ハリーがリサと付き添い姿くらましをした直後、隠れ穴は静まり返っていた。
未だ状況が呑み込めていない二番目の兄チャーリーや、ジョージがロンやアーサーにどういう事なのかと問いかけている。事情を知っていたのは魔法省で務めるパーシーとロン、ハーマイオニーとハリーから話を聞いていたジニーだけだ。
「リサが匿っていたんだ」
「スネイプを? どうしてリサが?」
「さぁ、それは分からないが……どうやら、あの子はスネイプを想っているらしい」
「狂ったかと思ったよ」
ロンが口を挟み、ハーマイオニーがそんな恋人の脇腹を打つ。ジニーがくすくす笑った。
リサがスネイプを助け、魔法界を去りたいと願ったスネイプを家に匿った。二人がどんな生活をしていたのかは誰も知らず、けれどその間に二人が互いに心の距離を寄せ合った事は事実だ。
「まさか! あのスネイプが?」
「ジョージ、そのまさかよ。彼はリサが罰を受けないようにする為に、あの子の記憶を消して魔法省の監視下に身を置いたの」
「それ、どのスネイプの話?」
「もちろん、貴方も私も知っている”あの”セブルス・スネイプよ」
「俺の耳を削ぎ落した?」
顔の横の、鼓膜へ続く穴があるだけの耳を指してジョージが言う。音波を集める役割を果たす耳介がなくなってしまった所為でこちらの聞こえが悪くなってしまったらしいが、本人は大して気にしていないという事をハーマイオニー達も知っている。彼は昔から悪戯とジョークが大好きなのだ。
だからこそ、ハーマイオニーはさして何も言うことなく頷く。
「えぇ、そのスネイプよ」
「信じられないな……」
次に呟いたのはチャーリー・ウィーズリーだった。彼も学生時代スネイプに魔法薬学を教わった教え子の一人だが、その頃の記憶と照らし合わせてもハーマイオニーの語るスネイプとは違いすぎる。混乱するなという方が無理な話だとハーマイオニーも思った。何しろ、ハーマイオニーでさえ驚きを隠せなかった。あの日、リサの家で二人の様子を見なければ今でも信じられないままだっただろう。
「アーサー、これからどうするの?」
僅かに不安を滲ませながらモリーが問いかけた。当然だ。夫や息子の人生がかかっているのだから。リサの事はもちろん息子の友人として大事に思っているけれど、だからと言って彼女の行動を諸手を挙げて賛成出来るはずもない。リサとスネイプには幸せになって欲しいと思うけれど、自分の家族の幸せだって願っているのだから。
「大丈夫だよモリー。私はこれからキングズリーの所へ行ってくる」
「ハーマイオニー、僕らはどうする?」
「もちろん行くわ。親友の恋の行方をちゃんと見届けたいもの」
モリーの頬にキスをして家を出て行くアーサーを見送り、ハーマイオニーとロンは立ち上がった。
「私も一緒に行くわ。ハリーがそこにいるんだもの」
「じゃあ俺も行こうかな。滅多にお目にかかれないスネイプを見物しなくちゃ」
「まぁ、ジョージ! 貴方、二人を揶揄う事だけは止めてちょうだいね」
鋭い視線を向けるハーマイオニーに分かっていると大きく頷くジョージ。本当に分かっているのか心配ではあるが、早く行かなければ。心配を隠しきれないモリーと、そんなモリーを宥めるように肩を抱くチャーリー、パーシーにそれぞれ挨拶をして、ハーマイオニー達は姿くらましをした。
ハーマイオニー、ロン、ジニー、ジョージの四人がスネイプの家の前に姿現しをした時、辺りは煙幕に覆われていて何も見えなかった。思わず咳き込み、慌てて杖を振って煙を吹き飛ばす。徐々に晴れていく煙の向こうにダリルに杖を突きつけるリサの姿が見えた。
「リサ……!」
「ハーマイオニー、これやばくない?」
「やばいわよ……だって、あんな事……」
まさか実力行使でスネイプを取り返そうとしているとは夢にも思わなかった。ダリルに杖を突きつけるリサの向こうに呆然と立ち尽くすハリー、スネイプ、おそらく監視役であろう役人の姿がある。
ダリルに杖を突きつけたまま、リサがハリー達の方へ視線を向けた。
