彼女の生活の補助をしながらも、私は常時彼女の症状の変化を羊皮紙に記録していた。
がしかし、後から読んでみればそこには大した実のある内容は書かれていない。
薬が齎す作用として特に目立った事象が無かったからなのか
中には勿論、医務室に預けていた際の体調変化などの真っ当なものもあったが
彼女が紅茶が飲めないことや、バスルームで転倒したことなどの初日の出来事から
立ち上がる際に弁慶を打って身悶えていたことや食事にでたマフィンに密かに喜んでいたこと等
殆どそんな下らない事柄に溢れていた。
私は大して古くも無いそれらの情景を思い出しながら、その羊皮紙をそっと炎の揺れる暖炉に投げ入れた。
そう、彼女との生活は、終わったのだ。
日を越え、夜明け前の事
不意に隣で夢と現実の間にあった彼女が僅かに顔に掛かったランプの灯りに眉を寄せた。
瞼の裏でその光を見たらしいその唇から一言、「眩しい…」と零したのに気付き
私は朝日が昇る前に急いで彼女を医務室へと運んだ。
昨日の夜の出来事は夢だったのだ。
目が覚めて、そしてそこにもし『セブルス・スネイプ』がいたら、彼女は一体どう思うだろうか。
そんな展開は、彼女にとっては最悪の事態以外あり得ない。
運び込んだ医務室のベッドの上で、少しだけ疲れたような顔をしながらも幸せそうに眠るその小さな唇に
そっと触れるだけのキスを贈る。自分なりの、別れの儀式だった。
戻ってきた日常。これまで当たり前に送ってきたはずの日々は
心のどこかにぽっかりと穴が開いてしまったような、そんな虚無感に支配された物へと変化していた。
今までどうやってこの空しさを感じずに過ごしてきたのだろうか。
そこに何の疑問も抱かぬほど、自分は寒々しい何かが欠落した人生を送ってきたのだろうか。
一つに捕らわれ、何もかもが一枚隔てた場所で過ぎ去っていっていたのかも知れない。
気付いていたならば、もっと自分は違う人生を歩んでいたのだろうか。
考えても限が無い事ばかりが頭に浮かんだ。
それほど彼女と過ごした数日は自分の中の何かを満たしていたのだろう。
今は、罪悪感ばかりが心に溢れる。
元の生活に戻ったはずの彼女は、以前とはまるで違う。
正直、彼女との事を後悔していた。
どうしたって眼で追ってしまう彼女は、どこか心あらずで過ごす日々を送っていた。
以前のような、学友達と話す姿は眼にすることはなくなり
図書室や中庭で一人ぼんやりと過ごす姿を見かける事が多くなった。
心配している周りも気にせず、ただ何かを待っているように過ごす。
見ていて胸が痛まない訳がない。
それに、以前はあんなにも熱心だった魔法薬学の授業にも身が入らないようで時折
授業中にも関わらず、どこか上の空で居ることが多くなった。あんな事故にあってしまったからこそ
自分は、彼女には人一倍薬品の取り扱いには気をつけて欲しいと思っているのに……。
その度に私は彼女から引きたくも無い点数を引き、やらせたくも無い罰則を与えねばならないのだ。
どこかを見つめている仕草を追って見れば、そこには大抵男子生徒の姿があった。
更に注意深くすれば、彼女の視線が彼らの手の平を追っていることにも気付く。
『…触ってください…』
あの日の、彼女の言葉が蘇る。
気分が悪い。
その男の手が、私の訳が無いではないか。
理不尽な憤りを感じた。
それでも――
この手は、伸ばせない。伸ばしてはいけない。
彼女の切ない顔を見ていれば、引き寄せて抱きしめてやりたくなる。
滑らかな髪を梳いて、何度も触れたあの頭を撫でてやりたくなる。
自分の犯した罪は、消えない。
伸ばしていい腕ではなかった。触れていい身体ではなかった。
好意を抱いてはいけない存在だった。夢を見てはいけない想いだった。
彼女を愛しては、いけなかった。
一人きりでは何だか寒く感じるようになってしまった自室に戻り
部屋全体に防音呪文をかける。
「………ッ」
零れ落ちたのは微かな、嗚咽にも似た呟きだった。
「……ルーシー…、ルーシー……
ルーシー……ルーシー、ルーシー――!!」
本人にすら一度も呼んでやれなかった愛しい彼女の名を
馬鹿の一つ覚えのように、何度も、何度も狂ったように繰り返した。
酷く無様で、情けなく惨めな自分。
――嘲って笑って欲しかった。
自分の中で何も消化出来ないまま季節は巡り、やがてホグワーツは長い連休へと入った。
生徒の殆どは長い休みを利用し、一時心休まる各々の家へと帰宅している。
人の気配が消えた城内はまるで眠りについたように静まり返り
そこがどこか別の空間のような気さえ感じさせていた。
私は閑散とする城内を誰を気にするでもなく気の向くままに歩を進めていた。
普段は生徒がごった返し狭く感じる廊下も、今日は自分一人の足音だけが空しく響く廃墟のよう。
他人が居る煩わしさが全く無いのも、それはそれで何か居心地が悪い気もしてくるから不思議だった。
特にしなければならない仕事は無いし、気になっていた実験も昨日の内に終えてしまっていた。
食事の時間まで何もする事が無い。やはり部屋で本でも読んでいれば良かったかも知れない、と
気まぐれに部屋を出てきたことを少しだけ後悔しつつ、そんなことを考えて動かしていた足は
