また彼女との生活が帰ってきた。
以前と同じように食事を自分の手から食べさせ、タイミングを見計らって化粧室へと誘導する。
しかし、入浴の補助は彼女自ら辞退してきた。
何でも、医務室では自分一人で入っていたようで、もう大丈夫だと断られた。
私は少し過保護過ぎるのかも知れない。そうは思っても心配なものは心配だった。
『な・に・か・あ・っ・た・ら・す・ぐ・に・よ・ん・で・く・だ・さ・い』
彼女の態度から考えてみても、少し距離を置いた方が良いのだろう。
しかし、気付けば手を貸してやりたい自分が居る。本当に救いようがない。
しっかりとパジャマも着込んで戻ってきた彼女の肩に掛かっていたバスタオルで
そっと髪を濡らす水分をふき取る。せめてこのくらいのことだったら手を貸しても許されるだろうか。
大人しく拭かれながら小さくお礼の言葉を口にする彼女の頭をそっと撫でた。
変化は直ぐにやってきた。
彼女と部屋に戻ってきてから再び二日。
「あ、れ…?」
私が椅子から立ち上がった時に彼女が不思議そうに声を上げたのだ。
怪訝に感じつつも、何かあったのだろうかと直ぐに近くに寄って手の平を取る。
『ど・う・し・ま・し・た・か・?』
「今、音が聞こえたような…」
「っ……」
声を、出してしまいそうになった。
予期せぬその言葉。
心のどこかで来なければいいと思っていた、この瞬間――
震える指をどうにか動かして、また言葉を綴る。
『ほ・ん・と・う・に・?』
答えを聞く前に彼女の手の平から離した手で一度、手を打った。
パン、と軽い破裂音がシンとした部屋の中に響き渡る。
その途端――
「聞こえました!」
彼女の興奮した声が自分の耳に盛大に届いた。
「手を叩いたんですよね? 耳が聞こえるようになってる!」
聴力が戻ってきたことを素直に喜ぶ彼女とは裏腹に、自分は暗く淀んだ中に沈んでいくような気分だった。
喜ばなければいけない状況なのに、それを出来ない。
嬉しそうにはしゃいで微笑む彼女は
もう直ぐ世話係である男を必要としなくなり、その男――つまりは私の下から去っていく。
それが本来の、自分達の、あるべき姿であるはずなのに――
聞こえるとわかって直、声を発しようとしない私に気付いた彼女が
次第に不審気に表情を歪ませる。
「……どうして喋ってくれないんですか? 折角聞こえるようになったのに…」
不安にしているのは分かっていた。
けれど、しかし私の正体を端から知って欲しいなどと思うわけが無い。
徐々に表情が翳っていく彼女の手をそっと掴んで、またそこにゆっくりと文字を書く。
私が彼女に触れる意味さえ、もう直ぐ失われる。
『わ・た・し・の・こ・と・は・し・ら・な・い・ほ・う・が・い・い』
彼女の、息を飲む声が聞こえた。
「……どうして、ですか?」
『ど・う・し・て・も』
こんな物、不毛な言い合いだ。
『そ・れ・が・あ・な・た・の・た・め・で・す』
突き放すようなその言葉。
強張っていた顔の中で、必死に縋るように見開かれていた瞳が左右にぶれていた。
今すぐにでも零れ落ちるのではないかと言うほどに涙の膜がはった瞳は痛ましげだった。
「…そんなの…分かんないですよ……」
だだを捏ねるように言葉を紡ぐ彼女に、しかしそれ以上自分が何かを言うことなど無理だった。
彼女の聴力の回復。次は嗅覚か視覚か。
そんなことばかり考えている内に、次第に彼女と同じ空間にいることが苦痛になった。
何時自分が彼女の前で不用意に声を発してしまうのか。
何時彼女が何気なく向けた視線の先で自分の姿を見つけてしまうのか。
何時この部屋の中に漂う薬草の香りに気付いてここが『誰』の部屋か察してしまうのか。
何もかもが、恐怖でしかなかった。
それでも未だに目も鼻も効かない彼女の世話を放棄するわけにもいかず
私はせめてもの防御策として彼女の瞳に目隠しをする事を考えた。
これは、彼女が今まで使えなかった視力を取り戻して直後、急に戻った明るい光に
目を傷めないためでもあったし、勿論、自分の姿を見せないためでもあった。
