19


全身の激痛が消えていく。こうして海の中に潜ってどれくらい経っただろうか。奥深くまで沈んでいったリサには地上の時刻が分からない。朝だろうか、昼だろうか、夜だろうか。夜だと良いとリサは思った。夜ならば太陽に脅えることなく地上を歩くことが出来る。

海面に向かって泳いでいくと、徐々に空の色が見えてきた。陽の光は見えない。どうやら太陽はもう沈んでしまったらしい。安堵しそのまま海上に飛び上がると、崖の上にはマルコ、アリッサ、ハルタの他に沢山の人間の姿があった。それは紛れもなく白ひげ海賊団のクルー達で、驚き目を見開いているとグラグラと笑う声が耳に届く。声のする方を見ればすぐに見つけた心優しく偉大な男の姿。

「レイの赤竜も嫌いじゃねェが、黒い竜ってのも悪くねェな」

人の姿に戻り白ひげ達の前に降り立つと、人垣を掻き分けてアリッサとハルタが飛び出してきた。

「リサ!」
「大丈夫!?」

アリッサの細い手が頬を包み込むと、何処にそんな力があるのかと思うほどに力強く左右に傾けられた。ぐき、ぐきと骨が悲鳴を上げるが、気付かないらしいアリッサはリサの顔に火傷の痕が無い事を確認するとホッと安堵の息を吐き出して抱きしめた。リサの腕を確認していたハルタも同じようにリサとアリッサにしがみ付いて「すごい!」と興奮気味に叫ぶ。

「ホントに治ってる!」
「良かった……本当に、無事で良かった……!」
「……ご、ごめん……心配、してくれて……ありがとう」

おずおずとアリッサとハルタへ手を伸ばして抱きしめると、二人の力も強くなった。温かい。生きてる。無意識に表情を緩めたリサは、小さく安堵の息を漏らした。
再び聞こえたグラグラという笑い声にそちらを見れば、こちらを見下ろす穏やかな目とかち合った。

「いい仲間を見つけたじゃねぇか」
「………なんで、来たの」

躊躇いがちに問いかけると、一歩前に出て来たマルコが白ひげの代わりに口を開いた。

「お前、レイに何しやがった」

あからさまな敵意の篭る視線と言葉にアリッサが顔を顰め、リサを庇うようにして前に出た。

「リサが誰かを傷つける訳ないわ! この子は優しい子だもの!」
「アリッサ……」

リサは目を丸くしてアリッサを見つめた。マルコの背後に並ぶ強面の男達に怯えているのか、僅かに身体を震わせているアリッサはそれでも負けじとマルコを睨み返している。

「テメェは黙ってろ、口出しすんじゃねェ」
「リサを傷つけるような事をしないでって言ってるのよ!! 第一、リサがやったって証拠でもあるの!?」
「いいよ、アリッサ、ありがとう」
「でも……!」

納得がいかない様子のアリッサに微笑んでみせれば、アリッサは渋々と頷いて下がった。代わりに前に出たリサはこちらを見下ろすマルコを無表情で見上げて口を開く。

「私は何もしてない」
「そんなこと――」
「けど、あの人が苦しんでるのは私が理由だろうね」

マルコの言葉を遮って続ければ、僅かに目を見開いたマルコが鋭くリサを睨み付けた。背後に立つクルー達からもいくつか鋭い視線が向けられる。

「突き詰めていけば、自業自得だけど」
「テメェ……!!」
「待て! マルコ!」

リサに掴みかかろうとしたマルコをロイが止める。サッチを呼び寄せてマルコを押さえつけさせると、ロイはリサに歩み寄って困ったように微笑んだ。

「悪いな、アイツ短気なんだ」
「……別に」
「なぁ、教えてくれないか? レイに何が起きてるんだ?」

身を屈めて目線を合わせたロイがリサに尋ねる。落ち着いた声音とは裏腹に、その目には確かに焦りが浮かんでいた。その目を見ていられずに顔を背けたリサは、眉間に皺を寄せてぽとりと声を落とす。

「……死ぬよ」
「!!」
「『赤竜のレイ』は死ぬ」
「……どうすれば助かるんだ? 何も方法は無いのか?」
「…………」
「リサ、頼む。教えてくれ」
「俺からも頼むよ、リサ……レイを助けてやりてェんだ」

マルコを押さえつけながらサッチが呼びかける。リサはサッチを見る事が出来なかった。誰かの手がリサの手をそっと握った。手を目で追っていけばかち合ったアリッサの気遣わしげな顔。大丈夫よ。僅かに動いた唇がそう言った気がした。

