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島を出て初めて知った。陽の光を受けてキラキラ輝いて見えたあの海が、実はとても暗くて恐ろしくて悲しいものなんだという事を。
海の中を泳ぐ生き物達は何を想って生きているのだろうか。真っ暗な海の中を当てもなく彷徨いながらリサはそんな事をぼんやりと考えた。

「……きて、ねぇ、」

目を開けていても閉じていても変わらない闇。光の射さない深海で、リサは闇色の自分の手を見て自嘲した。

「起きてったら……」

闇は消えない。むしろ更に大きく濃くなっていくばかりだ。光は射さない。光の射す場所に存在することは出来ない。
どんなに渇望しようとも、あの光はこの身を滅ぼすだけなのだから。

「ねぇ、起きて!」

パン!という大きな音でリサはパチリと目を開けた。目の前に見える薄汚れた細い手を呆然と見つめる。どうやら先程の音の発信源はここらしい。一体これは誰の手だろうかと緩慢な動きで顔を上げると、疲れた表情の女性がこちらを見下ろしていた。

「あぁ、良かった……ずっと起きないから死んじゃったのかと思った」

眉尻を下げて安堵の息を漏らして微笑んだ女性は、その整った顔立ちには不釣合な格好をしていた。あちこち薄汚れているワンピースはそれでも上物だと一目で分かるもので、けれどそれは彼女の美しさを曇らせるどころか却って際立たせているようにも見えた。
呆然と見蕩れていたリサに僅かに首を傾げた女性は、心配そうな表情でリサの目の前で手を振る。

「聞こえてる? 大丈夫?」
「、はい……」
「良かった……起き上がれる? 怪我はしていない?」
「だいじょうぶ、です……っ、?」

ジャラリ。身体を起こそうとしたリサの耳に冷たい音が飛び込んだ。その音の出どころを探せば、それはリサ自身の手首だという事に気付いた。両手首に嵌められた枷同士を繋ぐ太い鎖がジャラリ、ジャラリと冷たい音を奏でていたのだ。

「鎖……?」
「可哀想に……どうして貴方だけこんなに厳重なのかしらね」

女性の指した先に見えた自身の足も、手と同じように枷が嵌められている。殆ど身動きが取れない状態のリサは女性に助けてもらって何とか上体を起こした。腹筋に力を入れようとするとズキンと鈍い痛みがリサを襲う。何故こんなに痛いのだろうか、何処かにぶつけてしまったのだろうか。それよりも、一体ここは何処だろうか。辺りを見渡したリサの目に飛び込んだのは石造りの壁で、そのまま視線をずらしていくと鉄格子が目に入った。

「あ、の……」
「ん?」
「ここは……?」

躊躇いがちに問いかけると、女性は目を丸くしてから小さく微笑んだ。けれどそれは決して楽しげなものなどではなく、悲しげで、まるで自嘲にも似た笑みだった。

「見たとおり、牢屋よ」
「牢、屋……」
「貴方、何処から連れて来られたの?」
「え?」

女性の言っている事が今一理解出来ない。首を傾げたリサに女性は悲しげに微笑んで手を伸ばしてきた。そっと頬に触れた細く柔らかい手は冷たく、思わず身震いをすると女性はまた悲しげに微笑んで手を滑らせて首元へと移動させた。女性の手が首に触れた事でリサは漸く気が付いた。首に何か輪っかのようなものが付けられているのだ。

「これは……?」
「これはね、奴隷の証よ」
「奴隷………?」

一体それは何なのかと尋ねれば、女性はまた目を丸くして訝しげな視線をリサに寄越した。

「貴方、本気で言ってるの?」
「え?」
「奴隷を知らないですって?」
「あの……ごめんなさい、島の外に出たのは初めてで……」
「………貴方の島は平和な島だったのね。でも少し異常よ、奴隷を知らない人間がいるなんて……」

嘆息した女性にリサは俯いて唇を噛み締めた。平和――そう、平和だったのだ。外の情報など殆ど手に入らず、あの島だけが世界の全てだった。あの島で手に入る情報のみがリサの世界であり、島に生きる者達の世界であった。

「奴隷って言うのはね、人間以下の存在よ」
「え……?」
「人間として生きる事を許されない。誰かの所有物として生きていかなければいけないの……ううん、生きるなんて言わないわね。『壊れる』まで使われて、『壊れたら』捨てられる……それが奴隷よ」
「そんな……」

