蒸気を吹き上げながら、紅の列車がプラットホームへと滑り込む。ゆっくりと停車した列車の中から出てきた大量の人で、プラットホームは瞬時に騒がしくなった。誰もが大きなカートを押しながら列車の進行方向と同じ方へ向かって歩いているが、その先に見えるのは高い壁で、先が続いていない事を示していた。それにも拘らず、カートを押す人々は壁に向かって進む。
先頭を行く十七、八歳くらいの青年が押すカートがとうとう壁にぶつかろうとしていた。けれど青年は足を止めない。とうとう壁に突き当たったカートは、あろう事かそのまま壁の中へと入ってしまった。足を止めない青年の姿もまた壁の中へと吸い込まれていく。青年の後ろを歩く少女も、少年も、誰もが壁の中へと消えていく。
驚くべき事ではない。彼らにとって、それは当たり前の事なのだから。
プラットホームの最後尾をゆっくりと歩いていたロンは、カートを押しながら時折手に握っているチョコバーを口へ運んでいた。ポロポロと食べかすが落ちるのを顔を顰めながら注意するのは、隣を歩くハーマイオニーで、ロンの恋人だ。
「ちょっとロン、さっきから落ちてるわ」
「ん? あぁ、これ食べづらいんだよ」
「列車の中で食べてしまわないからよ。ハリー、大丈夫?」
ハーマイオニーとロンの数歩先を歩いていたハリーと呼ばれた青年は振り返って笑った。
「何が?」
「貴方、これからどうするの? 親戚の所に戻るの?」
「プリベット通りに戻ってるってダドリーから手紙が来たんだ。取り敢えずはそこに戻るよ。でも、すぐに出るつもり」
「そうなの……新しい住所が決まったら教えてね、引越しの手伝いもするから」
「ありがとう、ハーマイオニー。ハーマイオニーはどうするの? 両親はオーストラリアなんだろう?」
「取り敢えずロンの家に行くわ。それから二人を探し出して、記憶を元に戻すの。こっちに戻ってくるなら一緒に住むけど、向こうで暮らしたいって言ったら私も一人暮らしね。――リサ、貴方は?」
ふわふわした栗色の髪をバサリと振ってハーマイオニーが振り返る。ハーマイオニーとロンの後ろを一人のんびり歩いていた黒髪の少女は肩を竦めて笑った。
「日本に帰るよ。マグルとして生きてくつもり」
「それでも、こっちには遊びに来るわよね? また会えるわよね?」
何処か切羽詰った表情で見つめてくるハーマイオニーに微笑み、リサは一つ頷く。
「勿論、いつだって会いに行くよ」
「絶対よ? 嘘付いたら許さないわ」
「分かってる」
それからは会話も殆どなく、四人は他の人達と同様に壁へ向かって歩き続けた。
「……何か、信じられないわ」
ポツリと呟いたのはハーマイオニーで、隣を歩くロンも前を行くハリーも立ち止まりハーマイオニーを見た。
「もう、終わったのよね? 全部終わって、もう安全なのよね? ヴォルデモートはもう本当にいなくなったのよね?」
「そうだよ、ハーマイオニー。分霊箱も全部壊して、ヴォルデモートも死んだ。もう全部終わったんだ」
まるで自分に言い聞かせるようにハリーが答えると、ハーマイオニーも微笑んだ。
「あっという間だったわ。凄く長かった気がするのに、いざ終わってみるとあっという間だった。それでも、私達、すごく成長したわ」
成長せざるを得なかった。失ったものは多かった。大切な人達を沢山失って、全てを諦めたくて、それでも諦めなかったから、今こうして立っている。生きている。
「あれだけの事があって成長してない方が怖いよ」
「そうね、でも……そうね、もう終わったのよ」
ハーマイオニーの言葉に頷いて、ハリーがカートを見つめる。毎年、そのカートにはトランクの他に鳥籠が掛けられていた。雪のように真っ白な梟がいたのだ。彼女は一年前、ハリーの目の前で生命を落とした。ホグワーツに入学が決まって、初めて訪れたダイアゴン横丁でハグリッドから与えられた大切な大切な親友。その親友は、もういない。
「ハリー……」
「……もう、終わったんだ。僕らは生きなきゃ。幸せになるんだ」
「そうだよ。きっと……皆、そうなって欲しいって思ってるさ。……シリウスも、ルーピンも、トンクスも、フレッドも……ダンブルドアも、皆……きっと、そう思ってる。スネイプだって――」
