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「見てごらん」

ガラスケースの向こうにいたのは、小さな小さな生き物だった。

「コレは、なんですか?」
「赤ん坊だよ」
「アカンボウ?」
「そう、昨日生まれたばかりだ」

君の弟と妹だよ。
そう言って笑ったのは、まだ両親が生きていた頃に時折訪れていた青年だった。何処から来ているのかも、何の目的で来たのかも知らないが、研究員たちの態度を見る限りでは青年は中々に地位のある人物のようだった。
常にアイマスクを持ち歩き、いつでも何処でも昼寝をする彼は、実験体である少女にも優しく接してくれた。実験体としてではなく、一人の人間として見てくれていたのだと気付いたのは、青年が姿を見せなくなってから数年経った頃だ。

青年は様々なことを教えてくれた。
言葉は勿論、文字の書き方や読み方、世間の一般常識というものまで教えてくれた。それにいい顔をしなかったのは研究所の人間たちであり、取り分け少女の実の両親である二人がそれを嫌っていた。

コレに変なことを吹き込まないで頂きたい。
妙な考えを持ったらどうしてくれるんです?
コレは私たちの所有物だ、余計な手出しは無用に願います。

少女の目の前で発せられる言葉は、それまでは到底理解など出来ないものだった。
けれど、青年から言葉を教わり、常識といものを教わり、絵本などの書物まで与えてもらった。
いつしか、少女は知ってしまった。
自分の両親が、異常なのだということを。
自分の置かれた状況が、異常なのだということを。

「わたしは、何?」

かつて一度だけ尋ねた際、青年は困ったように眉根を寄せ、それからとても悲しそうな表情で微笑んだ。

「君は、君だよ」
「この絵本の主人公の名前、メアリーっていうの。こっちの絵本の主人公は、アリス」

青年は更に表情を曇らせた。

「だって、絵本の中で皆がそう呼んでる。それが名前なんだよね?」

答えない青年を、あの頃はただただ不思議に思っていた。
後から知ったのだ。青年は答えなかったのではなく、答えられなかったのだと。

「私の名前、イチゴウっていうんだよ」

だって、皆がそう呼ぶから。
俯いたまま何も言わない青年に、イチゴウと名乗った少女はただただ首を傾げることしか出来なかった。

初めて出会った赤ん坊は、イチゴウにとって血の繋がった弟妹だと青年は教えてくれた。
その時からこの小さな小さな赤ん坊たちは、イチゴウにとって特別だった。
どんなに痛い実験の後であったとしても、イチゴウは弟妹に会いに行った。ガラスケース越しに見る赤ん坊は自分の身体に比べて極端に小さく、ほんの少し強く握り締めただけで折れてしまいそうなほどにか弱いものだった。

「お父さん、お母さん」

今まで『博士』と呼んでいた男と女をそう呼んでみた。彼らは驚愕に目を見開いた次の瞬間には嫌悪感を露にした。

「博士と、そう呼びなさい」
「どうして?」
「どうしてもよ」
「お父さんとお母さんなのに?」
「いい加減にしたまえ」

強く叩かれた頬は熱く、時間が経てば経つほど痛みを孕んだ。

「あの男め……だから余計なことをするなと言ったのだ!」
「抗議の手紙を?」
「あぁ。この研究所への出入りを禁じてもらう」
「待って、ごめんなさい。ごめんなさい。私が悪いの。お願いです、クザンに会えなくなるなんてイヤだ。お願いします、私、もっとクザンとお話したい。たくさん教えてもらいたいの。勉強や、外の世界のことも教えてくれるって約束したの」
「お前が知る必要はない!」

お前は何も知る必要はない。父であるはずの『博士』はそう言った。
貴方はただ、私たちの言う通りにしていれば良いの。母であるはずの『博士』はそう言った。
絵本で読んだお父さんやお母さんはもっと温かい雰囲気を持っていたのに、目の前にいる二人はいつだって冷たい空気を纏っていた。
より一層、イチゴウは弟妹に執着するようになっていった。

 ――ねぇ、この子たちはいつになったら喋れるようになるの?

 ――君が知る必要はない

 ――ねぇ、この子たち、名前は何て言うの?

 ――君が知る必要はない

「ねぇ、この子たち、私のことお姉ちゃんって呼んでくれるかな?」
「一号。忘れるな、お前はただの一号だ。この研究の為に生まれ、この研究の為に存在している。実験体第一号、それがお前だ。お姉ちゃんなどというものにはなれない」
「でも、弟と妹だってクザンは言った! 私の弟と妹だって! 家族だって!」
「あの方も余計なことをしてくれたものだ」

誰もが口々にそう言って溜息を零した。

忘れるな。
お前は実験体第一号だ。
名前など無い。
感情も、知識も、何も必要ない。
ただ、我々の言う通りにしていればそれで良い。

「痛いの。もう嫌だよ……私、外に出たい。海を見てみたい。ケーキっていうものを食べてみたいし、泳いでる魚や、動物も見てみたいわ。ねぇ、私、もうこんな生活は嫌なの」
「生活?」

『博士』はせせら笑った。

「勘違いするな。お前は生きる必要などない」
「、え?」
「お前はただ我々の言う通りに動けば良い。必要な栄養素を取り入れ、不要なものを排泄する。そうして我々の研究の為の実験体として存在する」

そう言って『博士』が指したのは、ピッ、ピッと規則的に音を発する鉄の塊。イチゴウの心拍数を量るその鉄の塊は、触れてみれば熱を持っているものの、言葉を発することはなく、自らの意思で動くこともない。

「お前はこれと同じだ。今までも、今も、そしてこれから先もずっと。我々の命令に従っていればそれで良い」

そんな。
どうして。
だって、いやだよ。
わたし、いきてるよ。
考えることだってできる。
自分で動くことだって。

「お父さん、お父さん……お父さん………パパ……」

『博士』は、決して振り向くことはなかった。
そしてそれは、母である『博士』も同じことだった。

数年が経った。
赤ん坊だった弟妹は、単語だけれど言葉を発するようになった。

「じっけん」
「さんぷる」
「はかせ」
「しっぱい」

周りの研究員たちの言葉を聞いて覚えたのだろう。
イチゴウは何度も弟妹に絵本を読み聞かせてあげようとしたが、そのたびに周りの大人たちに阻止された。

「わたし、お姉ちゃんだもん」
「一号。君は彼らの姉ではない」
「嘘よ、だって私たちは血が繋がってるし、それに――」
「君たちは、人間ではないのだよ」

誰もがそう言ってイチゴウを窘めた。
人間ではない。君たちは研究の為だけに存在する実験体だ。
反論する気すら失せてしまったイチゴウに、『博士』たちは満足気に微笑んだ。

そして、事件が起きる。
始まりは父である『博士』の言葉だった。

「これより、実験を始める」

それはイチゴウにとっては聞き慣れた言葉だった。
この言葉の後にはいつも苦痛が待ち受けていることをイチゴウは知っている。あぁ、またか。そんな事を思いながら実験室へと向かおうとしたイチゴウの耳に届いたのは、やはり父である『博士』の声だった。

「二号、三号をここへ」
「え……!!?」

慌てて実験室へ向かったイチゴウの目に飛び込んだのは、ベッドに縛り付けられて泣き喚く弟妹の姿だった。