そんな恐ろしいものが存在するなんて。一瞬で青褪めたリサに困ったように微笑んだ女性は、自身の首にもある輪っかを指して諦めたように笑った。

「これはその証。逃げようとすればこれが爆発して、私達はあっさり『壊れる』わ。今、私達は『ご主人様』が現れるのを待っているのよ……」
「ご主人様、って……」
「上の会場に連れてかれて私達は競りにかけられる……私達を一番高値で落札した人間が、私達の『ご主人様』」

目眩を覚えて強く目を瞑ると、宥めるかのように女性の手がリサの背中を撫でた。

「ほんの数日前までは私達もちゃんとした『人間』だったのにね……人攫いに捕まらなければ………」
「人攫い……」

女性の言葉でリサの脳裏に気を失う前の出来事が甦った。
白ひげ海賊団の船を下りて数日間、真っ暗な海を彷徨い続けていたリサは、孤独と恐怖に耐え切れずに再び光溢れる世界を目指した。太陽が姿を隠した頃合を見計らって海面に顔を出し、近くに見えた島に上陸したのだ。
鬱蒼とした森の中を彷徨い、街を目指していたはずだ。けれど、リサの記憶はそこまでしかない。この女性の言う事が正しければ、森の中で人攫いに襲われて捕まったのだろう。
ふと自身の手を見下ろせば、左手首に手錠が嵌められていた。けれど、女性の手首には嵌っていない。一体これは何だろうかと女性に尋ねようとしたその時、何処かで扉が開く音がした。

カツン、カツンと靴音が近付いてくる。鉄格子の向こうに見える階段を降りてきたのは、葉巻を銜えた、いかにも悪人といった様相の男だった。

「んん? 何だ、目が覚めたのか」

男がリサを見てニヤリと口元を歪める。気味の悪いその笑い方に顔を顰めれば、突然男が哄笑した。

「今日は素晴らしい日だ!! こんな面白いものが手に入るなんて!」

指に挟んだ葉巻をひたとリサに向け、男はまた顔を歪ませた。

「悪魔の実の能力者は海に嫌われる。この世界に存在するどの実を食べてもそれは変わらない、変わらないはずだ。だが!!」

勝ち誇ったように再び哄笑した男にリサは拳を握り締めた。知っている。この男は知っているのだ。

「驚いた、驚いたよ。あぁ、酷く驚いた。だが間違いではない! この目で見たのだから!! 君が海から出てくるのを見たよ、真っ黒な竜――あれは噂に聞く赤竜と似たものではないのかね? 赤竜をこの目で見たことは無いのだがね。海から出て来た竜は一人の少女となって陸へと上がった……あぁ、間違いなく君だった。そうだな?」

女性の驚愕に見開かれた瞳がリサを捉える。その視線から逃げるように顔を背ければ、鉄格子の外に立つ男は再び交渉して葉巻を口に銜えた。

「今日は素晴らしい日だ。能力者は高く売れる……口にした実が特別であればある程その価値は上がる。海に嫌われない能力者の君が一体いくらで売れるのか……くくっ、精々高く売れてくれる事を願う」

満足気に口端を吊り上げ、男は階段を上っていった。扉が閉まる音と共に牢屋に静寂が広がる。知らず身を震わせていたリサの手に細い手が重ねられた。

「大丈夫よ」
「え……?」
「大丈夫……大丈夫だから……ね……?」

何の根拠もない。信じられるはずもない。分かっているだろうに、女性は大丈夫だとリサに告げる。ほんの少しでも安心させるように、気丈に振舞う女性にリサはこみ上げた涙を飲み込んで無理やり笑顔に変えた。

「名前、まだ聞いてなかったわ。私はアリッサ、貴方は?」
「リサ……あの、アリッサ……ありがとう」

能力者は高い。それは、能力者が珍しい存在であるからだ。現に、千六百人という大所帯であった白ひげ海賊団でも能力者はほんの一握りだった。その中でも更に異質な存在であるリサに、アリッサが恐怖を覚えないはずがない。驚愕に見開かれていたあの目には確かに恐怖の色が薄っすらと見えていたのだから。
それでも、こうして変わらず優しく接してくれる。その事がリサにはとてもありがたかった。

「ありがとう……」

再度口にすれば、アリッサが優しく微笑み返してくれる。ひだまりのようなその温かい笑みは、薄暗く冷えきった牢屋にいるという事を一瞬でも忘れさせてくれるような優しいものだった。