「あの人は、生命を懸けてハリーを護った。魔法界を救った。死ななきゃ罪が償えないって言うのなら、もう良いでしょう。あの人は一度は死んだんだもの、これからは幸せになる為に生きるの」
強い意志を宿すその声にダリルが顔を歪める。遺族が赦さない――自分が赦さないと吐き捨てるそれに、けれどリサはあっさりと頷いた。勝手にすればいい。スネイプだってそうしたのだからと。
自分のおかげでスネイプが生きているのだと、リサは恩を売るかのように言い放つ。感謝をしろと、自分の要求を受け入れろと――あいつ、性格変わってない? 隣でロンが呟いたのが聞こえた。
「セブルス・スネイプの生命は私が繋いだ。あの人は私が拾ったの。私のものよ! 勝手に奪おうとしないで!」
誰もが言葉を失った。よくもまぁ、スネイプを前にしてそんな事が言えたものだ。
親友の変化を喜んで良いのか分からない。自分の気持ちに素直になる事は良い事だと思うが、スネイプ相手にそれは有りなのだろうか? リサほどにセブルス・スネイプという人間を知らないハーマイオニーには見当もつかない。
予想外の台詞に呆気に取られるダリルから顔を逸らし、リサがまたスネイプを振り返る。呆然とするスネイプにも強気な発言のリサは、ロンの言う通り性格が変わってしまったように思えた。そうさせたのがスネイプなのだとしたら――やはり分からない。喜んで良いのだろうか?
悩みながらも彼らから目が話せずにいるハーマイオニーの視線の先で、リサは幾らか和らいだ声でスネイプに言った。
「私の幸せは貴方の所にあるので、私を幸せにする為に傍にいてください。私を幸せにする過程で貴方がうっかり幸せを感じたりなんかしちゃっても、それは不可抗力です」
何だこいつ。そんな目をするダリルをじとりと睨み、文句があるのかとリサが強気に問いかける。答えないダリルに鼻を鳴らす様はまるでスネイプのようだとさえ思った。
杖を下ろして、スネイプに近寄って。あろうことかリサがスネイプの頬を叩いた。息を呑んだのはハーマイオニーだけではない。
文句は聞かない。むしろ言いたいのは自分だと訴えて。
スネイプが顔を歪めたのが見えた。何を考えているのかハーマイオニーには見当もつかないけれど、それでも迷っている事だけは分かった。
「…………分からないのか?」
自分に嘘をつくなと。今までは嘘をつかずに生きてきたのに、どうして今更リサの為に嘘をつくのかと。
そう訴えるリサにスネイプが返した小さな問いかけ。
スネイプがどれほど一人で思い悩み続けてきたのか――ハーマイオニーは漸くその片鱗を見たような気がした。本音を隠して周りを欺き続けてきたスネイプが、初めて見せた本物。
ハーマイオニーは無意識にロンの手を掴んでいた。鼻の奥がツンとする。
自分よりも大きな手がそっと握り返してくれて、涙が滲んだ。
「良かった……」
心のままにリサに手を伸ばしたスネイプを見つめながら、ハーマイオニーは知らず呟いていた。強く掻き抱くスネイプの腕の中でリサが声を上げて泣き出してからは、つられたようにハーマイオニーも泣いてしまった。ロンの腕の中に飛び込むと「どうして君が泣くんだよ」とロンが笑う。その声が涙混じりであった事に気付いたが、ハーマイオニーは何も言えずただただ泣いた。
「これは……どうしたものかな」
穏やかな声が夜闇に広がった。聞く者を安心させる声の持ち主はスネイプの腕の中で泣きじゃくるリサを見て、放すまいとリサを強く抱きしめるスネイプを見て、それからロンに抱きついて泣きじゃくるハーマイオニーを見て苦笑を漏らした。傍らに立つロンの父も安堵した様子で微笑んでいる。
「リサの記憶が戻ったと聞いたが……」
「は、はなで、まぜんからっ」
涙声で訴えたリサがスネイプに強くしがみつく。キングズリーが苦笑を漏らしたのをハーマイオニーは見た。鼻を啜りながらロンから離れ、ハンカチで涙を拭う。
「アーサーから話は聞いた。ダリル……」
キングズリーがそっと呼びかけると、拳を握りしめ俯いたままダリルがこちらへやって来た。抱き合う二人の姿を見て思うところがあったのか、難しい顔をするダリルの肩に手を置いてキングズリーは微笑む。
