アイツが船を下りて一ヶ月が経った。
船を下りる経緯が経緯だっただけにモビー・ディック号内には重苦しい空気が漂っていたが、それも最初の一週間程で、時間が経てば皆は気持ちを切り替えて今までと変わらない生活を送っていた。
「で、アイツらは付き合い始めた訳か」
「みてェだな」
甲板の片隅、仲睦まじい様子のマルコとタミを視界に入れた俺は、煙草を吹かしながらぼやいた。相槌を打つイゾウもまた、煙管を片手にマルコ達を眺めている。
最初こそ落ち込んでいたものの、一ヶ月も経てば自然と気持ちは落ち着いてくるらしい。かく言う俺やイゾウも、アイツが船にいないという違和感が当たり前の感覚になりつつある事に気付いていた。
人間とはどんな変化にも順応していく生き物だ。アイツがいないという事実をも受け入れて生きていくという事はどうしようもない事であり、当然の事でもあった。
「何でだろうなぁ……俺ァ、アイツらの仲を素直に喜べねェよ」
マルコ達から視線を逸らし、水平線をぼんやりと眺める俺にイゾウは肩を竦めて煙管を振った。
「そりゃ仕方ねぇよ。気付いてる奴らは皆そうだろうさ」
「気付いてねぇとでも思ってんのか、アイツらは」
煙管の火皿から灰が落ちて行くのをぼんやりと眺めながら、僅かに眉を寄せる。
二人を見る視線が険を帯びてしまうのも無理はない。アイツらの関係なんてとっくに気付いていた。タミがマルコに想いを寄せていたのは傍目には明らかだったし、マルコのタミを見る目が徐々に変わっていったのも明らかだった。全員は気付いてはいなかっただろうが、気付く者――主に、隊長達だが――は嫌でも気付いてしまったし、リサが二人の仲を知っている事にも気付いていた。
だからこそ、辛かった。
何も知らないフリをしてマルコやタミと接する彼女を見ているのが。
彼女が気付いていないと信じて疑わず、いつも通りに接するマルコとタミが憎らしかった。
どうして言ってやらない。
どうして終わらせてやらない。
彼女が何を思って何も言わないでいたのか、想像に難くない。
ならば自分達は口を出すべきではない、これは三人の問題だ――気付いている者達の間に自然と暗黙の了解が出来上がっていた。自分達の事で精一杯なマルコとタミが、彼女の事を想ってやれる日がくることを早く願うばかりだった。
そんな時に起きた敵襲でリサは左目を失い船を下りた。
船を下りる覚悟をしたアイツは、きっと自ら終わりを告げたのだろう。長い間、終わらせてもらいたいとそう願っていたアイツの想いは二人に届くことは無かった。終わらせてはもらえなかった。何も解決しないまま、リサはマルコに別れを告げて船を下りてしまった。
ショックだったのだろう。自己嫌悪に陥ったのだろう。マルコとタミが大っぴらに付き合い始めたのはほんの数日前の事で、きっとそれまで二人は沢山の苦悩を抱えていたのだろう。
けれど。
煙草を揉み消しながら頭を掻いた俺に、何かを察したのかイゾウもまた静かに目を伏せた。
「…………イゾウ」
「ん?」
「悪ィが、あとでアイツら、呼んどいてくれや」
きっとアイツは望まないのだろう。当然だ、こんな事を彼女が望むはずがない。これはただの自己満足でしかない。それが分かっているからこそ誰も何も言わないのだ。目の前に立つイゾウも、他の隊長達も、白ひげでさえも。今から自分がしようとしている事は、誰も喜ばない。皆が傷付くだけだ。
分かっている。分かっているのだ。
「オヤジのようにはなれねぇってことさ。俺はアンタのそういう所が好きだがね」
だから、そう自分を責めるな。
医務室に向かう俺の背に、こちらを振り向かないままのイゾウの言葉が突き刺さった。
「っ……!」
「マルコ!!」
殴りつけられたマルコの身体が壁に激突して崩れ落ちる。
悲鳴に近い叫び声を上げたタミが慌ててマルコに駆け寄り支えるのを、俺は冷めた目で見下ろしていた。
「酷いよドクター! 何でこんな事するの!?」
「本当はお前もぶん殴ってやりてェんだが、俺ァ女は殴らねェ主義なんだ」
困惑と怒りの篭った視線を向けてくるタミにそう返せば、タミは益々眉を寄せて訳が分からないと喚き立てた。殴られた本人は、何故殴られたのかを察しているのか、ただ俺を見上げるばかりで何も言う事はなかった。