寧ろ後者の意味合いの方がはるかに強い。
彼女は、そんな私の行動の真意を正しく言い当ててきた。
「………そんなに、見られたく、ないんですか?」
それは縋るような声でもあったし、どこか責めるようなそれでもあった。
何も言えず、罪悪感を誤魔化すようにただ手の平に謝罪の言葉を綴る。
「……私、貴方の顔が見たいです…声が、聞きたいです……」
ぎゅ、と握られた手の平。
決して強い力ではないのに振り払うことも出来ない。
「もっと……知りたいんです、貴方の事が…」
懇願するような切ない声が
一言一言、大切そうに紡がれるのを目を離すことも出来ずにただ見つめていた。
――そんなのまるで、告白のようではないか。
勘違いするな、と自分を罵倒する声が響く。
拘束されていなかった方の手で、思わず口元を押さえた。
――彼女は一体、何を言っている。
「……やっぱり、だめ、ですよね…」
震える声。無理に笑おうと歪む顔。
こんなこと、止めなくてはいけない。そうしなければ…
それでももう、動き出した自分の行動を止められなかった。
この胸の中で暴れ狂う激情を、消化する術を知らない。
けれど、どうしたって終わらせねばならない。そうしなければ……
「…ごめんなさい、変な事言っ――」
けれどこの唇は、気付けば
自身を責めるような言葉を紡ぐ彼女の小振りなそれを、言葉を止めるために塞いでいた。
それは本当に一瞬で終わった接触に過ぎない、拙すぎる愛撫だった。
「…君の為にならない」
小さなリップ音を立てて直ぐに離れた唇。
細い二の腕に触れ、身体を硬直させた彼女の肩に額を寄せるようにして
気付かれぬよう、そっと吐息だけで耳元で呟けば、身体を震わせながらも彼女がその真意を問うてきた。
何故キスをしたのか、と、そう切なく問う声が愛しい感情をもっと増幅させる。
今何かを口にすれば、確実に自分は彼女を壊してしまうと思った。
ただでさえ止まらないこの感情に、拍車をかけたくなかった。
キスだけで、終わらせようと一瞬にして卑怯なことを考えていた自分。
そうしたらもう後は全てを忘れて彼女を手放そうと……なのに。
そっと触れた小さな手の平――
駄目だ、いけない……制止する声がする。
しかし、愛しそうに自分の頬に置かれた小さな手は、確かめるように皮膚を滑る。
頼りなく細い指先の感覚は自分をどんどんとそんな思考からは遠い所へ連れて行こうとする。
滑り降りた指先が、自分の唇に辿り着き形を確かめるように何度か往復した。
彼女のそんな動作に息苦しくなる。
それなのに、あろうことか彼女はその唇で
必死に乱れそうになる呼吸を何とか正常に保とうとする自分のそれすら塞いで、何度も何度も啄ばんで来る。
どれくらいの間、そうしていただろうか。
ほんの数秒だったかも知れないし、数分だったかも知れない。
僅かに唇が瞬間、彼女が上がる時の合間にそっと口を開く。
「もっと…触ってください…声を、聞かせてくれなくてもいいです…もっと……」
情熱的な言葉。未だ少女の域を出なくとも『女』であるのだと、実感させられた。
いつの間にか下ろしていた手の平を手探りで取られ、彼女に促されるままにその頬に触れていた。
する、と子猫のように擦り寄るその仕草が愛おしく、自然ともう片方の腕で彼女を閉じ込めるように抱き寄せていた。
あぁ、何て……
言葉が続かなかった。とうとう自分の中の思いを誤魔化すことが出来なくなる。
この衝動を正当化させるためにそっと、目を閉じた。
精錬された大人の女とはまた違う滑らかな肌。
未完成の芸術品の危うさ、この手にかかりそれは完成へと導かれるのだろうか。
そんな取り留めの無いことを考えながら、徐々に赤みを帯びていく若い身体に指を滑らせた。
素直すぎる反応が返るたびに歓喜する心を抑えることなど無理に近く、どこかで
いけないと嗜める声と、望みのままに奪ってしまえと囁く悪魔の声が何時までも鬩ぎあっていた。
でもそれも全て、彼女の唇から零れる甘い声に掻き消され――
私は、その夢に溺れた。