死にたがりのその後


風呂上がりのアイスは格別だとルーシーは思う。
オレンジジュースを凍らせただけのものだが、美味いものは美味い。別に買い物に行くのが面倒だったわけではない。スネイプが研究していた薬が新たな反応を見せ、ここ数日は研究室に篭りっきりだったのだ。

「ちゃんと髪を乾かせ」
「もっとゆっくり入れば良いのに」

ほんの十分足らずで出てきてしまったスネイプを振り返れば、髪の先からぽたぽたと垂れる滴を指してスネイプが顔を顰めている。そういえば風呂を出て軽く拭いただけだった。適当に一つに結いただけの髪に触れてみれば、指先がぐっちょりと濡れた。

「うわっ、すごい濡れてる」
「だからちゃんと乾かせと言ってるだろう」

いつの間にか手にした杖をスネイプが振ると、ルーシーの髪は一瞬で水分を飛ばしてしまった。何とも便利な魔法だ。すっかり乾いた髪を解き、スネイプに手を差し出す。杖。スネイプは一瞬嫌な顔をしたけれど、何も言わずに貸してくれた。

「アクシオ」

杖の先を向けた棚がガタガタと大きく揺れ、物凄い勢いでガラス戸が開いた。飛び出してきたスコッチの瓶を寸での所で受け止めると、何かが落ちる音に次いでガチャンと不吉な音がする。棚の方を見れば、勢いに負けたガラス戸の蝶番が壊れて床に落ちていた。飛び散ったガラスからちらりとスネイプの方を見れば、だから貸したくなかったのだとぼやきながら杖を奪われた。

「取ってあげようとしたんだって。乾かしてくれたお礼に」

一瞬でガラス戸を直したスネイプの視線から逃げるように顔を背けて言い訳を口にすると、小さな溜息を落としたスネイプがグラスを呼び寄せながら隣に腰を下ろした。せめてこれくらいは。さっとスコッチを取り上げ、嫌な顔をするスネイプに構わずグラスに注いでやる。注ぐ際に少しばかり零してしまったが、気にしたら負けだ。

「お前にやらせると碌な事がない」
「それ言ったらお終いだから。私もサイダー欲しい」

早く。すぐそこにある腿をぺちぺちと叩きながら訴えれば、止めろと手を払ったスネイプがサイダーとグラスを呼び寄せてくれた。栓を開けてグラスに注ぐ所までしてくれるこの男は、何というか、凄い。いろんな意味で凄い。

「……どーも」

勿体ない。ちびちびとサイダーを飲みながら、ルーシーはちらりと隣に座る男を盗み見た。
肩まで伸びた黒髪は鬱陶しいし、特徴的な鉤鼻の上にある目を向けられた者は「こっち見んな」と声を揃える事だろう。その直後に減点と嫌味が待っている事を知っている者達ならば必ずそう言うはずだ。
でも、造り自体は悪くないんだよなぁ。心の中で呟いてまたサイダーをちびちびと飲む。しゅわしゅわと口の中で弾ける炭酸に顔を顰め、残ったアイスを口の中に押し込んだ。

「太るぞ」
「女の子はちょっと太いくらいが可愛いんだって”太った婦人”が言ってたもん」
「…………そうか」

難しい顔とぎこちない声に笑みを零せば、無言で頭を叩かれた。
グラスを呷るスネイプをまた盗み見て、やはり思う。勿体ない。見た目が悪いわけでもなく、家事も問題なくこなせる。稼ぎだって問題ないとくれば、それなりに良い物件なのではないだろうか。

「可哀想に」
「何がだ」
「いや、こっちの話」

じとりとこちらを見るスネイプにへらりと笑ってみせれば嫌な顔をされた。前言撤回。性格が悪すぎだ。いくら優良物件だとしても、性格が悪ければどうしようもない。おまけに片想いを拗らせた残念な中年男だ――そこまで考えてふと疑問が浮かぶ。
自分は何故こんな残念な中年男と一緒にいるのだろうか。自分も十分残念な女だと分かっているが、それでもやはり不思議である。