「俺ァよ、マルコ。どうしても赦せねェんだよ」
「…………」
「お前らの問題だ、俺が口出しすることじゃねェ。そう思って何も言わずにいた――それを、この一ヶ月間ずっと後悔してる」
「、」
「何故、アイツに言ってやらなかった」
マルコとタミの表情が一瞬で強ばった。
何故知っているのか――そう思っている事がありありと見て取れる。ふざけんな。
「気付いてねェとでも思ったか?テメェらの青臭ェ芝居なんかで騙せるとでも思ったか」
「、ドクター……」
「なぁ、マルコ。タミ」
マルコの言葉を遮って船医はさらに続けた。
「たまにしかお前らを見ねェ俺だって気付いてんだ。四六時中ずっと一緒にいたアイツが、気付かねェとでも思ったか?」
「「!!」」
二人の顔からサッと血の気が引いていく。
あぁ、本当に。何てバカ野郎なんだお前らは。
引き寄せた椅子に腰掛けて、それでも二人に視線を戻すことは出来なかった。
「何でアイツが何も言わなかったか分かるか? お前らの事に気付いていながら、何で何も言わなかったか。――あぁ、俺は何も聞いちゃいねェよ。アイツは誰かに言うような奴じゃねェ、知ってんだろうが」
どうやら本当に気付かれていないと思っていたらしい二人は、いっそ笑いがこみ上げてきそうな程に真っ青になっている。
どうしようもない。どうしようもないほど、馬鹿野郎だ。
「お前らを大切に想ってたから、お前らが言ってくれるのを待ってたんだろうが」
「「………!!」」
「『タミが好きだ』、『マルコが好きだ』。お前らのどちらかがアイツにそれを言えば済んだんじゃねェのか? アイツの気持ちをちっとも考えねェで、テメェらは好き勝手やってアイツを苦しめて……挙句の果てがこのザマか?」
「、ぁ……」
「アイツが左目を失った状況を聞いた。なぁ……俺は、お前らが憎くて仕方ねェ……!!」
見ることは出来なかった。きっとマルコもタミも傷付いた顔をしているのだろう。真っ青な顔で、涙を浮かべているかもしれない。自分達の過ちを悔いているのかもしれない。
そんな二人をこの目に映すことなど、出来るはずもなかった。
「どうしてアイツの気持ちを考えなかった……!! どうしてアイツを苦しめる事しかしなかった……!!! 一言で良い! お前らがたった一言、アイツに言いさえすれば……! アイツは左目を失うことも、船を下りる事も無かったんじゃねェのか!!? お前らは良いだろうよ! 自分の惚れた相手とこうして船の上でぬくぬくと過ごしていけるんだから……! じゃあアイツはどうなる!? お前らに裏切られ続けて、怒る権利も赦す権利も与えられないまま片目を奪われて日常生活すら出来ない状態で家を追い出されて、今頃独りで……っ! アイツは誰が救ってやるんだ………!!!!」
荒い呼吸音だけが医務室に響き渡る。
滲んでいく視界が、益々心を締め付けていくように感じられた。
俺が言うべきではない。これは、リサ本人が直接こいつらに言わなけりゃいけなかった。俺が口を出すべきではなかった。
分かってるのに、俺もどうしようもない大馬鹿野郎だ。
「悪いとは思ってる。お前らは漸く隠れずに互いを想い合えるんだ、水を差すような真似はしたくなかったが……俺はオヤジやイゾウ達みてェに人間が出来てねェからよ……呼び付けといてすまんが、出てってくれ」
マルコとタミは一言も発しなかった。
立ち上がった二人が静かに医務室を出て行くその後ろ姿すら視界に入れてやれない。
ただ、少し前まで幸せそうに笑ってた二人の姿を思い出して胸が痛んだ。
頭を抱え、指に絡んだ髪を力強く引っ張ればブチブチと毛が指に絡め取られた音がした。
「…………すまねぇ、」
誰に謝ったら良いのか分からない。怒りに任せて二人を傷付けてしまった。
この罪は決して軽くなどない。誰が擁護しようとも、この罪は確かに重いものだと自分でもよく分かっている。
「俺まで下りたら、怒るんだろうなァ……アイツ」
怒るよりも傷付くかもしれない。結局、自分も傷付ける事しか出来なかった。
力なく笑みを浮かべて立ち上がると、船の長である男の部屋へと向かった。