水平線の彼方に太陽が姿を隠し、世界が闇色に染まり始めた頃リサは部屋を後にした。纏めた荷物を手に、この数ヶ月間ですっかり歩き慣れた通路を甲板に向かって歩いていく。
「なぁ、リサ! 考え直せよ!」
荷物を纏めていたリサの元にやって来てずっとそう訴えていたサッチは、未だ諦めることなくリサを口説いていた。聞く耳を持たないリサをおやつで釣ろうともしたが、効果は得られなかった。
「リサ! なぁ……なぁってば!!」
リサの肩を掴んで引き止めると、漸くリサが振り返ってサッチを見上げた。
「サッチ、うるさい」
「バカ野郎! お前ホントに出てく気かよ!?」
「うん」
「『うん』じゃねぇよ! 出てくなっつってんの!!」
「もう決めたの」
「勝手に決めんな! 俺ァ反対だかんな!!」
再び歩き出すリサの後ろで喚き立てるサッチだったが、もう何を言っても無駄だという事はサッチが一番よく知っていた。誰よりも近くにいたのだ、分からないはずがない。それでも、と思ってしまうのは、サッチにとってリサは既に大切な家族の一員だったからだ。
「行くなよ……」
「…………」
「家族だろ? 兄貴の言う事は聞かねェといけねーんだぞ」
「…………」
「俺はお前にここにいて欲しいんだよ。まだ食ってねェおやつだって沢山あんだろ? 次の島は一緒に甘いモン食いに行くって言ってたじゃねェか」
寂しげな顔で訴えかけるサッチを見ることなど出来なかった。近寄るべきではなかった。受け入れられるはずもないのに。俯きがちに歩き続けるリサを見るサッチの目は、やはり悲しげだった。
甲板に出ると、何処か暗い面持ちのクルー達の視線がリサとサッチに集まる。自然と割れた人垣の間を進んでいくと、両側から切羽詰ったような声が飛んできた。
「なぁ、ホントに行っちまうのか?」
「考え直せよ」
「ここにいろって!」
かけられる優しい声に、やはりリサは何も答える事は出来なかった。無言のまま俯きがちに白ひげの元へと向かうリサを何とか引き止めようと声をかけ続けるが、それでも引き止める事が出来ないであろう事はクルー達も薄々気付いていた。
リサが白ひげの前で立ち止まると、静寂が甲板を包み込む。
「お世話になりました」
「次の島までまだかかるんだぞ!? まさか小舟で行く気かよ!?」
クルーの一人が叫ぶと、次々に「そうだ!」「考え直せ!」と声が上がる。白ひげは手を挙げてクルー達を黙らせると、リサを見下ろして静かに口を開いた。
「本当に行くんだな?」
無言で頷いたリサに「そうか」と呟いた白ひげはレイを呼び寄せた。
「これが最後だってんなら、教えてやれ」
俯いたまま黙り込んでいるリサに「どうした? それすらも逃げるか?」と問えば、すぐさまサッチが「オヤジ……!」と焦ったような声を上げてくる。そんなサッチをジロリと見遣り黙らせると、白ひげは「どうした?」と再度リサに問いかけた。
「言いたい事があるんじゃねェのか? 言ってやりゃァいい。お前の好きにしろ」
リサの顔がゆっくりと上がり、その視線がレイを捉える。すぐに再び俯いたリサは目を閉じて静かに深呼吸をしてからゆっくりと口を開いた。
「――殺されたの」
「…………アヤが、か?」
躊躇いがちにレイが問い返す。リサは俯いたまま縦に首を振った。
「誰に――っ、」
問いかけたレイは、顔を上げ真っ直ぐに見つめ返してくるリサに言葉を失った。その瞳の奥にとてつもない怒り、憎悪の感情を見つけたからだ。
「貴方に」
やけに落ち着いたリサの静かな声が甲板に響く。息を呑んだレイは動揺を隠せないままゆるゆると左右に首を振った。
「違う、俺は……殺してない。俺が島を出る頃にはアヤは生きて――」
「『秘宝』を持ち出したから死んだの」
「、え……?」
「貴方が奪ったアレはただの悪魔の実じゃない。あの島の祭壇に安置しておく事で島を隠してたのよ。貴方が『秘宝』を持ち出したりしなければ、あの島は隠されたままだった」
そんな事、知らない。知らなかった。本当に?あの実にそんな力が?
