10


静まり返った室内で、紙を捲る音とペンの音だけが静かにその人物の存在を主張していた。ふわふわとした栗色の髪を煩わしそうに手で払った人物は、溜息を一つ零して背凭れに背を預けて伸びをした。

「これも違う、か……」

口内で呟いた言葉は音となる事はなく静かに消えた。机の上に幾重にも重ねられた分厚い本を見てもう一度溜息を零して机に肘をついて頭を抱える。

「ハーマイオニー!」

背後からかけられた声に振り返ったハーマイオニーは、顰め面で「シー!」と人差し指を口に当てる。慌てて口を押さえた赤毛の青年は、キョロキョロと辺りを窺うように見回してホッと安堵の息を吐くとハーマイオニーの隣に腰を下ろした。

「何なの?」
「ハリーが呼んでる。今すぐ校長室に来てくれって」
「校長室に? 何か分かったの?」
「僕もよくは分からないんだ。ついさっきトイレを出た所でジニーに会ったんだけど、ハリーが呼んでるから校長室に行ってくれって――」
「トイレ? ロン、貴方、本を探しに行ったんじゃなかったの?」

思い切り眉を顰めて睨み上げてくるハーマイオニーに、ロンは慌てて両手を挙げた。

「おいおい、トイレくらい行かせてくれよ。ちゃんと帰ってきたら探すつもりだったんだ。それより、早く校長室に行かないと」
「そうね、早く行きましょう」
「あ、でも本を片付けないと……マダム・ピンスが煩いよ」
「あぁ、そうね……でもまだ読み終わってないし……」

もどかしげに本を見ていたハーマイオニーは、やがて溜息を一つ零すと羊皮紙の切れ端を取り出してペンを走らせた。

「あぁ……きっとマダム・ピンスに怒られるわ」

図書館の本と自分の仕事を大切にしているあの司書は間違いなく怒り狂うだろう。そんな事を考えながら『すぐに戻ります。触らないでください』と書いた紙を本の上に置くと、ハーマイオニーはロンと共に図書館を後にした。

校長室に行くと、そこには校長室の主であるマクゴナガルとハリーがいた。向かい合って座る二人の間のテーブルには数枚の羊皮紙が広げられていた。ハリーが二人を手招きすると、ロンはハリーの隣へ、ハーマイオニーはマクゴナガルの隣へ腰を下ろした。

「さぁ、ポッター。聞かせてくれますね?」

マクゴナガルの言葉に頷いたハリーは、テーブルに広げられた羊皮紙を一枚取り上げると、一番上に置いて口を開いた。

「ルーナのお父さんに頼んで『ザ・クィブラー』のバックナンバーを取り寄せてもらったんだ。その中から異世界についての記事だけを絞り出したのがここにある全部なんだけど……」
「君、『ザ・クィブラー』を読んだの? 沢山あったんだろ?」
「仕事だってあったのに……よく出来たわね」

感心するロンとハーマイオニーに、ハリーは苦笑を浮かべながら肩を竦めた。

「そりゃ、僕一人じゃ出来っこないさ。当然だろう?」
「それじゃ、誰に手伝ってもらったんだい?」

自分達に頼ってくれなかった事が不満なのか、ロンとハーマイオニーが僅かに顔を顰めるとハリーは声を上げて笑った。

「君達は図書室で本を調べてくれてただろう? だから、手伝ってもらったんだ。マルフォイに」
「マルフォイ!?」
「貴方、マルフォイに頼んだの?」

ハリーの口から出た名前に目を丸くした二人の目が再び険を帯びる。けれどハリーは笑って頷きながらテーブルの上の羊皮紙を軽く叩いた。

「ルーナのお父さんからもらった『ザ・クィブラー』を持って魔法省に戻ったら、丁度ルシウス・マルフォイに会ったんだ。聴取で呼び出されてたらしくてね。それで、まぁ……色々と手助けをしたんだ。その見返りとして手伝ってもらったんだよ」
「じゃあ、ルシウス・マルフォイに手伝わせたのか? 『ザ・クィブラー』を読んで異世界について探し出すのを?」

「信じられない」とロンが恐れ入ったように背凭れに身体を預けた。ハーマイオニーも呆れたような顔をしている。ほんの半年前、ヴォルデモートの部下として敵対していただけでなく、純血主義者でもあるルシウスに、よりによって魔法界中からデタラメばかりの記事しか書かれていないと認識されている雑誌を読ませたというのだから無理もない。