グラスを置き、ルーシーは身体ごとスネイプに向いてじっと見上げた。僅かに身を引いたスネイプが嫌そうにこちらを見返してくる。何だその反応は。仮にも一緒に住んでいる相手だぞ。キスまでしたくせに。心の中で文句を投げつけて目を眇める。

「だから、何だというのだ」
「別に」
「ならばその顔を止めろ」

首にかけていたタオルを引っ張られ、顔に被せられた。止めろバカふざけんな。吐き捨てながらタオルを引き剥がせば、つんとそっぽを向いたスネイプがいる。見るなという事なのだろう。見られて減るものなどないくせに。
唐突に手を伸ばすと、スネイプが驚いた顔で振り返った。

「うわっ、私と同じ生活してるくせに何これ。腹立つ」

殆ど脂肪のない腹をぺたぺたと触りながら、ルーシーはちらりと自分の腹を見た。忘れよう。自分は何も見ていない。思い直して腹に手を滑らせていると、動揺を隠しきれない声が「放せ」と降ってきた。

「お前よりは動いてる」
「ちょっとでしょ。何これムカつく脂肪どこいった」

べろん。シャツを捲ると感触通り肉のない腹が現れた。
腹立つ。何なのこれ。ぶつぶつ文句を言いながら自分のとは違いすぎる腹をベチベチ叩くと手首を捕まえられる。

「っ、は、放せ馬鹿者!」
「良いじゃん減るもんじゃあるまいし」
「そういう問題ではない!」

酒の所為だろうか。もしくは、スネイプに抵抗されたからかもしれない。無性に腹が立ったのだ。
意地でも触ってやろうと抵抗すると、スネイプは「止めろ!」と明らかに動揺を隠せないままルーシーの腕を掴む手に力を篭める。

軍配が上がったのはスネイプの方だった。けれど、それがスネイプの望んだ形ではない事は明らかで。
目の前にはスネイプ。更にその向こうには天井が見えている。相変わらず手首は拘束されたままで、覆い被さるスネイプを退かせる程の腕力はルーシーにはない。
驚いたのはスネイプも同様で、目を見開いて硬直している。自分が押し倒したくせにと声に出さぬまま心の中で呟くと、まるでそれが聞こえたかのようにスネイプがぱちぱちと目を瞬いた。

「、悪い……」

起き上がろうとするスネイプはもうルーシーを見ていなかった。顔を背けるその様子にまた苛々したのは、きっと酒の所為だ。
ルーシーは咄嗟にスネイプの腕を掴んでいた。驚いた顔がまたこちらを見た。

「聞きたかったんだけど」
「、」

微かに息を呑んだスネイプに構うことなくルーシーは続けた。

「私って何?」

くっきり跡の残った眉間に皺が刻まれる。怒っているようには見えない。どちらかと言うと困惑だろうか。視線を彷徨わせたスネイプは、やがてスネイプらしからぬ小さな声でそっと囁いた。

「…………同居人だ」
「キスしたくせに?」

また動揺。いちいち忙しい男だ。先ほどよりも忙しなく視線を泳がせるスネイプに、付き合っているのかと尋ねれば「そうでない事もない」と面倒臭い返事。ふぅん。返した相槌はちっとも納得していなかった。

