前のように彼に食事を食べさせてもらって、トイレに連れて行ってもらって。でも、風呂だけは自分で入ると主張した。医務室にいる時だって自分で洗っていたから、大分慣れていた。
『な・に・か・あ・っ・た・ら・す・ぐ・に・よ・ん・で・く・だ・さ・い』
そう言ってもらえたけど、結局、今回は何の問題もなく身体を洗う事が出来た。風呂に出てパジャマを着て部屋に戻ると、彼が髪を乾かしてくれた。良く出来ました、とでも言うように頭を撫でてくれた手が、何だか温かく感じた。
彼がもう一度私を引き受けてくれてから2日後、少しだけ変化があった。私の耳が聞こえるようになったのだ。それは突然で、彼が立ち上がる時に衣擦れの音が聞こえた事で気付いた。
「あ、れ……?」
彼がやって来てすぐに私の掌に指を滑らせた。
『ど・う・し・ま・し・た・か・?』
「今、音が聞こえたような……」
彼が小さく息を呑んだのが分かった。
『ほ・ん・と・う・に・?』
彼が手を叩いたのか、パン、という音が鼓膜を震わせた。たった数日間でも一切の音が消えていたからか、その音はやけに大きく響いて頭が少しだけ痛くなった。けれど、音が聞こえるようになったという喜びの方が大きくて気にならなかった。
「聞こえました! 手を叩いたんですよね? 耳が聞こえるようになってる!」
彼の声が聞ける――そう思ったら余計に嬉しくなった。でも、彼は決して話そうとはしなかった。漸く耳が聞こえるようになったのに、相変わらず私の掌に指を滑らせて話しかけてきた。
「あの……どうして喋ってくれないんですか? 折角聞こえるようになったのに……」
この人が誰だか知りたいのに。声が聞きたいのに。けれど、彼は決して話そうとはしなかった。
『わ・た・し・の・こ・と・は・し・ら・な・い・ほ・う・が・い・い』
「………どうして、ですか?」
自分の声が暗く沈んでいる事が嫌と言う程分かる。耳が聞こえないままだったとしても分かったはずだ。
『ど・う・し・て・も』
彼は、まるで聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるように続けた。
『そ・れ・が・あ・な・た・の・た・め・で・す』
けれど、それは私にとってはとても残酷な言葉で、まるで「これ以上君と関わるつもりはない」と言われたような気分だった。
「……そんなの……分かんないですよ……」
そう呟いた私の声が泣きそうに震えている事だって、私の目に涙が溜まっている事だって、彼は気付いていたはずなのに、それでも彼はそれ以上何も言ってはくれなかった。
その日から、彼は私と同じ部屋にいる事を避けるようになった。まるで、私の目が見えるようになる事を恐れるように。自分の姿が見られる事を恐れるように。私は彼が見たくて仕方が無いのに。彼の声が聞きたくて仕方が無いのに。
彼は私に目隠しをするようになった。食事を食べさせる時や、同じ部屋にいる時。私に姿を見られないようにする為に、私の目を隠して自分を隠し続けた。
「………そんなに、見られたく、ないんですか?」
目隠しをされながら彼に問いかけた。縋り付くような、どこか責めるような響きになってしまったのは仕方無い。きっと、彼は私の気持ちに気付いている。けれど、彼は何も言わない。私に目隠しをし終えると、ただ一言「ごめんなさい」と掌に指を滑らせた。
「……私、貴方の顔が見たいです……声が、聞きたいです……」
この手にもっと触れて欲しい。たまに頭を撫でてもらうだけじゃ足りない。彼の声が聞きたい。私の名前を呼んで欲しい。
「もっと……知りたいんです、貴方の事が……」
まるで告白だ、と少しだけ恥ずかしさを覚えた。それでも、彼は何も言ってはくれなかった。何か言ってくれるのではないか、もしかしたら、応えてくれるのではないか。限りなくゼロに等しい可能性に縋り付いて彼の返事を待ったけれど、やはり彼は何も言ってはくれなかった。唇が震えて、涙がこみ上げた。鼻の奥がツンとして、それでも泣くまいと飲み込んで何とか口端を吊り上げた。
「………やっぱり、だめ、ですよね……ごめんなさい、変な事言っ――」
