僅かに開かれた窓の外から聞こえてくる小鳥の囀りでリサは目を覚ました。のろのろと身体を起こしてすっかり明るくなった窓の外をぼんやりと見つめる。ぱち、ぱちと瞬きを繰り返して欠伸を一つ。両腕を突き上げ軽く伸びをしてからベッドを下りると、再び欠伸が零れた。部屋の戸を開けると漂ってくる美味しそうな匂いに、あぁ、そう言えば彼らを泊めたのだったと思い出した。
「お、やっと起きたか。飯食うか?」
キッチンからひょっこりと顔を出したリーゼントの男がお玉を片手にリサに問いかける。返事の代わりにコクンと頷いたリサはそのまま脱衣所へと向かった。朝から風呂に入るのは気が引けたが、昨夜は風呂に入る余裕などなかったから仕方ない。手早く頭と身体を洗って出ると、備えてあったバスタオルを身体に巻き付けた。幸いにもキッチンと自室は離れていて、誰にも会わずに部屋に戻ることが出来た。急いで服を着てキッチンに戻れば先程のリーゼントの男が忙しなく動き回っている。ダイニングからは「サッチおかわりー!」などという声が聞こえてきて、その新鮮な様子に思わず表情を和らげた。
「何か手伝う事は?」
「ん? あぁ、いいって。今そっち持ってってやるから、座って待ってろよ」
こちらを見ないままに追い払うような仕草をするリーゼントの男――サッチ。お言葉に甘えてダイニングに向かえば、いつもより遥かに品数の多い朝食を前に顔を綻ばせる弟と妹がいる。向かいの席には上半身半裸の青年がこちらに背を向けて座り一心不乱に料理を掻っ込んでいる。背中にでかでかと刻まれたマークがこちらに向かって不敵な笑みを浮かべている。リサは知らず眉を寄せた。
「お姉ちゃん、どれもすっごく美味しいよ!」
「早く来て食べて!」
満面の笑みで手招きする弟と妹に頬を緩ませたリサは、唯一空いているエースの隣に席を下ろした。
「ん? おぉ! むぐむぐ……っくん、おはよ! よく寝れたか?」
頬袋いっぱいに溜めた料理を嚥下してエースが笑いかけてくる。口の周りが汚れているのが気になったが、リサは敢えてそれに触れることなく一度だけ頷いた。
「ったく、お前一人で食ってんじゃねぇっての。はいよ、これがリサの分な」
「……どうも」
差し出されたフォークを受け取り、サッチをチラと見上げる。寝た時間はリサと同じかそれより遅かったはずだというのに、立派に作られたリーゼントに目を惹かれた。一体何時に起きてセットしたのだろうか。そんな事を考えていると、視線に気付いたサッチは得意げに自身のリーゼントを撫で付けてキッチンへと戻って行った。
「……いただきます、」
朝食を誰かに作ってもらうのは何年ぶりだろうか。一瞬そんな事を考えたリサはすぐにその思考を振り払って料理へと手を伸ばした。自分が作るそれよりも遥かに美味しい朝食に感動したのは一瞬で、あんな外見の男よりも劣っているという事実に打ちのめされそうだった。
「サッチね、コックさんなんだって」
向かいに座る弟がリサの考えを読んだかのように教えてくれる。そうか、コックなのか。それならば当然の味だ。ホッと安堵の息を漏らしたリサは幾分心を軽くしながら料理を口に運ぶのだった。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさま、サッチ美味しかった!」
一足先に食べ終えた妹と弟が満足気に笑う。キッチンからサッチの「おー」という声が返ってきて、二人は楽しそうに笑っていた。
「アイリス、キキョウ。薬を飲まなきゃ」
途端に渋い顔になる妹――アイリスと、弟――キキョウ。あからさまに嫌そうな顔をする二人に苦笑を零して立ち上がり、薬箱から二人の薬を取り出す。差し出したそれを渋々受け取ったアイリスとキキョウは、水差しからコップに注ぐとグッと眉を寄せて薬を口内に押し込んだ。慌てた様子で水を流し込んで喉を鳴らした二人に、真正面に座って食事を続けていたエースが嫌そうな顔をした。
「うげぇ……お前ら薬なんて飲んでんのか」
「僕だって嫌だよ。でも、飲まないと治らないから……」
「それ毎日飲むのか?」
「そう、朝と夕の一日二回」
「二回も!? あー……俺ダメだ、耐えらんねぇ………すげぇな、お前ら」
記憶の中の薬の味を思い出したのか、エースは水を一気に飲み干して再び料理を掻っ込み始めた。エースからアイリス達へと視線を戻せば、しょぼくれた顔をした二人がつい今しがた飲み込んだ薬の袋を恨めしそうに見つめている。