「それにしては、ずっと”スネイプ先生”のままだね」

視線を逸らしたまま苦い顔をするスネイプを見上げたまま、ルーシーは続ける。
腕を掴む手には自然と力が入っていた。

「名前もたまにしか呼ばない」
「……お前だってそうだろう」
「呼んで欲しいの?」

責任の所在を曖昧にしようとするスネイプに一歩踏み込んで。けれど返ってきたのは「そういうわけではない」という台詞。また逃げられた。

まだだ。分かっている。分かっているのに、何故だろうか。

「セブルス」

初めて呼んだ名前に、スネイプが大きく身体を揺らした。

「キスして」

息を呑んだスネイプが漸くこちらを見た。
動揺、戸惑い――仄かに染まった頬は、ルーシーに対して向けたものではない。ただこういう事に慣れていないからだ。分かっている。分かっているのに、何故だろう。もう放してしまえば良いのに。放したくないと思う自分がいる。

「…………放してくれ」

沈黙の後、視線を逸らしたスネイプが搾り出すようにそう言った。
唇をきゅっと引き結んで。ルーシーはゆっくりと手の力を抜いた。そっと離れる手は自分のものだというのに言うことを聞いてくれない。これではまるで、残念がっているようではないか。
さっと立ち上がったスネイプが無言のまま部屋を後にする。足音が遠ざかっていくと、ルーシーは内に溜まっていたものを全て吐き出すかのように大きく息を吐き出した。

「……頼むな、ばか」

落ちた声は微かに震えていた。




翌朝、ルーシーが目を覚ますとスネイプはもういなかった。
今日は研究所に行くと聞いていたから驚きはしなかったけれど、せめて起こしていってくれれば良かったのに。昨夜の事を引きずっているのだろうと思うと溜息しか出ない。

待つべきだった。急ぐべきではなかった。焦らせるべきではなかった。
ずっとこのままだと覚悟していたはずではないか。誰を想っていようと気にしないと、そう考えていたはずなのに。

「……意味分かんない」

酒の力とは恐ろしい。
のろのろと起きだして、顔を洗って。鏡の中に見える情けない顔の自分を見てルーシーは顔を歪めた。
何でこんなに落ち込んだ顔をしているんだ。何考えてるんだ、欲求不満じゃあるまいし――いや、違う。逆だ。むしろ、そうであって欲しい。別にスネイプに拒絶されてショックを受けているわけじゃない。ただ欲求不満なだけだ。

「…………キスくらいしろ、バカ」

恋人なのか、恩師なのか、ただの同居人なのか。曖昧な関係を保ち続ける男に向けて吐き捨てたルーシーは、用意されていた朝食を少しだけ食べて研究室へ向かった。頼まれていた薬を作らなければ。
材料を切り分けて、鍋に火をかけて。深呼吸を一つ。余計なことは考えるな。

頼まれていた薬は簡単なもので、二時間もあれば作り終えてしまった。
火を止めて、あとは三十分ほど時間を置くだけだ。念の為にアラームをセットしてリビングに移動したルーシーは、疲れきった溜息を落としてソファに寝転んだ。
昨夜と同じように天井を見上げると、苛立ちに似た何かがこみ上げてくる。あぁ、くそ。吐き捨てて起き上がり頭をぐしゃぐしゃと掻き毟っていると、突然暖炉からエメラルドグリーンの炎が上がった。まさか帰って来たのだろうかと身構えたルーシーだが、現れたのはスネイプではない。

「やぁ、ルーシー」
「……ロバート?」

研究所に勤めていた頃の同僚が爽やかな笑顔で挨拶をする。何しに来たのかと問えば、先ほどルーシーが作っていた薬を受け取りに来たのだとロバートは言う。

「所長に頼まれたんだ」
「そう……でも、まだ無理だよ。さっき火を止めたばかりだから――でも、珍しいね。ロバートだって研究があるのに」

所長はこういった雑務を研究員に任せる事はしない人だと思っていた。ルーシーが勤めていた頃はそうだった。時間があるのなら研究を続けろと言う人間だったのに、どんな心境の変化だろうか。
立ち上がりソファを勧めたその時、突然腕を引かれた。驚く間もなく、今度は押し倒されて背中からソファに倒れこむ。肘掛け部分に頭を強かに打ち付けた。