私の言葉を遮るように何かが唇に触れた。それは指より柔らかくて、でも少しだけカサカサしてて。それが何なのかと考えて思い至った『それ』は彼から与えられるはずの無いもので。吃驚して何も言えない私の耳に、彼の唇が寄せられた。音を立てて口付けられて全身が震えた。
「………君の為にならない」
吐息だけで囁かれた。くすぐったさに身体が震えて、でも、彼の声がどんな声なのかは分からなかった。何となく聞き覚えがあるようにも思えたけど、全く知らない声にも思えた。
「じゃあ……じゃあ……何で、今……」
彼は答えてはくれなかった。躊躇いながら手を伸ばしてそっと頬に触れると、彼がピクリと反応した。彼の輪郭に沿って手を這わせて辿り着いた薄い唇をなぞって、そっと自分の唇を寄せた。やっぱり少しだけカサカサしていた。気付いたら何度も何度も唇を重ねていた。キスなんて初めてなのに、自分からこんなにしてる事がおかしくて、恥ずかしくて、くすぐったかった。驚いているのか、彼は身動き一つしなかった。
「もっと……触ってください……声を、聞かせてくれなくてもいいです……もっと……」
彼の手を取って自分の頬に触れさせた。大きな掌に頬を摺り寄せて安堵の息を吐くと、もう片方の手が私を抱き寄せてくれた。相変わらず目隠しはされたままで彼の姿は見えないし、彼は声を出さないから声も聞こえない。それでも、その手の温もりだけは本物だった。
「もっと……触って、ください……」
全身を滑る彼の手が、彼の唇が、くすぐったくて気持ち良くて、何もかもが真っ白に溶けた。
翌日、目を覚ますとぼんやりと白い天井が見えた。何度も何度も瞬きをして、漸く自分の目が見えるようになったのだと実感した。寝てる間に医務室に運ばれていたらしい。彼らしき姿は何処にも無かった。
「おはようございます」
マダム・ポンフリーの姿を見つけて挨拶をすると、大して驚く様子もなくこちらにやって来た。
「見えるようになったみたいですね。匂いは分かりますか?」
言われて鼻をヒクヒクさせると、医務室特有の薬の臭いが鼻を刺激した。
「分かります……」
「じゃあ、もう大丈夫そうね。しっかり見えるのでしょう?」
指を2本立てられて、苦笑しながら頷いた。
「大丈夫です。少しだけ眩しい気もするけど……」
「ずっと暗闇だったからですよ、すぐに慣れます。じゃあ、朝食を食べて寮にお戻りなさい」
「あの……!」
朝食を取りに行こうとするマダム・ポンフリーを呼び止めた。思いの外大きくなってしまった声にマダム・ポンフリーが訝しげな顔で振り返った。
「何かしら?」
「あの……その……見えなくなってる間、私の面倒を見てくれてた人に……その……お礼を言いたくて……」
一瞬、マダム・ポンフリーが目を丸くした。それから、何も無かったかのように歩き出した。てっきり教えてくれると思っていた私は、ポカンとしてマダム・ポンフリーの背中が離れていくのを見つめる事しか出来なかった。
「――彼は貴方に何も知って欲しくないみたいですよ」
「………どうして、ですか?」
尋ねた声は掠れていた。
「さぁ……私には分からないけれど」
朝食を運んで来たマダム・ポンフリーにぎこちなくお礼を言って無理矢理詰め込むと、さっさと出て行けと言わんばかりに医務室を追い出された。
寮に戻ると、皆が笑顔で迎えてくれた。目が見えるようになったのは嬉しい。耳も聞こえるし、匂いも分かる。元に戻ったのは凄く嬉しい――けれど、とても寂しかった。悲しかった。
「………はぁ」
思い出すのは、彼の事ばかり。昨夜の事を思い出して顔が熱くなったけれど、その彼が私から逃げてるのだと思うと、こんなに彼を想ってる自分が虚しくなった。
「……忘れなきゃ」
この先もきっと、彼は私の前に現れてはくれないだろう。一秒でも早く忘れてしまった方が良い。ずっと苦しいのは嫌だ。男なんて他にも沢山いるんだから、さっさと忘れるに限る。
そう思うのに、気が付いたら彼の事を思い出してしまう自分が嫌になる。
元の生活に戻って数日が経った。