「勿論、ルシウス・マルフォイ一人じゃ無理だから手伝ってもらったよ。ドラコとナルシッサ・マルフォイにも」

恐らく、とんでもなく嫌そうな顔をしながら調べてくれたのだろう。三人の顔を思い浮かべてロンとハーマイオニーは思わず噴き出した。不憫だと思うより先にいい気味だと思ってしまうのは仕方のない事である。ロンはテーブルの上に広げられた羊皮紙――紙によって筆跡が違うのが見て取れる――を見て口元をヒクつかせた。

「あの三人がこれを書いたんだと思うと、何だかとっても素敵なものに見えてきたよ」
「あの一家が貴方に協力的になった事は大変喜ばしいことですが、ポッター。続きを頼んでも?」

きびきびと話の続きを促したマクゴナガルに、ハリーは慌てて羊皮紙を取り上げた。

「これ見て」

テーブルに置くと、ロン、ハーマイオニー、マクゴナガルが一斉に覗き込む。

「『未知の扉!九と四分の三番線ゲートの先は……!!?』――って、これ……!」

記事を読み上げて目を丸くしたロンにハリーは重々しく頷いた。

「これ、ルーナのお父さんが『ザ・クィブラー』を創刊してすぐの頃に書いた記事なんだって。もう二十年以上も前だって言ってたけど……」
「いるのね? リサ以外にもあのゲートから出て来なかった人が?」

ハーマイオニーの問いにハリーはもう一度頷いて羊皮紙の中程を指した。

「僕も魔法省でちょっと調べたんだけど、その人はマグルだったんだ。魔法使いがゲートを潜ったのを偶然目撃して後を追っちゃったんだって。その人と一緒にいたマグルがそう証言したって書いてあった。勿論そのマグルの記憶は修正されたけど、どんなに探してもゲートを潜ったマグルは見つからなかったって……その人はその日からずっと原因不明の行方不明だよ」
「今もずっと?」

不安の色を湛えたハーマイオニーの目がハリーを見つめる。逃げるように顔を逸らしたハリーは「でも、」と小さな声で呟いた。

「その時はちゃんと調べられなかったんだ。ほら……あー………消えた人はマグルだったし」

ハリーの言葉に、悲しげだったハーマイオニーの顔が一瞬で顰め面へと変わる。ハリーは再び視線から逃げるように顔を逸らし頭を掻いた。

「魔法省の人間が軽く調べた程度で、その時は丁度ほら……ヴォルデモートが力を付け始めて魔法界は酷い状態だったし、人員が少なかったとかで……だから、もしかしたら……ちゃんとした方法があるかもしれない。その人は家には帰って来なかったけど、この世界の何処かにいるかもしれない」
「けど、リサはいないじゃないか」

ロンが難しい顔で腕を組みながら言った。

「だって、そうだろう? その人はマグルだったから、何処か遠い国にいて自分の家に帰れなかったかもしれないけど、リサは魔女だよ? 『姿現し』でここに来る事だって出来るし、もし僕らに会う気が無くたって日本にはいたって良いだろう?」
「リサが私達に会わないなんて事は無いわ!」

ハーマイオニーが声を荒げた。

「貴方も聞いたでしょう? あの子は私と約束したのよ、夏休み中に三回は会うって!」
「勿論覚えてるさ。だから、僕が言いたいのは……あー……信じられないけど、この地球上にはいないって事だよ。少なくとも『姿現し』は出来ない場所だ」
「つまり、貴方達が言うところの異世界という所ですか?」

テーブルの上に置かれた別の羊皮紙を手に取りながらマクゴナガルが眉間に皺を寄せた。そこに書かれているのは異世界についての憶測――妄想ともいう――であり、よくもまぁこのような記事を書き写す気になったものだと、この場にはいないマルフォイ一家に内心で賞賛の言葉を贈った。

「厳密に言えば『姿現し』が出来ない場所はこの地球上にもいくつかあります。この城を含めた他国の魔法学校も勿論そうですし、他にも一般の魔法使いが立ち入りの出来ない場所なんて数えればいくらでもあるのですよ」
「分かってます。けど、そういう所は全て調べました」

