20


頬を撫でる心地良い風にそっと目を閉じる。目を開いていても閉じていても変わらない闇の世界は、絶対的な安心感と同時に孤独感さえも運んできてしまう。眼下に広がる黒い海は既に見慣れたもので、寄せては引いていく波はまるで「こっちへおいで」と誘っているように見えた。

不意に聞こえた小さな靴音。フラフラと覚束無いそれは靴音の主を想定するには十分すぎるもので、リサは自嘲に似た笑みを浮かべた。
靴音はリサのすぐ後ろまでやって来て止まった。躊躇しているのだろう、その人物は数瞬の間そこにじっと佇んでいたが、やがて意を決したかのようにリサの隣までやって来て腰を下ろした。風に靡く真っ黒な長い髪がリサの視界に入り込んだ。

「……何から、話せば良いんだろうな」

海を見つめたままのリサには、相手がどんな顔をしているのかは分からない。けれど、きっといつものように複雑そうな表情を浮かべているのだろうと思った。

「本当は、もっと早くこうして話すべきだった。俺は……向き合うのが怖くて逃げてたんだ……アヤが死んだって事を、認めたくなかった」
「…………」
「あの時も……自由になりてェなんて言って、本当は逃げてたんだ……怖かった」
「貴方は、ずるい」

真っ黒な海を見つめながらそう返せば、隣で微かに笑ったような気配がした。

「俺はどうしようもねェ臆病者で、卑怯なんだ……その上、惚れた女一人護れねぇクズだ」

隣に座るリサが驚いたように振り返ったのが視界の端に移り、レイは苦く笑った。

好きだった。

屈託の無い笑みを向けてくれる彼女が。いつも後を追ってくる可愛い彼女が。いつも傍にいて味方してくれていた彼女が。

だからこそ、呪った。どうして彼女なのかと。どうして血の繋がった妹が彼女なのかと。あの島には他にも女がいたというのに、どうして心から愛した女性が彼女だったのかと。

「怖くなって逃げたんだ。妹として見てられなくなりそうで……気持ち悪ィだろ? 実の妹に惚れるなんて……自由になりたかったのも本当だ。海に出て、外の広い世界を知りたかった。この目で見たかった。だから……外の世界で生きる為に『秘宝』を盗んだんだ。そうすれば島の皆は俺を赦さないと思ったから……大事な宝を持ち出して逃げれば、あの島へ帰らなくて良い理由が出来ると思ったから」

ただそれだけだった。帰らなくていい理由が欲しかった。彼女に会わなくていい理由が欲しかった。
それが、こんな事になるなんて思いもしなかった。愛した彼女を死に追いやる事になるなんて、予想だにしていなかった。

「自分の事しか考えてなかったんだ、俺は……島の皆が死んだのも、アヤが死んだのも………全部、俺の責任だ」

リサに向き合い、両手を地につけて頭を下げた。
本当はもっと早くそうするべきだった。逃げてただけだ。彼女にそっくりなリサと向き合うことが怖かった。自分の知らない男と結婚して子どもを産んだ。それはとても自然な事で当たり前な事だったのに、受け入れることが出来なかった。怖かった。逃げたかった。嫌われてるからなんて理由ではない。ただ、自分がリサに接する事を拒んでいたのだ。

「謝ってどうにかなる事じゃないって分かってる。それでも……本当に、すまなかった………すまなかった……!!」

地に頭を擦りつけて謝るレイを見つめていたリサは、やがて視線を海へと戻して静かに息を吐き出した。

「………貴方はずるい」
「…………」
「一度だって本当の事を言おうとしない」
「……さっきのが、事実だ」
「ママを想ってたことはそうなんだろうね、けど……貴方は肝心な事を何も言わない」