忘れようと思えば思う程、彼の事を考えるのを止められないでいた。ぎこちなく頭を撫でてくれた大きな手、何処へ行く時も寄り添ってくれた逞しい腕。少しだけカサついた頬、肉の薄い唇、零れる吐息。目を閉じれば鮮明に思い出す事が出来た。
変化はもう一つだけあった。
視覚も聴覚も嗅覚も封じられていた反動なのか、昔より敏感になっていた。マダム・ポンフリーは一過性のものだろうと言っていたけれど、太陽はいつも以上に眩しいし、友達や廊下ですれ違った生徒達の香水やらクィディッチ選手達の体臭やらは特にきつかった。必然的に友達と距離を取って図書館や中庭で一人でいる事が多くなった。けど、一人になれば余計に考えるのは彼の事ばかりだった。悪循環だと知りながらも、どうする事も出来ないジレンマに溜息を零す事は少なくなかった。
自分の髪から僅かに香った香りで、彼のバスルームで使っていたシャンプーの匂いも分かったけれど、銘柄なんて分からないから彼を探す手がかりになんてならなかった。彼と同じ匂いなんだと思うと嬉しかったけれど、それも夜になって風呂に入ってしまえば呆気なく掻き消えてしまった。
彼は何処の誰だったのだろう?魔法省の人?それとも生徒なのだろうか?男子の手なんて触れた事がないから、彼とどう違うのかなんて分からない。彼は大人だと思っていたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。
所詮、その程度なのだ。私が知っている事なんて、ゼロに等しい。けれど、一縷の望みを抱いて通りすがりの男子生徒達の手を盗み見るようになった。あの手はどうなのだろう?あっちの手は?触れてみない事には分からないけれど、まさか「手を握らせてください」なんて言えないから盗み見るしかない。
魔法薬学の授業さえも、私の意識を彼から引き離す事は出来なかった。事故が起きたのは授業中だったのだから、本当ならもっと真面目に取り組まなければならないと分かっている。けれど、心の何処かで事故が起こる事を望んでいた。
もし、もう一度あの状態になれば――そうしたら、また彼に会えるだろうか?
その考えを捨てる事が出来ないまま調合を始め、私の思考は彼との数日間へと引っ張られていった。
「Miss.カトレット。一度事故を起こしたのだから、真面目に取り組もうとは思わないのかね?」
私の意識はスネイプ先生によってすぐに引き戻された。まるで、常に見張られているかのように、私が少しでも彼との想い出に浸ろうとするとやって来ては嫌味を言う。確かに、先生からしたら事故が起こるのはご免被りたい事なのだろう。けれど、私にとっては大事な事で。
「………すみません」
「――グリフィンドール10点減点。あのような無様な目に遭いたくないのなら、もっと真面目に取り組みたまえ」
あのような無様な目に遭いたいのです、って言ったら先生は私から何点減点するのだろうか?
スネイプ先生は知っているだろうか?私の面倒を見てくれていた彼の正体を。
尋ねる事など出来ず、先生が遠ざかると同時にこっそり溜息を零した。
無常にも時は流れ、あっという間にクリスマス休暇になった。生徒達の殆どが家に帰って行ったけれど、私は帰らずに城に残っていた。彼と過ごしたこの城から離れたくなかった。ほんの少しでも、彼との繋がりを持っていたかった。友人達も皆ホグワーツを去り、私はぼんやりと静かな城の中を歩いていた。彼の事を思い出す事が習慣となっていて、けれどそれは彼の事を知りたいからという訳ではなく、彼の事を少しも忘れないようにする為だった。
いつか、彼の事を忘れてしまう日が来る事が怖かった。彼の優しい手も、唇も、吐息も、何もかも、忘れたくなかった。少しずつ忘れてしまう事が怖かった。彼はきっと、この先も一生私の前には現れてくれないのだろう。ただ、私の事を忘れて生きていくに違いない。そう確信があった。
だからこそ、彼との日々を思い出し続けた。忘れる事がこんなに怖い事だなんて知らなかった。数分後には忘れ始めてしまうのではないかと時が経つ事を恐れていた。
