06


冬の寒い夜だった。城の中でも一際寒い地下でどれくらい待ち続けただろうか。彼は部屋にいるものだと思っていたが、戸をノックしても返事は返ってこない。何処にいるのだろう。研究室だろうか、それとも職員室だろうか。手は悴み、寒さに色を変えた唇の奥にある歯は頻りにガチガチと音を鳴らしている。
不意に聞こえた靴音にハッと息を呑めば、その数十秒後に待ち人は現れた。部屋の前に佇むリサを見つけて片眉を上げたその表情は他のグリフィンドール生を見るものと同じだ。

「何をしているのかね?」
「、あ、あの……っ」

距離を開けて立ち止まった彼に用件を伝えなければと思うが、極度の緊張と未だに震える身体の所為で上手く言葉が出てこない。無意識に胸の前で握り締めた手は既に色を失くしていて、当然ながらそれに気付かないはずもない彼は最初こそ無視していたものの、徐々に顔を真っ青にしていくリサに小さな溜息を零すとその脇をすり抜けて自身の部屋の戸を開けた。

「入りたまえ」
「、ぇ……?」
「用があるのではないかね? 無いのなら今すぐに寮に――」
「あ、ありま――へっくしゅん!」

リサは慌てて自身の口を覆った。自身の運の無さを痛感せずにはいられなかった。仕方のない事だと言えば仕方のない事だが、よりによってこの状況でくしゃみをするなんて。瞬時に耳まで赤く染めて俯いたたリサに何を思ったのか、彼は自らが羽織るマントを脱ぐと徐にリサの肩にかけた。驚愕の表情で顔を上げたリサを見ることなく「中に入れ」と告げられ、リサはおそるおそる彼の自室へと足を踏み入れた。

室内は実に彼らしい部屋だった。革張りの黒いソファ、ガラステーブル、黒檀で作られたデスク、壁を覆い尽くす書棚。
黒を好む彼らしいと僅かに笑みを零せば、ソファに座るように指示された。おそるおそる腰を下ろしたソファは見た目以上に柔らかく、沈み込む感覚に思わず声を上げればチラリと彼の視線がこちらに向けられて慌てて口を噤んだ。

「紅茶は?」
「え? あ、はい!」

突然の問いに慌てて頷けば、再びこちらをチラリと見た彼が黙々と紅茶を淹れてくれる。普段紅茶など飲まないリサにはその工程がとても珍しく、あの彼が自分の為に紅茶を淹れてくれているという事実が信じられなくて凝視してしまった。
向かいに腰を下ろした彼から無言で差し出されたカップにお礼を言いながらリサは僅かに逡巡した。咄嗟に頷いてしまったが、紅茶は苦手な飲み物だ。けれど今更そんな事言うわけにもいかず、彼が自分の為に淹れてくれたものを飲まないなどという選択肢は無かった。

「い、いただきます」

おそるおそるカップを手に取って口元に運ぶと、嗅ぎ慣れない紅茶の香りが鼻腔を抜けていった。そっと口に含めば、紅茶特有の味が口内に広がっていく。あぁ、やっぱり紅茶は苦手だなどと思いながら、それでも彼が淹れてくれたという事実が嬉しくて全て飲み干してしまった。

「あの、美味しかったです……ごちそうさまです」
「用件は?」
「え? あ、えっと……」
「ご学友の為に我輩の保管庫から鰓昆布をくすねたと申し出に来たのかね?」
「鰓昆布? あ、いえ……それは私じゃありません」

あれはハリーの為にホグワーツで働くしもべ妖精のドビーが勝手に行った事だ。けれどそれを教えたりはしない。ホグワーツを追い出されてしまえば、あのしもべ妖精に行くところはもう見つからないであろう事をリサもよく分かっていた。