「う、ぁ……い、たぁ……」

ガンガンと痛む頭に顔を歪めながら目を開けたルーシーは、昨夜と似たような状況になっている事に気付いた。けれど目の前にあるのはスネイプの動揺と困惑に染まった顔ではない。

「僕が頼んだんだよ。こうでもしないと会う機会がないから」

ロバートの発した声が危うさを孕んでいる事に気付かないわけにはいかなかった。
この状況はやばい。けれど、逃げ出そうにも上に覆い被さるロバートの所為で動けない。

「まさかスネイプだなんて」

ロバートが吐き捨てる。あぁ、やばい。やばい。頭の中でガンガンと警鐘が鳴っている。

「君が僕につれなかったのは、僕と君じゃ歳が離れすぎてるからだと思ってた」
「――ロバート、退いて」

動揺を悟られぬよう、決然とした面持ちで言い放ったが、それが間違いだったのだと顔を歪めたロバートを見て悟った。

「何でスネイプなんかと……! 僕があいつより劣ってるって言いたいのか? あんな嫌な奴!」

声を荒らげたロバートの大きな手がルーシーの手首を強く掴む。振り払おうとするがビクともしない。

「それとも、あいつが英雄だからか? 友人が英雄ってだけじゃ満足出来なかったか? すぐ傍に英雄を置いておきたくて――」
「いい加減にしてよ!」

耐え切れずルーシーは声を張り上げた。

「英雄だから? 悪いけど、私はスネイプが英雄だなんてこれっぽっちも思ってない! 嫌な奴だし、口は悪いしお節介だし――」
「じゃあ、どうしてあいつなんだ?」
「アンタに教える必要なんかない」

吐き捨ててルーシーはロバートを睨みつけた。どうしてだなんて、そんなのこっちが聞きたいくらいなのだ。
逃げようともがくが、やはりビクともしない。

「所内では、僕がスネイプに負けたって話で持ちきりだ。君が僕じゃなくてスネイプを選んだから……」

ロバートの暗い声には隠しきれない怒りが滲んでいた。

「僕が。この僕が、あんな奴に負けたなんて……!」

赦せない。吐き捨てたロバートが顔を近づけてくる。咄嗟に顔を背ければ、首筋に生温かい息がかかり総毛立った。
気持ち悪い。嫌だ、触るな。嫌だ、止めろ。お願い、触らないで。
自分でも何を言っているのか分からない。ただ気持ち悪くて、怖くて、今すぐ離れて欲しかった。

首筋を這う舌も、戯れに噛みつく歯も、吸い付く唇も、何もかもが嫌で。意図せず漏れた声が何を言っているのかも分からない。頭がガンガンと痛み、触れられた箇所から全身が腐っていってしまうような気さえした。
気持ち悪い、嫌だ、早く終わって――願いが通じたのか、首筋に顔を埋めていたロバートがぱっと顔を上げた。おそるおそる目を開いてロバートをそっと盗み見ると、暖炉の方を見て固まっている。
暖炉を見たルーシーの目に最初に飛び込んだのは黒だ。黒。黒いローブに黒いマント。目線を上げていけば、今日はまだ一度も見ることのなかったスネイプの顔がある。

全身を硬直させてこちらを凝視するスネイプと目が合った。
その瞬間、濁流のように色々な感情が湧き上がってくる。帰って来てくれて嬉しいのに、こんな場面を見られてしまった事が悲しい。口を開いても声は出てこなくて、代わりにただただ涙が溢れては頬を濡らした。

顔をぐしゃぐしゃにして泣くルーシーに何を思ったのだろうか。
さっと杖を取り出したスネイプが一瞬でロバートを吹き飛ばした。勢いよく壁に叩き付けられて床に落ちるロバートを睨むスネイプの顔は、今まで見たことがないくらい怒りに満ちている。
無言のままスネイプが杖を振ると、そのたびにロバートが呻き声を上げる。のろのろと身体を起こしたルーシーは、これまでにない程怒っているスネイプを呆然と見て、その視線の先で縄に締め上げられているロバートを見た。