彼との日々を鮮明に思い出しながら城の中を歩き続けた。まるで、何処にもいない彼を探すかのように。彼の姿なんて分からないのに。彼の声なんて分からないのに。触れた頬と唇の感触、私を抱きしめてくれたあの腕、何度も触れてくれたあの手。それは相手に触れなければ分からない事なのに。すれ違っただけで彼に気付く事なんか出来る訳がないのに。
未練がましく、私は歩き続けていた。この城の中に、今現在、一体何人の男子生徒が残っているというのだろうか?彼がその中にいる確率なんて5パーセントもある訳が無いというのに。
ふと、顔を上げると向こう側からスネイプ先生が歩いて来るのが見えた。元の生活に戻ってから、彼がスネイプ先生かもしれないと考えた事はあった。けれど、その考えは一瞬で打ち消した。いくら何でも、それは有り得ない。だって、スネイプ先生はスリザリンの寮監で、私はグリフィンドール生だ。大嫌いな寮の生徒の世話なんて彼はやらない。それに、もしダンブルドア先生に命じられて渋々と世話をしたとしても、まさかあんな展開にはならないだろう。
彼は違う。過去と同じ結論を出して小さく溜息を零した。ただ歩いているだけで何かと文句をつけて減点する人だ、何か言われる前に挨拶をしてさっさと通り過ぎてしまおう。そう考えて、先生に向かって口を開いた。
「こんにちは、スネイプ先生」
「あぁ……」
何処か歯切れの悪い返事だった。よく見れば、あまり顔色が良くないようだ。普段、スネイプ先生の顔なんてまじまじと見る機会がないから確証は持てないのだけれど。あまりじろじろ見ていては減点されるかもしれない。小さく頭を下げて先生の横を通り過ぎようとして、そこで私の身体は硬直した。
咄嗟に、去ろうとする先生のローブを引っ張った。正面を向いたまま、無意識に身体が先生を引き止めていた。
「………何かね、Miss.カトレット」
「この匂い、知ってる……」
この香りは――この、シャンプーの香りは……
まさか、という言葉が頭の中を埋め尽くしていく。スネイプ先生が?まさか、本当に?この人が?
「それが? 申し訳無いが、私は仕事がある。用が無いのなら放してくれたまえ」
「っ……待って、待ってください………!」
歩き出そうとする先生のローブを更に強く掴んで慌てて振り返った。先生の横顔からは何も読めなかった。この人が『彼』なの?本当に?どうして?疑問符ばかりが浮かんだけれど、先生を見つめているうちに段々とそれが消えていくのが分かった。あぁ、この人なんだ、と、根拠が無いのにこの人以外に有り得ないとさえ思えてきた。この人が『彼』だ。けど、けど――どうして?
先生は決して私を見ようとはしなかった。
「放しなさい」
冷たく突き放すような声に身体が震えた。咄嗟に先生のローブを放して、けど、諦めるつもりなんてなかった。漸く彼に会えた。彼が今、私の目の前にいる。たとえスネイプ先生だろうと誰だろうと、今の私に怖いものなんて無かった。
「――っ、」
そっと先生の頬に手を伸ばした。驚き息を詰めた先生の表情と、頬の感触に自然と涙が溢れた。
「……やっぱり………先生、なんだ……」
彼に会えた。やっと、彼に会えた。欲しくて欲しくて堪らなかった感触が、会いたくて会いたくて堪らなかった彼が今、目の前にいる。何でもっと早くに気付かなかったのだろう?何で、あんなに簡単に違うと思い込めたのだろう?今思えば、この人以外にいるはずが無かったのに。
「……先生、……私に触れて……、声を聞かせて…………もっと、もっと知りたいんです……」
――貴方の事が。
「…………君の、為にならない」
掠れた声で紡ぎ出された言葉は、紛れもなく彼のものだった。同時に、先生が何で私に何も言ってくれなかったを理解した。この人はスネイプ先生で、スリザリンの寮監で、私はグリフィンドール生で、本当なら互いに想い合ってはいけなかった。この人は、私の為を想って何も言わずに離れてくれたんだ。
でも、それでも――
「それでも、構わない……」
貴方がいればそれで良い。貴方が触れてくれるなら、何だって構わない。怖いものなんて、何も無い。
先生の手がゆっくりと私に向かって伸びてくる。その手は、次の瞬間には私を地獄に突き落とすかもしれない。
けれど、私は確かな確信を持って、目を閉じた。