「では何だと? 授業の質問のようには見えないが?」

手ぶらで訪れたリサを訝しげに見遣り、彼は自分のカップを手に取った。
頑張れ。言え。言うんだ。今しかない。必死に自分を奮い立たせ、リサは大きく息を吸い込んだ。

「す、好きです!」

カップを口に運ぼうとしていた彼の手がピタリと止まる。怖くて顔を上げる事は出来ないが、彼の視線がこちらに向けられているであろう事は嫌でも分かる。沈黙が苦しい。

「――それで?」
「え、それで……?」
「それで、何だと言うのかね?」
「あの……えっと………」

言い淀むリサをチラリと見て紅茶を呷った彼は、カップをソーサーに戻して脚を組むとひたとリサを見据えた。

「おかしな事に君が我輩を好いているという事は理解した。それで、他に用件は?」
「え?あ、あの……えっと、ない、です……」
「………ふむ」

背凭れに身体を預け、自身の下唇を撫でる仕草をした彼は何を思ったのか一つ頷いて立ち上がった。

「ならば、帰りたまえ」
「え、え?」
「用件は済んだのだろう? ここにいる必要はあるまい。もうすぐ消灯の時間だ、寮に帰りたまえ」

そう言うなり背を向けて扉に向かう彼に、リサは慌てて立ち上がった。

「スネイプ先生! あのっ、えと……す、好きなんです!」
「それはもう聞かせて頂いたが?」
「だから、その……あのっ、え、と……つ、付き合ってください!」

振り返ったスネイプが片眉を上げてリサを見下ろす。ここで目を逸らしてはいけないと、リサは視線の先で何かを思案しているスネイプをじっと見つめ続けた。

「――我輩の記憶が確かならば、君は生徒で我輩は教師のはずだが?」
「は、はい……」
「分かっているのならば結構。帰りたまえ」
「でも……っ、好きなんです!」

絞り出した声に、扉に向かったスネイプがピタリと止まる。振り返ることのないスネイプにリサは尚も続けた。

「教師でも、スリザリンでも……好きなんです……」
「…………」
「そばに、いたいんです……」

背を向けたまま何も言ってくれないスネイプは何を思っているのか。自分の想いを必死に口にする事しか考えられなかったリサにはそんな事考える余裕もなかった。
やがて、徐に振り返ったスネイプが涙を浮かべたリサを見下ろして一言呟いた。

「――君のような愚か者を、我輩は知っている」
「……ハリー、ですか?」

常日頃スネイプが嫌悪する親友の名を口にすれば、スネイプはゆっくりと頭を振った。

「アレよりも遥かに……愚か者だ」

言葉と共に伸びてきた指先がそっと涙の跡を拭い去る。瞬時に顔を赤くしたリサは、それでも視線を逸らすことが出来ずにスネイプを見つめ続けた。

「君は、更に上を行く愚か者だな」
「……いい、です」
「?」
「愚かでも、何でも……先生が好きです」
「…………おかしな奴だな」

幾分か柔らかい声が鼓膜を刺激する。慣れていないのかぎこちなく微笑んだスネイプに、リサはその瞳から新たな雫を溢れさせた。




ひんやりと冷たい感触にリサは目を覚ました。ぼやける視界に広がる顔は誰のものだろうか。頭が働かない。自分はどうなったのだったか。

「あぁ、起こしちまったかい」

この声は誰のものだろうか。

「飯持って来たが食えるか?」

話しかけられている。起きなければ。頭を覚醒させる為に数回瞬きを繰り返せば、漸くクリアになった視界に見える顔。それは血の繋がらない兄の顔だった。

「、まるこ?」
「あぁ、飯食えるか?」

再度尋ねられてリサは小さく頷いて起き上がった。ズキズキと痛む頭に呻きを漏らせば「重症だな」と呟いたマルコが膝の上に落ちたタオルを拾い上げて洗面器へと戻し、サッチ特製の粥をリサに差し出した。

「食ってもう一回寝ちまえ」
「ん」
「ドクターの話じゃ、完全に治るまで十日くらいかかるんだとよい。それに、お前は感染してから日が経っちまってたからな」

フンと鼻を鳴らすマルコにリサは視線を泳がせて曖昧に笑った。そんなリサをじとりと睨み付けたマルコは、それでも仕方のない事なのだと自分に言い聞かせて粥の入った丼を差し出す。

「とっとと食っちまえよい、冷めちまうだろうが」
「ぜんぶ……は、むりかも」
「食えるだけで構わねェからとっとと食え」

渋々と丼を受け取ろうと腕を上げたリサはすぐに顔を顰めた。じゃらりとその存在を主張する冷たい金属の所為だ。

「…………」
「…………」

リサとマルコの視線がリサの手首に集中する。ただでさえ高熱で思うように身体が動かないというのに、海楼石のおかげで手錠を嵌めた左腕は微塵も動く気配がなかった。

「…………」
「…………」
「……たべていいよ」
「俺ァ粥なんかより普通の飯が食いてェんだよい」

何それずるい、という言葉を飲み込んだリサは代わりに溜息を吐き出した。食べられるものなら自分だってサッチの作った美味しいご飯が食べたいに決まっている。粥は母が作ったものより美味いものなどあるはずがないというのがリサの持論であり、その母が亡くなってしまった今、最高に美味しい粥はもう二度と食べる事ができないのだ。

「……おかあさんにあいたい、な」

無意識に呟いたリサはこちらを見る呆れたような視線に気付いて瞬時に真っ赤になった。

「あ、や、えと……こ、こういう時は、その……恋しく、なるでしょ」
「生憎、俺ァ母親とやらに良い思い出がねェから理解出来ねェな」
「え……そ、そうなの? ごめん、」

無神経な事を口走ってしまったのだと気付いたリサが慌てて謝罪の言葉を口にするが、それを無視したマルコは溜息を一つ零すとレンゲで粥を掬いリサの目の前へと持っていった。目を丸くして粥の載ったレンゲを見つめるリサに「食え」と一言呟く。

「い、いやぁ……さすがに、それは……」
「無理やり突っ込まれてェか?」
「いただきます」

不機嫌そうな声色に気付いて即座に抵抗を諦めたリサは、湯気の立つ粥に息を吹きかけて冷ますと、そっと口を開いて頬張った。

「あつ、」
「ばーか」

鼻で嘲るマルコに顔を顰めるが、文句を言う前に次の粥が目の前に差し出される所為で何も言えない。もう少し冷ましてから食べようと強めに息を吹きかけると、ご飯粒が吹き飛ばされて布団に散った。

