消えろ。リサが念じると真っ黒の靄はたちまち消え去った。靄に包まれていた少年がそっと目を開けて自らの手を見つめる。そっと首に触れてみると、先程まで嫌というほどその存在を主張していた首輪は跡形もなく消え去っていた。
「これで全員ね」
アリッサの言葉に牢屋中が頷いた。ほんの十数分前まで絶望し塞ぎ込んでいた彼らは、打って変わって希望に満ちた表情をしている。
「見張りが戻ってくる前に逃げるんだ……!」
「まずは武器だな」
「戦えない奴らは隙を見て逃げるんだ」
「外に出たらとにかく逃げるんだ。捕まったら今度こそ終わりだぞ」
「リサ、あと少しだけ頑張れる?」
気遣わしげに尋ねるアリッサに、リサは弱々しく微笑んだ。ついさっき身に付けたばかりの能力を行使しすぎた事で身体は休息を求めていたが、今ここで倒れるわけにはいかない。逃げなければ意味がないのだから。
「だい、じょうぶ」
深呼吸を繰り返して再び黒い靄を現すと、それはたちまちリサ達を閉じ込めていた鉄格子を消し去った。男達が武器を探すために辺りを警戒しながら外へと向かっていくのを見送りながら、リサは大きく息を吐き出した。
「アリッサ、先に逃げてて」
「ダメよ。一緒じゃなきゃ行かないわ」
即座に返ってきた言葉にリサは困ったように眉を寄せた。けれど、アリッサは断固たる表情でリサの頬を撫でた。
「貴方のおかげで助かるかもしれないのに……貴方を置いていくなんて出来ると思う?」
「でも……」
「私が背負うわ。貴方を置いて行ったりしない。そんな事したら、きっと私は一生私を赦せなくなる」
揺らがないその視線に見つめられ、リサは観念して微笑んだ。
「捕まったらごめんね」
「縁起でもないこと言わないでちょうだい」
リサの言葉にアリッサが苦笑を零したその時だった。近付いてくる足音に二人はビクリと肩を揺らした。他の人達は既に牢屋を後にしている。上で誰かに見つかり、ここに誰か残っていないかと確認しに来たのかもしれない。思うように動かない身体を何とか動かそうと試みるが効果は期待できそうになかった。逃げて。再度アリッサにそう言おうと口を開いたその時、扉が開いた。
けれど、入って来たのはリサ達が思っていたのとは別の人物だった。
「あ、やっぱりまだいた! 武器見つけたよ!」
現れたのは最後に首輪を外した少年だった。まだ十歳くらいだろうか。無造作に肩まで伸びた明るい髪を揺らしながら階段を降りてくる少年は、切れ味の良さそうな剣を持っていた。
「動ける?」
「どうして……」
「何が?」
「逃げたんじゃなかったの?」
アリッサの問いに少年は首を傾げて頷いた。
「うん、けど二人が中々来ないから。どうせここを逃げても行くところないしね。助けてもらったし、一緒に行こうと思って」
「でも、私も行くところなんて……」
「私も……」
顔を見合わせた三人はそれぞれ苦笑を零して肩を竦めた。
「とにかくここを出ましょう。先のことはそれからよ」
「そうだね、えっと……リサだっけ? 歩ける?」
「うん……何とか、」
「嘘つき。私が肩を貸すわ」
アリッサに支えられて漸く立ち上がると、少年を先頭にして三人は階段を上り始めた。
「まだ君の名前聞いてなかったわ。私はアリッサ、君は?」
「ハルタだよ」
「ハルタね。もし私達が捕まるような事になった時は――」
「大丈夫だよ、僕だって少しくらいは戦える。それに僕だけ逃げるなんて出来ないよ」
「でも……」
「じゃあ、ほら。見つからない内に早く逃げよう! こっちに裏口を見つけたんだ」
ハルタの先導で外へと向かっていると、表の入口の方から銃声が聞こえてきた。どうやら見つかってしまったらしい。顔を見合わせた三人は先に逃げた他の奴隷達の無事を祈りつつ足を速めた。
「リサ、大丈夫?」
「大丈夫、がんばる」
「ここを出たらさ、まず何か食べたいな。僕もうお腹ペコペコ」
緊張感のない言葉を口にするハルタに、リサとアリッサは顔を見合わせて僅かに微笑んだ。
「そうね、私もお腹ペコペコだわ。何か美味しいものが食べたい」