「大丈夫、ちゃんと治るから」
「……でも、ずっと治んないんだ」
「もうずーーっと飲み続けてるのに……」
唇を尖らせて不満を訴える二人にリサは眉を寄せた。代われるものなら代わってやりたい。毎日のように思うそれは、けれど口に出す事は出来なかった。二人を追い詰めるだけになるという事を分かっていたからだ。
「………大丈夫、絶対……治してみせるから……」
二人を抱きしめながら呟けば、悲しげな顔をしたままの二人がそっとリサの腕を掴む。二人が何を想っているのか、分からないはずがない。けれどそれを知らないフリをするのは、一体誰の為なのだろう。二人の為かもしれないし、リサ自身の為かもしれない。どちらの割合が大きいのかリサには判断が出来なかった。
「大丈夫だよ」
「……うん」
「………ごめんね」
小さな小さな声で紡がれた謝罪の言葉に涙がこみ上げる。鼻の奥がツンとするのを感じながら、リサは二人の頭に自身の頭を擦りつけ無理に笑みを作ってみせた。
「ありがとうございました」
ソファに身体を預け、あっという間の一日だったな、と思っていた所にかけられた声。感情の篭らないそれに振り返れば、こちらをジッと見つめるリサの姿があった。
「もう寝たのか?」
「えぇ、あんなに身体を動かしたのは久しぶりでしたから……」
「悪ィな、コイツ加減を知らねぇからよ。悪化しねぇと良いんだが……」
隣でガーガーと鼾を掻いて眠るエースの額をペチリと打つが、エースは僅かに身じろいだだけですぐにまた鼾を掻き始めた。まだ十時前だというのにすっかり眠りこけている弟に苦笑しか出ない。テーブルを挟んで向かい側のソファにリサが腰を下ろすと、サッチは逆さに置かれていたグラスをひっくり返してロックアイスと酒を注いでやった。礼を言ってグラスを手に取ったリサは、けれどそれを口にしようとはしなかった。
「疑いは晴れないみたいですね」
「ん?」
「今日も泊まるという事は、そういう事でしょう?」
やはりバレてたか。頭を掻きながら苦笑を零したサッチは、手に持っていた酒を飲み干してテーブルに置くと居住いを正してリサと向かい合った。
「ごめんな、今日一日だけで判断するなって言われてんだよ」
「あの金髪の人にですか」
「行方不明になっちまったのはアイツの隊の奴だからなァ……人一倍心配してんだ。アンタには不便かけちまうだろうが……」
「不便……というか、正直困ってます。一応あれで生計を立ててるので、仕事をするなと言われると生活出来ません」
「あぁ、その分の金はちゃんと払うから心配すんな。今日の飯代も全部こっちが持つからよ」
ほんの少しでも警戒を解こうと笑いかけてみせるが、リサの表情に変化は見えない。今日一日を通して分かったことは、リサは妹と弟のこと以外で心を揺さぶられることが無いという事だ。二人と話している時は和らぐ表情も、相手がエースやサッチに変わればすぐに無表情へと戻る。余りにもあからさまで、徹底されたそれは何故か今頃ジュノを探して飛び回ってるであろう長男を彷彿とさせた。
「あの人に言われたって言ってましたけど……貴方も疑ってるんですよね?」
「参ったな……そう見えるか?」
「えぇ」
駆け引きという言葉を知らないのか。直球すぎるリサに引き攣った笑いしか出てこない。けれどサッチは知っている。こういう人間が最も厄介なのだという事を。
「うーん……そうだな、まぁ……多少は疑ってる」
「理由をお尋ねしても?」
「理由、理由なぁ……あー……そうだな、殆どは勘だ」
「勘?」
「お前、俺らに嘘ついてんだろ?」
直球には直球を。身を乗り出してリサを見据えたサッチに、けれどリサはさして動揺した風もなく頷いた。
「そうですね、いくつかは」
あっさり頷いたリサに動揺したのはサッチの方で、え、そんなあっさり認めちまうの?え、本当に何なのこの子?などと思うばかりで言葉が出てこない。間抜けに開いたままの口は一向に塞がることはなく、そんなサッチにもリサは表情を動かすことなく手の中の酒を舐めた。グッと眉を寄せたのを見るに、きっと合わなかったのだろう。そう言えば、この酒はそれなりに度数が高いものだった。
「あー……それは教えてくれねぇのか?」
「別に教えても構いませんが、今更私の言ったことなんて信じるんですか?」
「…………」
サッチは心の中で舌を打った。どうやら、考えていた以上に面倒な人間らしい。無駄に頭が良い人間を相手にするのは骨が折れる。昨夜の宿屋での証言もこの瞬間の為なのだとしたら。