「…………」
「……ご、ごめ――むぐっ、」

無言で口の中に押し込まれた粥を何とか咀嚼したリサは、無言のまま布団に散ったご飯粒を拾うマルコを見た。まだ熱かった所為で口の中を火傷したと文句を言おうか、布団に散った米粒を拾ってくれてありがとうとお礼を言おうか迷っている内にマルコが次の粥を差し出すものだから、結局何も言わずに大人しく粥を頬張る事にした。

「、ごめ……もういい」

満腹を訴える胃を押さえながら呟けば、まだ半分以上残ってると文句を言いながらもマルコがそれ以上粥を差し出してくる事はなかった。水と共に薬を渡され、何とか腹に収めたリサはズキズキと痛む頭に顔を顰めながらベッドに横たわった。粥の載ったトレイを持って立ち上がるマルコの背をじっと見つめれば、顔だけで振り返ったマルコと視線がかち合う。

「……そんな顔しなくても、すぐに戻って来るよい」
「………べつに」
「そうかい、じゃあ一時間くらいかけてのんびり食って来ようかねい」

薄ら笑いを浮かべるマルコを悔しげに睨めば、くつくつと喉を鳴らしたマルコが「冗談だよい」と言いながら扉を開ける。

「いい子に寝てるんだぞい」

扉の向こうにマルコが消え、部屋に静寂が訪れる。尚も扉を睨み付けていたリサは唇を尖らせて呟いた。

「……ガキじゃないもん」

それから十五分もせずに帰ってきたマルコは、再び眠っているリサの額のタオルを交換すると書棚から本を取り、椅子に腰を下ろして読み始めた。

「――、」
「ん?」

何かが聞こえたような気がして本から顔を上げれば、苦しげに呼吸を繰り返すリサが何かを呟いていた。耳を寄せてみれば、聞こえてくるのは「いかないで」「せんせい」という言葉。

「ったく……ホンット面倒な女だよい」

恋なんて自分が弱くなるだけではないか、とマルコは苦い顔でリサを見下ろした。上陸のたびに女を追い回すサッチの気持ちもマルコには理解出来ない。一夜だけの関係の方が楽に決まっている。大切な人間は家族だけで十分ではないか。そう考えるマルコは、既にこの世にいない男を想って泣くリサの気持ちも理解出来ない。マルコだって家族を失えば悲しいし涙を流す。けれど、いつまでもそうしていたって誰も喜ばない事をマルコは知っている。日々を悔いなく生きる事が、海に散っていった家族達への精一杯の手向けになるのではないだろうか。

「……泣いてるだけじゃ、何も変わんねェんだよい」

目尻から伝う透明な雫を指で拭ってやったマルコは、未だ魘され続けているリサを見下ろして頭を掻くと手錠の嵌められた手をそっと握った。

「ここにいる」

お前は独りじゃない。だから、とっとと乗り越えやがれ。心の中でそう続けたマルコは、温もりを感じたのか表情を和らげたリサに何度目か分からない溜息を零すと片手で器用に読書を再開するのだった。





迷える子羊良い夢を





翌朝、いくらか回復したリサは渋々とマルコに粥を食べさせてもらいながら「そう言えば」と口を開いた。

「何か良い夢見た」
「……へぇ」

あれだけ泣いておいてどの口が言うんだ、と心の中で続けながらマルコは丼から粥をよそう。

「最初は怖い夢だったんだけど、夢の中で誰かが助けてくれたの。顔とか見えなかったんだけど、手を握ってくれてさ、凄く温かかった気がする」
「…………」
「また見れないかなぁ」
「……多分もう見れねェよい」
「何でさ、分かんないじゃん」
「一生見れねェよい」

否定的な言葉を続けるマルコにリサは顰め面でそっぽを向いた。

「何それ、『見れたらいいね』とか何とか言って話合わせてくれりゃ良いのに」
「『見れたらいいね』」
「むかつく!」
「つーかお前元気なら自分で食えよい」
「だって手が上がらないんだもん」

差し出された丼にフンと鼻を鳴らして答えれば、舌打ちを零したマルコが先程よりも多い量の粥を掬ってリサの前に突き出す。

「ちょっと。食べさせるならちゃんと食べさせてよ」
「俺だってやりたくてやってんじゃねェんだよい! テメェがとっとと能力鍛えりゃ良い話だろうが!」
「大声出さないで! 頭痛い! バカ!」
「あァ!?」
「煩いっつってんでしょ!!」
「悪かったな!! あー!! あー!! あー!!!」

耳元で大声を出してやれば、頭痛に顰めた顔を背けながらリサがマルコを追い払うように右手を振る。

「もうやだ! あっち行って! 嫌い!」
「俺の部屋だってんだよい!」
「……何やってんだ、お前ら」

「廊下にまで聞こえてきたぞ」と呆れたような顔をするジョズに、リサとマルコは苦い顔をしてから互いに顔を逸らすのだった。