「………助からないの」

アリッサを見つめたまま呟くと、アリッサは一瞬目を見開いたけれどすぐに優しく微笑んだ。その温かい表情に母の笑顔が甦る。リサの目からぽたりと雫が零れ落ちた。

「仮に助かったとしても……貴方達の知ってるレイとは違う」
「どういう、事だ?」

ロイの問いかけにリサは唇を噛み締めて涙を拭った。黙って耳を傾けている白ひげを見つめると視線がかち合う。

「私は、助けたいと思えない」

白ひげは何も言わなかった。




「………ざけんな、」

サッチに押さえつけられたままのマルコがぽつりと呟く。次の瞬間、渾身の力でサッチを振り払ったマルコはリサへと飛びかかった。地面に押し倒すと、ロイの制止も聞かず上に跨ってリサの襟元を掴み上げた。

「ふざけんじゃねぇ!! テメェがどう思おうが関係ねェ! レイを助けろっつってんだ!!」
「マルコ! 止めるんだ!!」
「落ち着けって!!」
「落ち着いてられるか! レイが……っ、レイが死ぬ!? 赦さねぇ!! そんな事、俺は絶対赦さねェ!!」
「っ、たし、だって……!」

苦しい体勢に顔を歪めながら、リサは負けじとマルコを睨みつけた。

「私だって同じよ……っ、赦さない! 私は全部失った! 故郷も家族も何もかも……!! 何も知ろうとしないで秘宝に手を出すからよ!! 死にそうだから助けてくれ? 自業自得でしょう!!?」

マルコが腕を振り上げる。こちらに向けて振り下ろされるそれにリサはグッと歯を食いしばって強く目を瞑った。けれど、いつまで経っても痛みがこない。そっと目を開けると、レイがマルコの腕を掴んでいた。

「止めてくれ」
「レイ……」
「いいんだ、ありがとな」

力なく微笑むレイにマルコの顔がくしゃりと歪む。サッチがやって来てマルコの下からリサを引っ張り出すと、複雑そうな表情でリサの頭を優しく撫でた。

「ケガ、ねぇか?」
「………無理に優しくしなくていい」
「リサ……」
「サッチだってあの人と同じでしょ。私が助けたくないって言ってるから怒ってる」
「怒ってねぇよ。ただ、まぁ……悲しい、けどな」
「…………」

顔を歪めてそっぽを向いたリサに、困ったように笑ってサッチは服を整えてやった。

「俺は、アンタに死んで欲しくねェんだよい……!」

マルコの苦しげな叫びにリサの顔が更に歪んだのをサッチは見た。つくづく甘い奴だと思う。自分がリサの立場だったなら、迷う事なくレイを殺すだろうとサッチは思った。誰が何を言ったとしても揺らぐことはないだろうと自覚している。それが出来ないリサは何処までもお人好しで、復讐なんてものは似合わない。

「ありがとな、マルコ」

ぐしゃぐしゃに顔を歪めたマルコの頭を力強く撫でてレイは笑った。それがマルコを余計に苦しめている事に気付いてはいないのだろう。鈍感過ぎる兄に溜息すら出てこない。ロイも同じ事を考えているのだろうか、呆れたような視線をレイに向けながら頭を掻いている。
サッチとロイの思いなど露知らないレイはポンポンとマルコの頭を軽く叩くとリサへと向き合った。

「リサ」

呼びかけるとリサがゆっくりとレイを振り返る。レイの赤い目とリサの黒い目がかち合った瞬間、ドクンと心臓が跳ね上がった。次の瞬間に全身を襲う激痛にレイの表情が歪む。その場に蹲ったレイにマルコが目を見開いて駆け寄ってリサを睨んだ。

「テメェ……! レイに何しやがった!!」
「………私は何もしてない。赤竜が勝手に暴れてるだけ」
「何……?」
「どういう事だ?」

ロイの問いかけに、リサはレイを無感動な目で見つめたまま答えた。

「言ったでしょ、『秘宝』はただの悪魔の実じゃないって。あの島の社に安置しておく事で島を護ってた。その人が秘宝を奪った事で島は保護を失い黒竜が生まれた」
「黒竜って、リサの……?」

サッチの問いに頷いてリサは続ける。

「島を保護する事を放棄した竜を裁く。それが黒竜の役割」
「裁く……? どういう意味だ、よく分かんねェよ」
「本来、『秘宝』には四体の竜が混在していたと言われてる。青竜、白竜、赤竜、黄竜の四体がそれぞれの方角――東西南北を守護して島を護っていた。『秘宝』を社に安置する事で力を発揮して島を隠しているのだと言われてる。あの島に生きる者達は遥か昔からその言い伝えを学び『秘宝』に護られ、『秘宝』を護り生きてきた。そうやって生きてきた」

言葉を切ってリサが拳を握り締める。こちらを見上げるレイの赤い目が憎くて仕方なかった。

「けど、その人はそうしなかった。学ぶことを放棄し、自分の為だけに『秘宝』を持ち出して島を出た。力を望んだんでしょうね、この海で生きていく為に。強い力を望んだからこそ、貴方は赤竜となった」