「私も」
ここを出たら。逃げることが出来たら。
あの時とは違う、とリサは自分に言い聞かせた。あの時は独りだった。誰もいなかった。けれど今は違う。アリッサとハルタがいる。独りじゃない。もう独りじゃない。怖くない。
気分が高揚していた。漸く見えた出口から漏れる光に三人は頬を緩ませ、必死に足を動かした。誰かが見張っているかもしれない、とハルタが剣をしっかり握りしめ、リサ達は覚悟を決めて外へと足を踏み出した。
「やった! 誰もいないよ!」
漸く青空の下に出ると、ハルタは見張りがいない事を確認して顔を綻ばせた。少し遅れて外に出たアリッサも同じように喜び、それはリサも同じだった。
失念していたのだ。独りじゃない。その事がリサに大切な事を忘れさせてしまっていた。
「――ああああぁぁぁっっ……!!!」
「リサ!?」
「どうしたの!?」
突然叫び声を上げ、その場に崩れ落ちたリサにアリッサとハルタが驚いて声を上げる。顔を押さえてのたうち回るリサに二人は困惑し顔を見合わせる事しか出来ない。何かが焼けるような音が二人の耳に届いた。
「い、たい……っ、あつい……っ!!」
「リサ! どうしたの!? リサ!!」
「――アリッサ! これ……!」
リサに駆け寄ったハルタが、顔を押さえるリサの手を見て引き攣った声を上げた。アリッサがハッと息を呑む。
「どうして……」
「ど、どうすれば良いの!?」
「わ、分からないわよ……っ! ――あっ!」
リサの叫び声で気づかれたのだろう。武器を手にした男達がこちらにやって来るのが見えた。
「見つけたぞ!!」
「こっちだ!! 能力者の女もいるぞ!!」
「ど、どうしたら……!」
「早く逃げなきゃ!」
「でも……っ! リサがこんな状態じゃ、とても運べないわ!」
襲いかかる男達に何とか立ち向かおうとハルタが剣を振りかぶる。幼いハルタがどれだけ強いのかは分からないが、そう長く保つとは思えない。どうしよう、どうしようと零す事しか出来ないアリッサは、リサが必死に顔を隠そうとしている事に気付いた。
「まさか……――太陽!?」
能力者にとっての海が、リサにとっての太陽なのかもしれない。普段ならそんな事考えもつかなかっただろうが、この時のアリッサにはその仮説が正しいのだと信じる事が出来た。自棄になっていたのかもしれない。
自らが来ていた服を脱ぐと太陽から隠すようにリサに被せた。
「リサ! しっかりして!!」
未だ痛みに呻くリサに必死に呼びかけるが、返事はない。逃げなければならない。
ハルタはアリッサが思っていた以上に強かった。襲いかかる男達を次々に斬り倒していくが、複数の大人と子ども一人では先は見えている。どうしよう。どうしたら。どうすれば。
必死に辺りを見回したアリッサの目に、あるものが映った。
「――ハルタ!! すぐに戻ってくるからリサを護ってて!!」
「えっ!? わっ、」
危うくバランスを崩しそうになったハルタは何とか態勢を整えてアリッサを振り返った。けれど既にアリッサは何処かへ行ってしまった。背後から降りおろされた剣を間一髪で避けながらハルタは困ったように眉を下げた。
「ど、どうすれば良いのさ!?」
倒しても倒してもキリがない。せめてリサだけでも売りに出したいと考えているのだろう、表の方から次々にやって来る男達にハルタは唇を噛み締めた。もうダメかもしれない。リサを護り切れないかもしれない。
「――どうせ、死ぬなら……!最期まで戦ってやる……!!」
奴隷として生きるくらいなら死んでしまおうと思っていた。売られる前に舌を噛み切って死んでやろうと思っていた。奴隷になるという事がどういう事なのか、子どもである自分にだって理解出来る。そんな自分をリサは救ってくれた。未来への希望を与えてくれた。もう終わりだと思っていたのに、先へと続く道を示してくれた。
「早く戻って来てくれよ、アリッサ……!」
自分が死ぬ前に。リサが捕まる前に。三人で未来への道を進む為に。
大きく息を吸い込み、剣を強く握りしめてハルタは地を蹴った。