「分かった。俺も隠すのは止める。あぁ、そうだ、アンタを疑ってる」
「知ってます」
「何で気付いた?」
「どんなに上手いこと言っていたって、目だけは誤魔化せませんから」
じっと見据えてくるリサに今度こそサッチは白旗を上げた。両手を挙げて降参のポーズを取れば笑いまでこみ上げてくる。
「アンタは怪しい。理屈じゃねぇ、俺らの直感がそう言ってる」
「そうですか」
「聞かせてくれよ。アンタが嘘をついた理由と、本当の事を」
「それが本当かどうかも分からないのに?」
「言ったろ、俺とアイツがアンタを疑うのは勘なんだ。勘で決めるさ」
自分のグラスに酒を注いでから、サッチは再びリサを見た。視線の先にいるリサは相変わらずの無表情で、けれどその目は不満げな感情がありありと見て取れた。なるほど、目は口ほどに物を言うとは昔の人間は上手いこと言ったものだ。
「さ、話してくれ」
「……分かりました。先に言っておきますが、怒らないでくださいね」
「それは内容次第だ」
「してないんです」
「は?」
何が?そう続けたサッチに、再びグラスの酒を舐めたリサはその苦さに顔を顰めながら再度繰り返した。
「してないんです。あの人と」
「……そうなると、全部嘘ってことになるが?」
「いいえ? してないだけです。あの丘には確かに行きましたし、あの人はそこで眠りこけちゃいました。寝転がってるあの人にキスをして、そのまま服を脱がしかけた所で鼾が聞こえたんです。あの時の私の気持ちが分かってもらえるかどうかは分かりませんが」
「あぁ、いや……うん、まぁそれは分かる。寝落ちって最悪だよな」
「お金をもらってしまった手前、ちゃんと仕事を全うしたかったから何度か呼びかけたんですけど、一向に起きませんし……ついでに、途中で寝てしまったあの人のおかげで私の小さなプライドもズタズタです」
淡々と告げるリサの目には僅かに怒りの色が見える。これは嘘ではないのだろうと判断したサッチは、全く減っていないリサのグラスに更に酒を注いで続きを促した。
「だから、あの人を起こさないままお金を持って帰りました。些細な仕返しです。可愛いものでしょう?」
「それが本当なら、何で嘘をついたんだ?」
「突然胸倉を掴みかかってくる人の前で言えると思いますか? 寝られた腹いせに金を奪って、ついでに風邪の一つでも引いてしまえば良いと思って服も肌蹴たままで放置して帰ったなんて。その人がそのまま行方不明になってしまったのであれば尚更。少しでも自分の安全を確保したいと思うのは当然でしょう?」
サッチは難しい顔で頭を抱えた。確かにリサの言うことも一理ある。直前で寝こけたジュノにリサのプライドは粉々に打ち砕かれただろうし、腹いせに金を返さずに帰るのも、起こさなかったのも、服を整えてやらなかったのも、可愛らしい仕返しだ。かつて自分が似たようなヘマをした時はそれはもう思い出したくないような報復をされたのだから、それを思えばリサの行動は思いやりに溢れている。
リサの言う通り、昨夜のマルコを思えばそんな事をした、などと言い出す事など出来なかっただろう。何せ、あの白ひげ海賊団の一番隊隊長に胸倉を掴まれたのだ。怯えない方がおかしい。
「………うーん……」
「疑いは晴れそうですか?」
ちびちびと酒を舐めるリサを見てサッチは更に頭を抱えた。難しい。勘だ、などと格好つけて言ったくせにこのザマだ。鼻で嗤われてもおかしくない。嗤わずにいてくれるのはリサの優しさなのだろうが、それが逆にサッチを追い詰める。もしそれを狙って嗤わずにいるのなら、サッチの敵う相手ではない。
「――よし、分かった」
「はい?」
「選手交代を要請する」
「交代? エースさんにですか?」
未だに鼾を掻いて眠りこけているエースをチラと見遣ったリサに、即座に首を振って否定した。エースに任せても禄なことにはなるまい。
「……昨日の方ですか」
「嫌か?」
溜息を零したリサに子電伝虫を取り出しながら尋ねれば、今度はリサが即座に頷いた。
「自分を殺そうとしていた人に会いたいと思う人なんていません」
「そりゃそうだ」
けれど、マルコに頼るしかない。一日経って頭が冷えただろうし――もしかしたら更に血が上っているかもしれないが――、バトンタッチだ。子電伝虫の向こうから聞こえたマルコの声に用件を告げていたサッチは、ポツリと零したリサの呟きに気付くことはなかった。