誰も何も言わなかった。シンと静まり返ったそこにリサの静かな、けれど怒りの篭った声が響く。

「四竜の均衡は崩れた。赤竜が生まれた事により他の竜は力を失った。赤竜は世界を燃やし尽くす事すら出来る力を持つ危険な竜。だからこそ、他の三体とは異なる力を持つ黒竜が現れた。赤竜を滅ぼして均衡を取り戻す為に」
「「「!!!」」」

息を呑む音があちこちから上がる。それでもリサは淡々と目の前のレイを見つめながら続けた。

「私が黒竜となった時点で赤竜の運命は決まっている。あとはもう、滅ぶしかない」
「駄目だ!!!」

マルコが声を荒らげた。

「そんなの許さねぇ……!」
「無駄だよ。もう終わってる」
「な……」
「赤竜は既に衰弱しきっている。あと二、三日も保たない」
「………!!!」
「赤竜は消える。本体である貴方も……消える」

ガクリと膝を折ったマルコが地に手をついて項垂れる。どうする事も出来ない自分が悔しくて堪らなかった。助けたいのに助けられない。何も出来ない。力の篭った指先が地面に跡をつけていく。ぽたり、ぽたりと零れ落ちた雫が地面に染み込み色を変えていった。

「畜生……!! 畜生……ッ!!!」

何度も地面を殴り付けるマルコを見るリサの目には、やはり何の感情も見えなかった。

「――それだけか?」

全員の視線が白ひげに集まる。白ひげは静かにリサを見下ろしていた。

「お前が言いてぇ事は、それだけか?」

白ひげの視線に耐え切れずに僅かに顔を背ければ、小さな溜息のようなものが降ってくる。伸びてきた大きな手がリサの頭を撫でた。

「もう逃げるのを止めたらどうだ」
「…………」
「誰よりも傷付くのはお前じゃねぇか」

グッと拳を握り締めて唇を噛み締めたリサは、やがて深呼吸を一つして肩の力を抜いた。白ひげを見上げると、先程と変わらない穏やかな目がこちらを見下ろしていた。

「……本体が助かる方法はある」
「「「!!!」」」
「本当か!? どうやっ――うわっ!」

リサに詰め寄ろうとしたサッチを押し退けてマルコがリサの肩を強く掴んだ。涙を溢れさせ、顔を歪ませたマルコの青い目が真っ直ぐにリサを見つめている。

「教えてくれ!! レイを助けてェんだ……!!」
「…………」
「無茶言ってんのは分かってる……!! お前がレイを赦せねェのも分かってる……!! けど……っ、俺はっ! レイに死んで欲しくねェんだ……!!!」
「マルコ……」
「頼む……っ!! レイを助けてくれ……!!!」

強く掴まれた肩が痛い。マルコの訴えに顔を歪ませたリサはチラリとレイへと視線をやった。苦しいのか心臓の辺りを強く掴みながら何かに耐えるように顔を歪めている。
再びマルコへ視線を戻すと、リサは今度は白ひげへと視線を移した。リサの考えている事が全て分かっているのか、相変わらず穏やかな顔でこちらを見下ろしていた。

「………母さん達が死んだのは貴方の所為だ。私は貴方を赦さない」

大きく息を吸う。吐き出した息は真っ黒で、驚いたマルコが僅かに身を仰け反らせた。真っ黒な靄は真っ直ぐにレイの元へ向かい、その身体を一瞬で包み込んでしまった。

「っ、レイ!!」

焦った声を上げたマルコが手を伸ばすが、白ひげが止める。靄に包まれたレイがどうなっているのかは分からず、誰も何も出来ずその場に立ち尽くしていた。

「、リサ! 何処行くんだよ!?」

マルコ達に背を向けて歩きだしたリサに気付いたサッチが声を上げる。リサは振り返らないまま口を開いた。

「それ、消えるまで誰も触らないで。触ったら死ぬよ」

再び歩きだしたリサを呆然と見送ったサッチ達は、未だ靄に包まれたレイを見つめた。

「ど、どうする……?」
「そりゃ、このままにしとくしかねェだろ」
「……助かる、のか?」
「さぁ……」

あちこちから上がる困惑気味の声。成り行きを見守っていたアリッサの袖がくいと引っ張られる。見下ろすとハルタがそこにいた。

「行かないの?」
「そうしたいのは山々だけど、待つことにするわ。迎えに行くのは私の役目じゃなさそうだもの」
「そっか……じゃあ、僕も待ってる」

リサの消えた方を見つめるハルタに微笑み、そっと手を握ってアリッサは靄に包まれたままのレイを振り返った。

「不器用な人達が多いのね、この船は」

呟きは誰にも届くことなく風に攫われて消えた。