「、ス、ネイ」

やばい。駄目だ。死んじゃう。ロバートの青紫色の顔を見て思う。

「やめて……死んじゃう!」
「何か問題が?」

帰って来た声はどこまでも冷めていて。喉がひゅっと鳴った。
駄目だ。本当に殺してしまうかもしれない。駄目だ。漸く自由になったのに――震える足に力を入れて立ち上がり、ルーシーはスネイプの背中にしがみついた。

「だ、だめ……もう、だいじょうぶ、だから」

スネイプは答えない。

「だめ……殺しちゃだめだよ……そんなこと、しなくていい」

ロバートの呻き声がぴたりと止んだ。代わりに聞こえたのは苦しげに咳き込み喘ぐ音。解放してくれたのだと安堵の息を漏らしてスネイプから離れると、大股でロバートに近づいたスネイプが、両手を拘束させてロバートを暖炉に放り込んだ。エメラルドグリーンの炎と共に姿が消えると、部屋の中には沈黙が落ちる。決してこちらを振り返ろうとしないスネイプの背中から目を背け、ルーシーは漸く乱れた服を直した。

「…………風呂、入ってくる」

逃げるようにバスルームに向かうルーシーに、スネイプは何も言わない。
閉じた扉の向こうから、微かにアラームの音が聞こえた。




熱いシャワーを浴びながら懸命に肌を擦る。
不思議なことに、たっぷり石鹸をつけたスポンジで擦っても、ちっとも綺麗になった気がしなかった。
全身を這い回る嫌悪感が消えないのだ。何度も何度も擦って、肌に残る感触を消すように引っ掻いて。それでも消えてくれない。

誰でも良かったわけじゃない。鼻の奥がツンとするのを感じながらルーシーは唇を噛みしめた。
ロバートじゃない。彼にそれを望んだわけじゃない。好きでもない相手に触れられたって嬉しいはずがない。
スネイプが良かった。スネイプだから、そうして欲しいと思ったのだ。

ぽろぽろと溢れた涙が頬を伝う。鼻を啜って、声を押し殺して。
消えてくれない感触を掻き消す為に、ひたすらに引っ掻き続けた。がりがり。がりがり。爪の間に滲む赤と痛みに血が出てしまった事を知るが、それでもまだ感触が消えてくれない。がりがり、がりがり、がりがり。痛みの所為か、恐怖の所為か。声を押し殺して泣きながら、ルーシーはひたすらに肌を掻いた。

風呂を出るとルーシーは真っ先に研究室へ向かった。扉を開けると鍋の前に立つスネイプの後ろ姿がある。振り向くことすらしないスネイプに、この時ばかりはホッとした。

「傷薬、使うから」

断りを入れて棚から傷薬の瓶を取り出す間も、スネイプは何も言わない。一心不乱に調合を続けるスネイプの、隠し切れない怒りが背中に見て取れた。その怒りがロバートに向けたものなのか、ルーシーに向けたものなのかは分からないけれど。

自室に戻ったルーシーはベッドに腰掛けてバスローブを脱いだ。姿見を目の前に呼び寄せると真っ赤な首元が見えて顔を歪めた。見ているだけで痛い。見ていなくても痛い。さっさと薬を塗ってしまおうと瓶の蓋を開けると、不意にノックの音が飛び込んできた。誰かなんて聞かなくても分かる。この家には二人しかいないのだから。