レイの表情には困惑と動揺の色が濃く映し出されていた。
「パパもママも殺された。島にやって来た海賊に」
「、」
「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも村長も近所のお兄ちゃんもお姉ちゃんも生まれたばかりの赤ちゃんも殺された……っ!! 貴方が『秘宝』を持ち出した所為で!!!」
息を切らして叫ぶリサの目に涙が浮かんだ。
「貴方が殺した!!!」
悲鳴にも似たリサの声が波の音を掻き消した。
何か言わなければと思ったのか、僅かに開いたレイの口からは声ではなく徐々に荒くなる呼吸音が漏れた。
「私から家族を奪ったくせに、貴方は新しい家族を作ってた。血の繋がった家族を見殺しにしたくせに……!! 家族だから大切? 家族だから助ける? ――じゃあ助けてよ。返してよ! 私の家族を今すぐ返して!!!」
髪を振り乱して叫んだ拍子に、頬を伝った涙が甲板に落ちた。
呆然とその場に崩れ落ちたレイを睨み付け、袖で乱暴に涙を拭うとリサは白ひげを睨むように見上げた。
「これで満足? あとは大切な家族を護る為に私を殺して、全て無かった事にでもするんでしょう? 素敵な家族愛ね」
「リサ……」
サッチがリサの名を呼ぶが、リサはサッチではなくマルコの方を向いた。鋭く冷めた視線がリサを見下ろしていた。
「どうしてこの船に乗ったかって聞いたわよね? 知りたかったからよ。この男がどれだけ『家族』を大切にしているのかを。血の繋がった家族や島の人達全員を殺して手に入れた『家族』がどんな人達なのかを知りたかったの」
「それで、満足した訳かい」
「えぇ、したわ。ここはとても温かくて優しいのね。実の親も妹も親戚も全て捨てた男だって大切にされるんだもの。まるで理想郷だわ」
「嫌味にしか聞こえねェよい」
鼻を鳴らすマルコに口元を歪めたリサは、甲板に座り込み打ち拉がれているレイを冷たく一瞥して目を背けた。
「大嫌いよ……こんな船……!」
拳を握り締め、唇を噛み締めたリサは深呼吸を一つして白ひげを見上げた。涙の痕が残る顔で睨んでみせても、白ひげは眉一つ動かさず、ただリサを見下ろしていた。
「殺したいならどうぞ」
「俺ァ娘を手にかけるつもりはねぇよ」
「オヤジ……」
「まだコイツを娘だなんて言うのかよ!?」
「コイツはオヤジ達を騙してたんだぞ!?」
リサを倉庫に閉じ込めたクルー達が声を荒らげるが、白ひげは「アホンダラ」と一蹴して口端を上げた。
「俺ァ、コイツに騙された事はねェよ。一度もな」
白ひげの目がリサを捉える。僅かに息を呑んだリサは、苦々しい顔で白ひげから視線を逸らすと早口でまくし立てた。
「殺したいなら殺せば良いじゃん。好きにすれば良い、どうせ私の帰る場所なんてその人が奪ってしまったもの」
「殺さねェっつってんだろうが。お前ェの帰る場所はこの船だ」
きっぱりと言い放つ白ひげに、こみ上げてくる涙を呑み込んでリサは俯いた。
「ここは私の帰る場所なんかじゃない……私の家じゃない」
フードを被り再度白ひげに頭を下げたリサは船縁へと向かった。柵によじ登って手すりに立ち上がると、サッチの慌てたような声が飛んでくる。振り返ったリサはサッチと目が合うと僅かに微笑んでみせた。
「関係ない貴方達に迷惑をかけた事は謝る。ごめんなさい」
「さようなら」と続けたリサの身体がゆっくりと船の外へと傾いでいく。咄嗟に駆け寄ったサッチが手を伸ばすが、リサの身体は既に真っ暗な海へ向かって落ちていった。慌てて身を乗り出したサッチや数人のクルー達の目に映ったのは、黒い靄のようなものに包まれたリサの姿だった。
「リサ!!!」
暗い海へと落ちていくリサの身体が徐々に変化していくのをサッチ達は見た。長く伸びた爪は鋭く、頭からは二本の角が生えている。蛇のように長い胴体を覆う鱗は海よりも黒い。その姿は色が違うだけでレイの変身する真っ赤な鱗を持つ竜と何ら変わりなかった。
「お前、それ……」
「………バイバイ、サッチ」
全てが黒で塗り尽くされた竜が飛沫を上げて海の中へ消えていく。波に揺られて僅かに揺れた船体の下に薄っすらと見えた黒い影は、ゆっくりとその姿を消した。
「リサ!!! クソッ……!」
靴を脱いで飛び込もうとしたサッチは、突然目の前に現れた大きな手によって阻まれた。白ひげの手だった。
「オヤジ!?」
「行くんじゃねェ」
「何でだよ!! アイツ能力者だったんだ! 死んじまう!!」
「死なねェだろうよ。この船に来た時もそうだっただろうが」
海を見下ろしながら答える白ひげに、サッチは眉を下げて唇を噛み締めた。
「じゃあ、あの時の影は……」
「海に嫌われない能力者ってのも珍しいモンじゃねェか。代わりに太陽に嫌われちまうとはな」
「リサ……」
真っ暗な海を見つめても、リサの姿も黒い竜の姿も見つける事は出来ない。その場にズルズルとしゃがみ込んだサッチは「バカ野郎……」と呟いて床を殴りつける事しか出来なかった。