使っても大丈夫なものなのか薬の成分を調べたりしたかっただけなの! これが沢山売れたってフレッドとジョージが自慢してたから!」
ゴホン。咳払いを一つしたリサは気を取り直して説明を続けた。
「私が買い取った時にこの惚れ薬は私専用になっちゃったから、サッチが使ってもマルコが――その、そういう風になっちゃったの」
あからさまにマルコの方を見ようとしないリサにマルコも苦虫を噛み潰したような表情で顔を逸らした。周りでニヤニヤ笑う兄弟達が恨めしいが、こればかりは仕方ない。
「後遺症は大丈夫なのか? コーヒーに混ぜられたんだろう?」
ビスタの問いにマルコが渋々頷く。惚れ薬を盛られたのは、数時間前に食堂でサッチにコーヒーを淹れてもらった時だろう。その時以外に何かを口にしてはいないから間違いない。今まで何もなかったから疑いもせずに飲んでしまったが、次からはちゃんとサッチの様子を観察してから飲むことにした方が良いだろう。
「大丈夫だと思う。元々、何かに混ぜて飲むように作られてるし……ちゃんとちんちくりんに見えてるみたいだし?」
刺々しい言葉に肩を竦めてみせれば、リサは鼻を鳴らしてツンとそっぽを向く。
「まぁ、何にせよ元に戻って良かったじゃないか。あのマルコも面白かったが、さすがにリサが可哀想だったからな」
「もう忘れてくれよい」
揶揄うようなビスタに苦い顔で返せば、あちこちから笑い声が上がる。
「そういや、キスはしねぇのか?」
そう言ったのは誰だっただろうか。途端に甲板中からキスコールが起こり、リサとマルコは慌てて首を振った。
「絶対いや!!」
「こんなのにされたって嬉しくねぇよい!」
「こんなの!? さっきから何なのアンタ!! ちんちくりんとかこんなのとか!!」
喚き立てるリサに怒鳴り返そうと口を開いた途端、グラグラと大きな笑い声が船を揺らした。白ひげの方を見れば、真っ白な三日月型のヒゲの下の口がニヤリと弧を描いている。嫌な予感がしてならない。
「おい、マルコ。お前ェ自分が言った言葉を忘れちゃいねぇだろうな?」
「オ、オヤジ……?」
「イゾウ、マルコの奴は何て言ってたか覚えてるか?」
傍に立つイゾウに問いかければ、イゾウは同じように唇で弧を描き大きく頷いた。
「勿論さ。『リサ、愛してるよい』から始まって『お前だけしかいないんだ』『お前を本気で愛してる』。オヤジに『リサと結婚する』とまで言ってたな。『俺はリサを一生愛し抜くって決めたんだ。絶対泣かせねぇ。幸せにする――』」
「わあああぁぁっ!! 止めろよい! 黙れ!!」
「やめてええぇぇっ!!!」
マルコとリサが同時に叫ぶがニタニタ笑うイゾウの声は止まらない。笑いも止まらない。
「『オヤジに誓うよい』。これで最後だ、オヤジ」
「あぁ、そうだったな。俺も確かに聞いたぜ」
「オ、オヤジ……」
「ちょっと待って、嫌な予感しかしない……」
蒼白になったマルコとリサに、白ひげはニヤリと口端を上げて言い放った。
「漸く孫の顔が見れそうだ。野郎共! 準備だ!!」
「よっしゃあああぁぁっ!!!」
「おい! 誰かサッチ隊長下ろせ!」
「宴の準備だ!!」
「ちょ、ちょっと待って! 嘘だよ! 嘘だよね!!?」
突然慌ただしくなった甲板にリサがヒステリックに叫ぶ。誰かの手が肩に乗せられて振り返れば、困ったように笑うビスタがこちらを見下ろしていた。
「ビスタさん……」
「諦めろ」
「は、え……?」
「オヤジに誓ったんだ、覆すことは出来ない。なぁ、マルコ?」
カイゼル髭の下の口がニヤリと吊り上がる。
「で、でも! 惚れ薬を飲んでた時のことだし! ねぇ、そうだよねマルコ!?」
「…………」
悲愴感たっぷりにマルコに詰め寄るが、歪めた顔を俯かせたマルコは何も言わない。着々と進んでいく宴の準備に焦りながら何度もマルコを揺さぶれば、大きな溜息を吐き出したマルコが漸く顔を上げた。
「――分かった」
「は?」
「オヤジに誓ったんだ、覆すことはあっちゃならねェ」
「ちょ、ちょっと待っ……」
顔を引き攣らせたリサを見下ろし、マルコは真剣な顔で続けた。
「結婚するぞい」
「………はああああぁぁぁっ!!!?」
リサの叫び声が甲板中に響き渡った。