「……後にして。薬塗るから――」

言い終わらない内にガチャリとドアノブが回った。容赦なく開いた戸から入ってきたスネイプに驚いて布団を引き寄せる。

「で、出てって!」

慌てて叫ぶが、スネイプはそれを無視してこちらへやって来る。伸びてきた手に恐怖を覚えて目を瞑ると、肩に触れた力強い手に押されて後ろに倒れ込んだ。傷口に布団が擦れて痛みが走る。
痛い、放して。退いて。固く目を瞑ったままスネイプに訴えるが、聞き入れてはもらえなかった。目を開けるのが怖い。さっきと同じ状態だという事は容易に想像ついた。相手がスネイプだったら良かったと思ったけれど、それは昨日の夜の話だ。あんな事があった直後に同じことをされたって、ただ怖いだけに決まっている。

自己防衛だった。これ以上あんな思いをしたくない。どうして退いてくれないのと訴えても顔のすぐ横についた手が離れる事はない。抱きしめた布団に必死にしがみついて、ぎゅっと目を閉じて。恐怖が早く去ってくれる事を願った。

不意に自分のものではない手が頭に触れた。怯えている事に気付いているくせに、離れてくれないスネイプの手がぎこちなく頭を撫でている。怖いのに。嫌なのに。慰めるように何度も頭を撫で髪を梳く手に、ルーシーはそろりと目を開けた。
感情の読めない目がこちらを見下ろしている。目が合うとスネイプは口を開いたけれど、何も言わずにすぐに口を閉じた。

「…………べつに、何もされてない」

顔を背けながらルーシーはぼそぼそと伝えた。首を舐められただけ。痕をつけられただけ。ただ、それだけ。
それなのに、怖くて。すごく怖くて。気持ち悪くて。また涙がぼろぼろと溢れてきて、抱きしめていた布団で拭う。血と涙で濡れてしまったそれを見たら、何だか無性に悲しくなった。

「どいて」

ぐすぐすと鼻を啜りながら頼んだけれど、スネイプは聞き入れてくれない。肩に何かが触れ、くすぐったさに身を捩ったその時、首筋に触れた柔らかい”何か”。先ほど恐怖を与えられたばかりの”それ”と同じ感触に小さな悲鳴が漏れる。怖い。何で、どうして。

「、や、だ」

怖い。嫌だ。止めて。そう言いたいのに声が出ない。何で今こんな事するの。さっきあんな目に遭ったばかりだと知っているくせに、どうして。嫌がったくせに。

「っ、も、いい……むり、しなくていい。あ、あんただって、私に触りたくなかったんでしょう? もう、いい……キスも、いらない、何もいらない……きっと、私も無理だから……だから――」

だから早く退いて。お願いだから。そう続くはずだった言葉は、顎を捉えて引き寄せたスネイプの唇に飲み込まれた。驚き硬直するルーシーなどお構いなしに唇を重ねるスネイプの真っ黒な目がすぐそこにある。

「、ん、ちょ、やだ……っ」

押し退けようとするが叶わない。真っ直ぐこちらを見つめるスネイプには、ルーシーが嫌がっている事も怯えている事も分かっているくせに。
不意に入り込んできた舌に驚き、咄嗟に噛みついた。顔を顰めたスネイプが離れていく。心臓が痛い。怖い。嫌だ。気持ち悪い。

「どいてっ! はやく……っ!」

顔を背け、震える身体を抱きしめながら訴える。怖い。ガチガチと鳴る歯の音にすら恐怖を覚えるなんて。

「…………我輩は、ロバートではない」

漸く声を発したと思ったら。ルーシーは固く目を瞑り身を縮こまらせた。
そんな事分かっている。けれど、だからと言って平気でスネイプにくっつけるほど器用ではない。単純なのだ。自覚だってしている。男に襲われかければ恐怖心を持つに決まっているではないか。今更こんな風に迫られたって、嬉しくも何ともない。見事に逆効果だ。

「……おねがい、だから……どいて」

震える声で訴えて、深呼吸を繰り返す。
こう言えば退いてくれると思っていた。昨夜スネイプが頼んで、ルーシーは聞き入れたのだから。スネイプだってそうしてくれるに決まっている――そんな希望は降ってきた「断る」の声に打ち砕かれてしまった。