「それは私もか」と呟いてリサは微かに笑った。

「ママは……いつも海を眺めてた」

毎日毎日、飽きることなく海を眺めていた。何が楽しいのか、いつも笑って海の向こうを見つめていた。

「島が外からも見えるようになって、外の新聞も毎日届くようになって……ママが夜中に白ひげ海賊団の記事をスクラップしてるの、見た」
「………そう、か」
「『赤竜のレイ』って書かれた貴方の手配書、島の皆は怒ってすぐに捨ててたけど……ママだけは大切に保管してた。手配書の額が上がるたびに運ばれてきて、ママは全部大切にしまってた」

そっと目を閉じると甦る母の姿。いつだって楽しそうに『兄』の話をしてくれた。島の人達がどれだけ彼を悪く言おうとも、口汚く罵ろうとも、母だけは笑って兄の話をしてくれた。

「何回も聞かされた。いつも傍にいて助けてくれたヒーローだ、って」
「っ、」
「あんまり貴方のことばっかり言うから『じゃあパパは?』って聞いたの。そしたら、パパは王子様だって。けど、ママにとってのナイトはたった一人で、それはこれからも変わらないんだって笑ってた」
「………!!!」

グッと唇を噛み締めて必死に泣くのを堪えるレイを振り返り、リサは顔を歪めた。

「何で言わなかったの」
「…………」
「一度だって、貴方は言わなかった。言い伝えを知らない貴方が社の場所を知ってるわけない。あの社から『秘宝』を持ち出して、誰にも気づかれずに島を出れるわけない……!」

俯いたまま何も言わないレイに、リサは滲んだ涙を拭う事もせずに大きく息を吸い込んだ。

「ママが……っ、手伝ったんでしょう……!!?」
「………!!」
「島が危険になるって分かってて……っ、海賊に襲われる危険があるって分かってて、それでも貴方が海へ出るのを手伝ったんでしょう!!?」

レイは何も言わなかった。ぽたり、ぽたりと俯いたままのレイから雫が零れ落ちて地面に溶け込んでいく。僅かに震える身体が、その涙が肯定の証だった。

「分かってたもん……っ、最初から、全部………でも、赦せなくて……っ!」

分かっていた。彼だけが悪い訳ではないということを。分かっていた。彼女が言い伝えを教えさえすれば、彼は海に出なかったであろうことも。何も知らない彼に、何も告げずに海に出る手引きをした彼女が、何よりも罪深いのだということを。
言ってくれれば良かった。自分は何も知らなかった、彼女が手引きをしてくれたんだ、と。既にこの世にいない彼女の所為にしてくれれば良かった。ふざけるなと罵ることが出来た。人の所為にするなと、最低だと叫ぶことが出来た。

けれど、彼はそうしなかった。

彼女を護る為に何も言わなかった。リサの彼女への愛情を護る為に自分だけが悪者になろうとした。

「嫌い……っ、助けに来てくれなかったくせに……、どれだけ待っても来てくれなかったくせに……! ママが殺されるのを助けてくれなかったのに……何で……っ!!」

護らないで欲しかった。嫌な奴でいて欲しかった。ヒーローなんてカッコイイものじゃないと思っていたかった。そんなご立派なものではなく、ただの利己主義で最低な人間なのだと思いたかった。

目の前の男だけではない。臆病で卑怯なのは自分も同じだ。そして、彼女も――。

「似なくて良いところまで似ちまったな」

困ったように笑うレイにリサは唇を噛み締めて俯き続けた。次々に溢れて頬を伝う涙は既に止める術を失っている。拭う事をしないリサに眉を下げて笑ったレイは、そっと手を伸ばしてその頬に触れた。てっきり振り払われるだろうと思っていたが、予想に反してリサは何もアクションを起こさなかった。頬を伝う涙を指で拭ってやる間も、リサは何も言わなかった。

「助けに行ってやれなくて、ごめん」

優しい腕がリサを包み込む。身を強ばらせたのは一瞬で、温度のある腕にホッと息を吐き出すと、抱きしめる腕に力が篭った。

「会いに来てくれて、ありがとう」
「………べつに、会いたかった、わけじゃ、ない」

意地っ張りな姪に、レイは困ったように眉を下げてから顔を綻ばせるのだった。