空が白み始めた時分、物音に気付いた少年は目を覚ました。
隣のベッドの妹は未だ夢の中にいるらしく、すやすやと眠っているのが見えた。窓へ視線を向けてみれば、ガラスの向こうに薄暗い空が見える。今日は雨が降るのだろう、厚い雲を見て少年は溜息を零した。喉の乾きを覚えて起き上がろうとした少年は、けれど半分ほど身体を起こした所で力尽き再びベッドへと沈んだ。安物のベッドがギシリと軋む。思い通りに動かない身体を恨めしく思いながら顔だけを扉の方へ向ければ、物音が聞こえたのか足音が近付いてきてゆっくりと扉が開いた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
眠っている妹を起こさないようにと、部屋に入って来た人物は囁き声で少年に尋ねる。それに首を振ってみせれば、相手は表情を和らげて少年へと歩み寄った。愛おしげな視線と共に伸びてきた手が少年の栗色の髪を撫でた。心地よさに表情を緩めた少年はその手に自身の手を重ねて乾いた口から声を発する。
「おかえりなさい」
「ん、ただいま。水飲む?」
頷けば髪を撫でていた手が離れていく。その事を少しだけ残念に思いながら、部屋を出ていく人物の背をじっと見つめ続けた。数分もしないうちに戻って来た人物の手には水差しとコップがあり、サイドテーブルにそれを置くと、少年が起き上がるのを手伝ってくれる。
「、りがと」
「はい、どうぞ」
差し出されたコップを受け取って一気に呷ると、温めの水が喉を潤していく。ほう、と息を吐いた少年はコップを返すと再びコップに水を注ぐ人物を見つめた。
「いつ、帰ってきたの?」
「ついさっき」
「……また、行ってきたの?」
尋ねる声が咎めるような口調になってしまった事にしまったと思った少年は、けれど優しい笑みを浮かべて見つめ返してくる人物に唇を噛み締めた。謝る事すらさせてくれないなんて、ずるい。そう思ってしまうのは自分が幼いからなのだと理解しているが、いつまでも子供扱いされるのも嫌なのだ。少年の複雑な心境など、目の前の人物はお見通しなのだろう、それがまた歯痒かった。
「薬もらってきたから、朝ご飯食べたら飲もうね」
「………うん」
「まだ早いから、もう少し寝た方がいいよ」
「眠くないよ。だって、ずっと寝てるんだもん……」
布団をかけ直そうとしてくれる人物に訴えれば、ずっと優しい笑みを浮かべ続けていた相手は初めて困ったような顔を見せた。困らせたいわけではないが、事実でもある。身体が弱いおかげで一日の殆どをベッドの中で過ごしているのだ。起きていられる時に起きていたい。けれど、目の前の人物が睡眠を欲していることも少年は知っている。困らせたくないと思っている少年は、結局は謝罪の言葉と共にベッドの中へと身を沈めたのだった。
「大丈夫、絶対治るから……今だけだから、ね?」
「……うん」
「元気になったら、また皆でピクニックに行こうね」
「海がいい。僕、海で泳ぎたいよ……他の皆みたいに、いっぱい走り回って、いっぱい遊びたい」
「……すぐに元気になるから……そうしたら、いっぱい遊ぼうね」
優しい手が少年の頭を撫でる。トン、トンと規則的に胸を叩く手も相まって、少年の意識は再びやってきた睡魔に攫われた。
「大丈夫……絶対、治してあげるから」
寝息を立てる少年の頬を優しく撫でた人物は、少年の額にそっと口付けを落とすと静かに部屋を後にした。
モビー・ディック号が碇泊してから二日が経過した。
白ひげ海賊団では、上陸中の船番は日ごとに変わっていく。番を決める方法はその時によって様々だが、大抵がくじや隊長同士のじゃんけんで決められていた。今回の上陸ではログが貯まるまで一週間という事もあり、くじによって取り決められた。厳正なくじによって三日目の船番に割り当てられたのは、マルコ率いる一番隊だった。
「遅ェよい!! 時間はきっちり守りやがれ!」
「すんませんっした!!」
「すっかり寝こけちまって!」
酒場で夜を越した一番隊クルー達が慌ただしく船に戻ってくると、すぐさまマルコの怒声が飛ぶ。こと仕事に関しては人一倍煩いマルコだ。船番の交代時間を過ぎて戻って来たクルー達には容赦なく拳骨がお見舞いされた。
一番隊隊員の半数が頭頂に大きなたん瘤をこさえながら、それぞれの持ち場についていく。名簿リストを片手にぐるっと甲板を一周したマルコは、一人だけチェックが付かなかった隊員の名前を見て片眉を上げた。
「おい、ジュノはどうした」
「は、ジュノ?」
「アイツまだ戻って来てねぇのか?」
「あ、俺アイツが女といんの見たぜ」
「んじゃ、まだ宿か?」
「あーあ、ご愁傷様」
ゲラゲラ声を上げて笑うクルー達を睨み付けたマルコは船の外へと視線を向けて舌打ちを零した。戻ってくる気配はない。未だ宿で寝こけているのだとしたら、拳骨一発では足りない。相応のお仕置きをしてやろうと心に決めてリストをビーチチェアの上に放った。
「うあー、あったま痛ェ……」
「うっぷ、飲みすぎた……」
口を開けば呻くクルー達を呆れたように眺め、溜息を一つ零す。
「ったく、お前ェらは学習能力ってモンがねぇのかよい」
呆れたような声音とは裏腹に、その表情は穏やかだった。飲んで騒ぐのが大好きな彼らが、マルコも好きなのだ。小言を口にしつつも、変わって欲しくないと思っているし、クルー達もそんなマルコの思いを理解している。
モビー・ディック号の甲板には、楽しげな笑い声と沢山の笑顔が広がっていた。
心地良い風が、チェアの上に無造作に置かれたリストを扇ぐ。
ただ一人チェックが付かなかった人物は、その日が終わっても船に戻って来ることはなかった。