どうして。責めるような視線を向けると、大きな手がそっと頬に触れた。自分のよりも遥かに大きいそれに恐怖しているのに、どうして止めてくれないのか。こめかみに落とされたキスにまた涙が溢れた。

「き、のうは、して、くれなかっ、くせに」
「ずっと考えていた」
「い、いやなんでしょ……ハリーのママが、いいんでしょ」
「彼女を想う気持ちは変わらん」

何でこんな事になっているのだろうか。
こんな話、今したいわけじゃない。スネイプの気持ちなんて分かっていたはずなのに。
どうして今こんな話をしなければならないのだ。好きでもない男に襲われて苦しんでいるのに、傷口に塩を塗り込むような真似をするなんて。

「いらないんだろ……前に進む気なんか、ないくせに」

もうこんな話をしたくないのに。身体も心も傷だらけだ。痛くて堪らない。

「進みたいと思った」
「っ、でも無理なんだろ! 進めないんだろ! どうせ私なんかじゃその気になれないんだろ!」

耐えられない。痛くて、悲しくて、苦しくて。
もう嫌だ。溢れる涙を拭うことも出来ないまま、ルーシーはスネイプを睨みつけた。

「触んないでよ! 怖いっつってんじゃんか!」

喉が震える。泣きたくなんてないのに。こんな無様な姿、見せたくなんてなかったのに。
馬鹿みたいだ。こんなに泣きじゃくって、スネイプを責めて――全て承知の上で一緒にいたはずなのに。

「ひっぐ、も、もう、いい」

無理して一緒にいて欲しくない。一緒に暮らしたくなんかない。出て行く。
閊えながら言葉を紡げばスネイプが溜息を漏らした。何故そうなる、だなんてルーシーを激昂させる言葉を吐く。

「一緒にいたくない! 何だよ今更! こ、こんな目に遭った途端、何なの!? 同情してんの!? 昨日嫌がったから責任感じてるだけでしょ! そんなのいらない!」
「同情? 責任?」

吐き捨てたスネイプに顎を捉えられ、ルーシーは息を呑んだ。
滲んだ視界に映るスネイプの顔は、怒りに満ちていた。

「あのような男に触れられおって」

奥歯を噛みしめる音にひくりと喉が鳴る。

「こんな事なら、昨日そうしていれば良かった」
「、ネイ……」

怖い。真っ直ぐにこちらを見据える黒い目が怖い。ありありと見て取れる怒りに身体が震える。
声を発する事すら出来なくなってしまったルーシーの視線の先、スネイプが顔を歪めた。

「彼女を忘れられないまま、触れるべきではないと思った」
「、」
「適当に扱うべきではないと、そう考えたから拒んだというのに――このザマだ」

吐き捨てて目を逸らしたスネイプを、ルーシーは呆然と見つめた。
怒っていると思っていた。怖いと思っていた。けれど違う。怒っているのではない。傷ついているのだ。
何故だろうか。顔を歪めたスネイプが、今にも泣き出してしまいそうに見える。

「…………スネイプ……」

ぽとりと零れ落ちた声にスネイプがぐっと眉を寄せる。
どうして怒っているなんて思ったのだろう。ルーシーはいつの間にか震えが治まっている事に気付いた。

「…………キス、して」

スネイプがルーシーを見た。
眉根を寄せた顔は怒っているようにも見える。けれど違う。違うと気付いた。違うと気付けた。

「なんで……そんな、難しいことばっか考えてんの……私は、ちゃんと納得してここにいるのに」

涙が止まらない。さっきまでとは違う。恐怖の涙ではないことをルーシーは知っていた。

「だいたい、アンタがリリーさんを忘れられない事くらい、分かってるよ……あの人以上に想ってもらえない事だって分かってる――と言うか、そんなの怖すぎて、こっちから願い下げだっつーの」