ハリーの言葉にマクゴナガルは「いいでしょう」と答えると、手に持っていた羊皮紙をテーブルに戻して立ち上がった。

「仮に異世界というものが本当にあるのであれば――」
「ダンブルドア先生だって否定はしませんでした! そうですよね? ダンブルドア先生?」

壁一面に掛けられている歴代校長の肖像画達の中からダンブルドアの肖像画にハリーが話しかけると、額縁の中で椅子に座り必死にレモンキャンディーのフィルムを剥がしているダンブルドアが顔を上げた。溶けてフィルムに貼り付いたレモンキャンディーを引き剥がして口の中に放り込むと、ダンブルドアは背凭れに背を預けて膝の上でゆったりと手を組んだ。

「勿論、無いと証明出来た者はおらんよ」
「証明出来る人なんていませんよ、アルバス」
「左様、有ると証明出来た者もおらん。勿論、わしの知る限りではじゃ」

ヒゲを撫でながら微笑むダンブルドアを苦い顔で見遣ったマクゴナガルは、ハリーを振り返って困ったように口を開いた。

「仮に彼女が異世界にいたとして、どうするんです? まさか、自分達も異世界に行って彼女を連れ戻すとでも?」
「出来るならそうします、先生」

ハリーよりも早く答えたのはハーマイオニーだった。

「図書館で異世界について書かれている本を調べてますが、方法は見つかっていません」
「そうでしょうとも、Miss.グレンジャー」
「けど、リサはこの地球上の何処かにいるのなら必ず私達の所に戻ってくるはずです。それが無いという事は――」
「それが無いということは、彼女はもう既にこの世界にいないかもしれないですな!」

壁に掛けられている額縁から声が飛んでくる。数ある額縁からハーマイオニーは声の飛んできた額縁をすぐに見つけ出して睨み付けた。けれど、ハーマイオニーが何か言うよりロンが口を開く方が先だった。

「次そんな事を言ってみろ、その肖像画を真っ黒焦げにしてやる」

唸るように言ったロンに、隣に座っていたハーマイオニーは顔を綻ばせてその手を握った。ロンの言葉に憤慨して額縁の中で喚き立てるフィニアス・ナイジェラス・ブラックを咳払いで黙らせたマクゴナガルは冷静に口を開いた。

「真っ黒焦げにする事はご遠慮願いますが、ウィーズリー。フィニアスの言う事も無いとは言い切れませんよ」
「でも!」
「勿論、私も彼女が生きている事を願っています。ですが……」
「分かってます。現実的に考えるならその方が正しい」
「ハリー……」

ハーマイオニーが悲しげに眉を寄せてハリーを見る。

「でも」

ハリーはそんなハーマイオニーに微笑みかけて続けた。

「リサは生きてる。必ず」
「根拠があるのですか? ポッター?」
「えぇ、あります」

力強く頷いてハリーはグッと拳を握り込んだ。

「リサは生きてます。だから僕は、リサがここに戻って来れなくて困ってるのなら絶対に助けに行きます」
「僕『達』だろ」
「まずは方法を見つける事からね。私、図書館に戻って調べるわ!」

立ち上がったハーマイオニーが足早に校長室を去っていくと、ロンはテーブルの上に広げられた他の羊皮紙を手に取った。

「なぁ、ハリー。水を差すようで悪いんだけど……」
「何だい?」
「異世界って、一つだと思うか?」

ロンの言葉にハリーは困ったような顔で頭を掻いた。

「それなんだよ。何十年前かのマグルとリサが同じ場所に行ってるって保証は無いんだ」
「でも、助けるんだろう?」
「当たり前じゃないか。何年かかったって見つけ出してみせるよ」
「ポッター、ウィーズリー。フリットウィック先生に用があるので、私は職員室に行ってきます。帰る時は――」
「えぇ、分かってます。ちゃんと片付けて帰ります」

ハリーの言葉に頷いてマクゴナガルが校長室を去ると、ロンもハーマイオニーの所に戻ると出て行った。一人残されたハリーはテーブルの上に広げられた羊皮紙を見つめながらぽつりと零した。

「リサは必ず見つけ出します。あの時が最後だなんて、絶対ダメだ」

誰もいないその部屋で、ハリーはただただ続ける。

「逃げちゃダメだ。また間違えたまま終わるなんて事になったら、僕は貴方を一生赦さない」

顔を上げたハリーの視線の先には一枚の肖像画があった。額縁の中の机には大鍋が白い煙をモクモクと吐き出していて、その向こうに見える棚には所狭しと多くの薬品が置かれていた。
額縁の中には、誰の姿も見えなかった。