02


それは、闇夜に輝く月がその姿を完全に消し去っていた夜のことだった。
モビー・ディック号の甲板では、ひと月前に突然胸を押さえて苦痛に顔を歪ませて倒れたレイの回復を祝しての宴が行われていた。
そこ彼処でジョッキのぶつかり合う音が上がり、大きな笑い声や陽気な歌声が響き渡っていた。回復したとはいえ禁酒だとドクターに釘を刺されていたレイの為に延期されていたのだが、漸く解禁されたのでこの日に行われる事となった。騒ぐクルー達を眺めながらレイは白ひげ海賊団の船長であり、クルー達がオヤジと慕う男――白ひげことエドワード・ニューゲートの傍に座って笑っていた。

「レイ、本当に大丈夫なのかよい?」
「あぁ、心配かけたな」

弟であり自身の隊の副隊長でもあるマルコの問いに微笑んで答えるが、マルコの表情は晴れない。原因不明の激痛は一過性のもので、レイ自身にも原因が分かっていなかった。けれど、ドクターが病気ではないと言うのだから問題ないだろうと、マルコが聞けば「暢気過ぎる」と苦情がきそうな考えでもってそこに座っていた。

「もう痛くねぇし、何処も悪いトコはねぇんだ。俺は大丈夫だからお前も飲めよ」

医務室を出てから離れようとしないマルコに苦笑すると、マルコは「また倒れられても困るんだよい」と肩を竦めてジョッキを口へ運んだ。少し離れた所からサッチのバカ笑いが聞こえてきてマルコが顔を顰めている事に気付いたレイは、呆れたような顔で酒瓶を手にした。

「お前は真面目過ぎるんだって何度も言ったろ? もっと楽しめよ。サッチを見習うと良い」
「あんな風になるくらいなら真面目で十分だよい」

拗ねたような顔で鼻を鳴らすマルコの頭をくしゃりと撫でてやると、僅かに機嫌を直したマルコに口端を上げた。

「もう、あんなのは御免だよい」
「俺も。スッゲー痛かったんだぜ、あん時」
「取り敢えず、治って良かったよい」

瓶を軽く掲げてマルコが瓶を呷る。レイは「ありがとよ」と答えて同じように酒を呷った。彼らの頭上から降ってくるグラグラという笑い声は彼らの何倍もの身長のある白ひげのもので、その穏やかな視線は甲板中で笑い合っている息子達に向けられていた。
海賊だというのにおかしな話だが、こうしてずっと皆で楽しく笑って過ごせていけたら良い。誰もがそう思っていた。

彼らが海賊だという事を除けば微笑ましい家族の団欒に終止符を打ったのは、カンカンと鳴り響く警鐘だった。見張り台に登っているクルーが「船の下に何かいるぞ!!」と叫ぶ声が響き渡った直後、突然船が大きく揺れた。

「おわっ!?」
「何だ!!?」
「あ、酒ッ!!」
「バカ! テメェの方が大事だろうが!」

さっきまでの楽しげな様子は一変し、そこ彼処で叫び声や怒号が飛び交う。マルコとレイも慌てて白ひげの椅子を支えるようにして立ち上がりながら油断なく辺りを見回した。

「何だってんだ!?」
「オヤジ! 大丈夫かよい!?」
「グラララ! あぁ、これぐらい何ともねぇ」

一人暢気に酒を呷り続ける白ひげにマルコは溜息を零して見張り台を見上げた。

「おい! 何だってんだよい!?」
「船の下に大きな影が見えたんだよ!! けど見えなくなっちまった! 暗くて何も見えやしねぇ!!」

見張り台にいるクルーの叫び声にマルコは舌打ちした。それでなくとも新月で月明かりが無いのだ。普段気にした事はないが、あのささやかな光に確かに助けられていたのだと僅かに焦燥感に襲われた。一体何がどうなっているのか。
やがて波も治まっていき、先程までの静かな海へと戻っていった。