くしゃりと顔を歪めてスネイプに手を伸ばす。頬に触れるとスネイプの眉間の皺が濃くなった。

「ばかじゃん……何で、私のことでそんなに悩んでんの……そんなの、私のことが好きだって言ってるようなもんじゃん……」
「…………そうでなければ、お前のような面倒な女と共に暮らしたりはしない」

頬に触れた手が掴まれて。手のひらに唇が触れる。
空いている方の手で涙を拭うが、視界は相変わらずぼやけたままだ。何度も涙を拭って、鼻を啜って。
滲む視界の中でスネイプが泣きそうな顔で笑った。

「私も、趣味が悪くなったものだ」





ひねくれ者達の本音





「…………痛い」

今になって傷が痛み出すなんて。
ズキズキ、ビリビリと痛む首に顔を歪めると、タオルと薬を呼び寄せたスネイプが布団を引き剥がす。慌てて身を縮こまらせると「こっちを向け」と叱られた。

「こ、こっち見んな!」
「手当てが出来んだろうが。さっさとしろ」

じとりと睨み付けながら、渋々と首を伸ばす。走る痛みに顔を歪めるルーシーなどお構いなしに、タオルに薬を染み込ませたスネイプはそれを容赦なく首に押し付けた。上がる悲鳴にすら動じないこの男は、ルーシーの記憶が確かならばついさっき”好きだ”と認めたばかりのはずだ。
悲鳴も抗議も全て無視して手当てをしてくださったスネイプを睨みながら、ルーシーはもぞもぞと布団の中に潜り込んだ。包まった状態で起き上がり、布団についた血を消してくれと言えば、赤が点在する布団に顔を顰めたスネイプが杖を振る。あっという間に元通りだ。これで眠れる。

空になった瓶とタオルを手に立ち上がるスネイプのマントを掴み、振り返ったスネイプを見上げた。顔を顰めたスネイプがふいとそっぽを向くのに少しだけ笑って。

「もっかいキスして」

顰め面でこちらを見下ろしていたスネイプは、やがて観念したように戻ってきた。軽く触れるだけのキスをするスネイプの首に腕を回し、途端に動揺し視線を逸らすスネイプにまた笑う。

「赤い」
「黙れ」
「――あ、そっか。初めてなんだ」
「そんなわけあるか」
「うそ、初めてでしょ? 好きな子とするの」

ニヤリと笑うルーシーの視線の先でスネイプが苦い顔をする。聞こえた舌打ちにすら笑って。
不思議だ。さっきまではあんなに怖かったのに。今はもう怖くない。

「スネイプ」

呼びかければ不機嫌そうな顔のスネイプがこちらを見る。どこか拗ねたようにも見えるその顔は「触って」と囁くとみるみる内に赤くなった。

「気持ち悪かったから、消して。全部。それで……」

悔しいが、きっと自分もスネイプと同じくらい赤くなっているのだろう。もしかしたらそれ以上かもしれない。

「、わ、私も、その……ちゃんと、す、好きな人に、してもらいたい」

沈黙。顔が見れない。顔が熱い。絡めた腕が震える。それがまた悔しい。
やがて、大きな溜息を吐き出したスネイプが空になった薬瓶とタオルを放った。ベッドから落ちた瓶がコロコロと転がる音がする。

「…………後悔しても知らんぞ」
「惚れた男に抱かれて後悔するほど、馬鹿な女じゃないよ」

僅かな沈黙の後に、唇が触れた。
確かめ合うような甘いキスに涙が滲む。一体どれだけ泣けば枯れてくれるのだろうか。

「……悔しいのはある。よりによって、スネイプなんか」
「それはこちらの台詞だ。全く、どうしようもない」

刺々しい言葉を吐き合って、顔を見合わせて。少しだけ笑って。
どこまでもひねくれた二人はそっと唇を触れ合わせてベッドに倒れ込んだ。