既に部屋へと続く道筋を辿り始めていた。
いくらもしない内に中庭を見渡せる通りに差し掛かれば、以前、彼女が一人ぼんやりと座っていたベンチが視界に入った。
思わず足を止めた自分の脳裏に、その時の光景がまざまざと思い浮かぶ。
視覚を失い、嗅覚を失い、そして聴覚すら失ってしまったあの時ですら彼女は時折笑っていたと言うのに
あの朝別れてからと言うもの、それらは徐々に減り、最近では彼女の笑顔は殆ど見なくなっていた。
それら全てが自分のせいだと分かっているから尚辛い。
まるで罪悪感から逃れるように視線を逸らせば、差し向かいの通りから
当の本人ルーシー・カトレットが丁度こちらに向かって歩いてくるところだった。
家には帰らなかったのか、と
そんなことを考えつつも、極力感情を何も浮かばせないように顔を引き締める。
何も無い場所で立ち止まっていれば不自然と思い、止まっていた足も歩みを再開させていた。
ただ会えたことに、どこかで高揚する心。随分と易い感情だと思わず自嘲が零れた。
彼女を見ただけで、この心に出来た空虚がパズルのピースが噛み合う様に埋まっていく。
彼女の、足元を見て歩いていた小作りな顔が持ち上がる。あの日より少しだけ大人びたように感じる顔。
「……………」
気付くな。いや、気付くはずなど無い。
訳の分からない思考が頭の中を巡る。
笑って欲しい。笑った顔が見たい。
決して口には出来ない言葉を心で紡いでいた。
手を伸ばせば触れられる位置に居る彼女が、恋しい――
知らず鼓動を早める自分に、彼女は気付きもしないだろう。
それは、あの五感を欠落させていた時と同じ様に。
そこに本来在るはずの無い物が。在ってはならない物を見ること等が。
そもそも無理な話だからだ。
「こんにちは、スネイプ先生」
誰も、……彼女すらも
私がその存在を心が痛むほど愛しんでいる人間などと、考えるはずが無い。
「あぁ…」
ただの教師と生徒だった以前と同じ、何とはない挨拶。
そのまま隣をすれ違うだけ。たった、それだけ。
そう、そのはずだった――
「…っ……何かね、Miss.カトレット」
クン、と引っ張られる感覚に足を止めていた。
視線だけで振り向けば、しかし彼女はこちらを見てはおらず、前に顔を向けたまま
けれどその手は私のローブを確りと掴んだままだった。
「この匂い、知ってる……」
思わず息を飲む。
自分の部屋のバスルームにあったシャンプー類の香りに、彼女は気付いたらしかった。
何時もは薬学教室で会うだけだったので、薬品の匂いに紛れて気付かなかったのだろう。
今日は生憎と一度も薬品の類には触れていない。
例えば、暫く耳を手で塞いだ後にパッとその手を離すと一時とても音が大きく聞こえる。
それと同じように、失われた彼女の五感も戻り始めた当初はそれらの感覚は常より鋭敏になっていた事だろう。
あれからもう何日も経っているが、恐らく彼女は嗅覚を取り戻した際に香ったシャンプーの匂いを覚えていたのだろう。
動揺する心を見透かされないように意識して、声に感情を乗せないようにどうにか言葉を紡ぐ。
「それが? 申し訳ないが、私は仕事がある。用が無いのなら放してくれ給え」
「っ…待って、待ってください……! だって…」
物理的なものではなく苦しげに歪む顔が、俯いて流れた髪の毛の隙間から僅かに覗く。
「…だって……、私…」
核心を持ったような、しかし淀んだ気配に背中に冷たい汗が流れる。
認めたくないのかも知れない。それはそうだろう。相手は他の誰でもない、私だ。
生徒達から嫌われている陰険な薬学教授。
自分で考えて、何だか薄ら寒く感じる体温に吐き気がこみ上げた気がした。
「放しなさい」
冷たく、突き放すような声だと、自覚があった。
そしてその通り、彼女はビクリと肩を震わせると、あっさりと自分から指を外した。
狙い通りと言うのに自嘲の笑みが浮かぶ。これでいい、とどこかで傷つく自分を宥める声がする。
「――――っ!!」
しかし、その手は直ぐにまた伸びてきた。
強張った、自分の頬に。
「…やっぱり……先生、なんだ……」
零れるように呟かれた言葉に、悲壮な気配は一切無い。
ただ、歪んだ笑みを浮かべた瞳からは次から次へと透明な涙が零れ落ちていた。
引き剥がす事も出来なかった。
その手に触れてしまえば自分はどんな行動を取ってしまうか分からなかった。
あの夜から一日たりとも忘れた事の無い体温を、再び確認してしまうのが怖かった。
しかし、そんな自分の不安など知るはずも無い彼女は、自分の頬に手を触れさせたまま
何かを切望するかのような瞳で私を見つめていた。
「……先生、………私に触れて……、声を聞かせて……
…………もっと、もっと知りたいんです…」
――――貴方の事が。
あの夜を思い起こさせるようなその言葉。
それを呟く意味を、見つけてしまった自分の声は知らず擦れていた。
「……………君の、為にならない」
それは、以前交わした言葉と同じだった。
ただ、返って来る言葉はあの時と違い、もっと確りとした意思の篭った物。
「それでも、構わない………」
伸ばした手の平は、その涙を拭うためのものか。
それとも彼女を突き放す為のものか。
物語の結末を知る者はきっと――――