「ロン!」
囁きにしては大きすぎる声で呼びながら、ハーマイオニーがロンの脇腹を肘で突いた。
ロンは鈍く痛む脇を押さえながら後ろにいるリサを振り返る。リサは苦笑していた。
「そうだね、きっと……そう思ってるよ」
「リサ………」
「ごめん、僕、そんなつもりじゃなかったんだ」
「良いの。大丈夫、分かってる。もう、大丈夫だよ」
心配させまいと笑顔を作ってみても、ハリーもハーマイオニーもロンも顔を見合わせて悲しげな顔をするだけだった。
「だって、しょうがないよ。あの人が勝手に決めてそうしたんだから……今更、何もどうする事も出来ないじゃん」
「リサ……」
「それより、怒んないんだね」
「え?」
「あの人との事。私、ずっと黙ってたのに」
悪戯っぽい笑みを作ると、ハーマイオニーは一瞬だけ難しそうな顔をして、それから腰に手を当ててリサを睨み付けた。
「勿論、怒ってるわよ? ハリーやロンはともかく、私にまで黙ってたんだから!」
「ごめんなさい」
「簡単には赦してあげないわ。そうね……夏休み中に三回は会いましょう。リサも忙しいだろうし、私も仕事の準備があるからそれだけで我慢するわ」
「はいはい、三回ね」
「もっと多くたって構わないわ。リサがどうしても会いたいって言ってくれれば、夜中だって会いに行くわ」
「わぉ、私愛されてる。ロンより上かもね」
ニッと笑いかければ、ロンは「そんなの知ってるよ」と肩を竦めて少しだけ笑った。ハリーも笑っている。多少のぎこちなさは残るけれど、これで良いのだと誰もが思った。風化するまで、口にするべきではない。それでも、一つだけ。苦しむ事になるかもしれないけれど、一つだけ。そう思い、ハリーはポケットから封筒を取り出してリサに差し出した。
「何? ラブレター? ダメだよジニーがいるんだから」
「違うよ! これ、後で開けてくれる?」
「うん?」
「今はダメだよ。後で……誰もいない時に」
首を傾げて封筒とハリーとを交互に見てから、リサは笑って頷いた。
「何なの?」
「内緒」
「あら、私達に隠し事?」
「たまにはね」
わざとらしく顔を顰めるロンとハーマイオニーに笑いかけ、ハリーは壁の中へとカートを進めた。ロンとハーマイオニーも後に続き、リサが一人ホームに残された。封筒をジッと見つめてからポケットに大切にしまい、カートを押して壁の中へと入って行く。
「………え、」
この壁を越えた先は、キングズクロス駅の九番線と十番線の間の柵がある。リサ達の乗っていた列車が停車するプラットホームは、マグルと呼ばれる非魔法族達が通行の手段として使う列車が停車する駅に作られた秘密のホームなのだ。当然、マグル達はそれに気付いてなどいないし、これからも気付く事はない。この壁はマグル達が入り乱れる九番線と十番、そことリサ達魔法族の使用する九と四分の三番線とを繋ぐ道だ。他へ繋がる事など有り得ない。
そう、有り得ないのだ。
「う、み……?」
けれど、リサはそこにいた。壁を抜けた先に見えたものは、決して見えるはずのないもの。本来なら先に壁を潜った親友達や沢山のマグル達が見えるはずだった。けれど、現在リサの視界に広がるのは真っ青な海。僅かに揺れる感覚は船なのだろうと判断出来たが、どうしてこんな場所にいるのか理解が出来ない。思考が働かない。
「お前ェ、何者だ?」
突然背後から聞こえた声に振り返ると、人相の悪い男達がズラッと並んでいた。手には剣や銃などが構えられていて、リサは息を呑んで固まった。金髪でとある果物を連想させる髪型の長身の男が前に出てきてリサの正面に立つ。身長差があり過ぎて見上げなければ顔が見えない。背後に並ぶ集団には、この男よりも更に大きい男が沢山いるのだから驚きだ。
「聞いてんのかよい」
「っ、ぇ、あ……」
「お前ェが何者か聞いてんだ、答えろい」
特徴的な語尾で問いかけた男が、眠そうな細い目でリサを見据えている。紫色のシャツという派手な服装だけれど、前は完全に肌蹴ていてその胸元には何かの模様だろうか、刺青が大きく彫ってある。怖い、そう思ってしまうと声など出るはずもなかった。