「何だったんだ……?」
「大型の海王類にでも体当たりされたか?」
「もう来ないよな?」
「あーあ、酒が勿体ねぇ……」
「酔いが覚めちまったぜ」

口々に零して再び酒を呷ろうとするクルー達。そんな彼らにマルコは呆れたように息を吐いて再び腰を下ろそうとした。

「誰だ?」

クルーの誰かの声が聞こえて顔を上げると、隣にいるレイがある一点を見つめている事に気付いた。その視線を追った先には鯨を象ったモビーディック号の船首があり、誰かが立っていた。明かりが無い所為で性別までは分からないが、確かにマントを着た誰かが立っている。フードですっぽり頭を被っているその人物は、静かにそこに立っていた。

「お前ェ、何者だ?」

酒瓶を膝の上に置いて白ひげが尋ねるが、マントの人物は答えない。不穏な空気にクルー達が酒を置いてそれぞれの武器を手にする。マルコとレイが一歩前に出た。

「とっとと答えろよい」
「さっきの揺れはお前か?」

マルコの言葉には何の反応も示さなかったマントの人物は、レイの問いに僅かに身体を揺らした。

「お前、何処から来たんだ?」
「………、ファンロン諸島」
「っ、」

風に乗って耳に届いた声は明らかに女性のそれで、ともすると少女のようでもあった。少女の声に覚えがあったのか、はたまた少女の放った『ファンロン諸島』という名に覚えがあったのか。レイが息を呑んだのをマルコは聞き逃さなかった。

「『赤竜のレイ』、懸賞金七億三千万ベリー。十五年前、ファンロン諸島より『秘宝』を奪って逃走」
「秘宝?」

マルコがレイを盗み見る。レイは複雑そうな表情でマントの女を見つめていた。

「まさか、お前が来るとは思わなかった」

マントの女がゆっくりと歩き出す。自然と割れた人垣の間を通ってレイの正面にやって来た女に、マルコを含めたクルー達が警戒し睨み付けるが、レイと白ひげは静かにその女を見つめていた。女がゆっくりとフードを取ると、再びクルーの中にざわめきが起こった。

突然現れた女は、どう見ても十代後半、ともすれば前半にも見える相貌の少女だった。

「元気だったか? アヤ」

「お前は変わらないな」と続けたレイにマルコは驚きの顔を向ける。

「知り合いなのかよい?」
「あぁ。アヤ、分かってると思うが俺は――」
「違う」
「え?」

穏やかな表情で話しかけたレイの言葉を遮った少女にレイは首を傾げた。

「アヤじゃない」
「アヤ?」
「アヤは死んだ」
「、死んだ……?」

驚きに目を見開くレイ。何も分からず蚊帳の外となってしまっている白ひげ海賊団の面々は、それぞれ顔を見合わせて首を振り、戸惑った様子でレイと少女を見つめていた。

「何言ってんだ? だってお前は、」
「アヤは私の母親」
「母親……? アイツ、結婚したのか? 死んだってどういう事だよ!?」

声を荒らげるレイの顔にいつものような笑みは無かった。もしかしたら初めてかもしれない焦ったような表情にマルコは眉を寄せて白ひげを見上げた。けれど、白ひげは黙っていろという目でマルコを見つめると再びレイと少女に目を向けた。

「分かっていて『秘宝』を盗んだんでしょう?」
「何言って……」
「アレを持ち出したらどうなるか、分かってて持って行ったんでしょう?」

困惑の表情を浮かべたレイに少女はその目を細めた。

「……そう、知らなかったの」
「何がどうなってんだ? 俺が盗んだ事とアヤが死んだ事にどんな――」
「白ひげさん」

レイの言葉を無視して少女は白ひげを見上げた。白ひげが片眉を上げて少女を見下ろすと、少女は無表情のまま口を開いてその言葉を発した。

「私を、この船に置いてください」