「おい」
「っ、」
口を開けても声にならず僅かに動くだけ。身体が震えている事に気付いた男が小さく舌打ちをして自らの首を摩った。
「サッチ!」
「へいへい、お前が威圧すっからだろ」
「うっせぇよい! さっさとしろい」
集団の中からこちらにやって来るのは、これまた特徴的な頭に、何故かコックのような服を纏った長身の男。どれだけ時間をかけているのか知る由もないが、その立派なリーゼントを見ると思わず感心してしまう。サッチと呼ばれた男はリサの前にしゃがみ込むと怯えているリサを安心させるかのように満面に笑みを浮かべた。人懐こいその笑みは、ロンの兄であるジョージとフレッドを彷彿とさせた。二人を思い出したからか、ほんの少しだけホッと息をついたリサは「名前は?」というサッチの問いに何とか答える事が出来た。
「リサ、です」
「リサね。俺はサッチってんだ、よろしくな」
差し出された手はとても大きくて、逡巡した後おそるおそる手を伸ばして触れてみると、ゴツゴツした手は思っていた以上に温かかった。
「あー、リサはどうやって来たんだ?」
「……えと、気付いたら、ここに」
難しい顔をされても、そう答えるしかない。サッチは背後に立つ金髪の男をチラと見てからリサを振り返り苦笑した。
「リサは能力者なのか?」
「能力……?」
魔法の事を言っているのだろうか?もしそうなのだとしたら答えはイエスだ。けれど、この男達が魔法使いとは思えない。現に、彼らが手にしているのは杖ではなく、マグル達が使う武器なのだ。
「あの、能力、というのは……」
「悪魔の実だよ。何か食ったのか?」
「ぇ、え? 悪魔、の……実?」
「何ですか、それ」と続ければ、サッチは益々難しい顔をした。それからもう一度後ろの男を見上げる。男は胡散臭そうな顔でリサを見下ろしていた。
「お前、何処から来たんだよい」
「何処、って……キングズクロス駅、ですけど………」
「キングズ……?」
「キングズクロス駅です。あの、イギリスの……ここ、イギリスじゃないんですか?」
様々な人種を見るに、もしかしたらアメリカかもしれない。けれど、それならばどうしてここに?リサも難しい顔で考え込んでいると、頭上から降ってきたのは信じられない一言だった。
「イギリスなんてモンは知らねぇよい」
「………は?」
間抜けな顔をしているのだろう、見上げた先にいる男が片眉を上げてリサを見下ろしている。
「ぇ、と……今、何て?」
「知らねぇっつったんだ。イギリスってのァ、お前のいた島の名前か?」
「えと、イギリスは国名で……島で言うなら、グレートブリテン島とアイルランド島、です」
「ぐれーとぶりてん? あいるらんど?」
サッチが男に問いかけると男はリサを見下ろしたまま「知らねぇ」と吐き捨てる。一体、何がどうなっているのだろうかと混乱し始めたリサに、男は未だ詰問を続ける。
「どの海から来た?」
「海……?」
「ここはグランドライン。お前の言う何とかって島があんのは何処の海かって聞いてんだよい」
「………ごめんなさい、言ってる意味が、」
男が溜息を吐く。苛々しているのが分かり僅かに身体を震わせ、リサは何だか泣きたくなっていた。それに気付いたのか、サッチがリサの頭をポンポンと軽く叩いて笑いかけてくれた。
「リサのいた島は何処の海にあんだ?」
「ヨーロッパ、だから……北極海、大西洋……?ごめんなさい、地理は詳しくなくて……えと、ロンドンにいたんです。ロンドンのキングズクロス駅。その、ゲートを潜ったら突然ここにいて、」
そこまで口にしてハッと息を呑んだ。嫌な予感が頭を過ぎった所為で変な汗が背中を伝う。
「は? 北極海? 大西洋?」
「………まさ、か……」
首を傾げるサッチに、頭を過ぎった『それ』が正解なのだと悟る。けれど、まさか。そんな事が?頭の中でグルグルと『何で』『どうして』という言葉が飛び交う。答えなど出るはずもないというのに。
「別、の、世界……?」
誰かが「違う」と言ってくれる事を願って口にした言葉は、けれど誰からの反論も無く、虚しく空へと溶けて消えた。