「君の意見が聞きたい」
「…………私は、貴方のような権限は持たない一警察官です。上の決定に従います」
「ダリル。私は君の意見が聞きたいんだ。警察官としての君ではなく、ダリル・バーベッジの意見がね」
穏やかな声には有無を言わさない響きがあった。
難しい顔をしていたダリルが、その表情を不満たっぷりなものに変えてキングズリーから顔を背ける。
「嫌いですよ。私は奴が大嫌いだ」
吐き捨ててダリルがスネイプとリサを振り返る。リサが顰め面でダリルを見る横で、スネイプが無表情のままダリルを見ていた。無感動なそれはセブルス・スネイプに感情というものが存在していないからだと思っていた。見殺しにした相手の事など歯牙にもかけない男だと、そういう冷徹な人間だと思いたかった。
けれど、先ほどのスネイプを見てしまえばもうそんな事を思う事は出来ない。目を背けようとしていた罪悪感がじわじわと侵食するのを感じながら、ダリルは舌打ちを漏らす。
赦せない。赦せるはずがない。ダリルは正面からスネイプを睨めつけて吐き捨てた。
「大嫌いだ。貴様の所為で母が死んだ。事実は変わらない。嫌いだ、憎いとさえ思っている」
相変わらず表情を変えないスネイプを睨み付けて。
ダリルはちらりと隣に立つリサへ目を向けた。じとりとこちらを睨むリサの言い分は先ほど嫌というほど聞かせて頂いたばかりだ。もちろん、その全てに納得する事など出来やしない。
赦せない。どうしたって赦せないのだ。ダリルにとって大切な肉親だったのだから。けれど。
「……彼女はお前の生命を救った。お前はその恩に報いるべきだ」
深く息を吸い込んで。吐いて。
ダリルは忌々しげにスネイプを睨んだ。赦せない。そんな思いを目一杯乗せて。
「その過程で”うっかり”幸せを感じてしまうのは…………残念ながら、我々にはどうする事も出来ない事だ」
噛みしめた奥歯の隙間から絞り出すようにして発したそれは、ダリルの本心だけれど本心ではない。
憎い。殺してやりたい程に憎い。けれど、自覚もしているのだ。リサに本心を言い当てられて動揺してしまった事を。
自分の手で助けてやりたかった。助けられなかった――自分の弱さを指摘されてしまったダリルには、悔しいが他に言える事などもう何もない。
「ダリル!」
顰め面から一転。感極まった様子でリサがダリルに抱きついた。
「ありがとう!」
「離れろ! 今すぐにだ!!」
まさか抱きつかれて礼を言われるとは夢にも思わず硬直するダリルと、これまた無表情から一転、これ以上ないくらい顔を歪めて叫ぶスネイプ。
最初に吹き出したのはジョージだった。次いでロンが、ジニーが。アーサーとキングズリーも笑い出し、ハーマイオニーも声を上げて笑った。ハリーまでもが笑い出す中で、スネイプがダリルから引き剥がしたリサを腕に閉じ込める。
「先生! 良かった! 一緒にいられますよ!」
「煩い馬鹿者! 誰彼構わず抱きつく奴があるか!!」
スネイプの怒声などお構いなしにリサが嬉しそうにスネイプに抱きついた。狼狽えたのはスネイプの方で、見られている事に耐えられなくなったのか今度は自分からリサを遠ざけようとする。その必死さがまた笑いを誘う事には気づいていないらしい。
「良かった」
こちらにやって来たハリーが安堵しきった様子でジニーの肩を抱いた。お疲れ様と返しながらジニーがハリーの胸に頭を預けると、その額にハリーがキスをする。すっかり見慣れた光景だ。
「漸く一安心ね」
「うん……本当に良かった……」
傷付けてしまったからこそ、今こうして寄り添う二人を見て良かったと安堵する。
「いやぁ、いいものを見た。あんなスネイプ、一生かかってもお目にかかれないぜ」
ジョージが肩を震わせて笑いながらロンの肩に肘を乗せた。
「フレッドの奴、あっちで残念がってるだろうな。蝙蝠野郎のあんな姿見れなくて」
「蝙蝠野郎?」
顔を顰めたハーマイオニーにジョージが笑う。スネイプの渾名さと悪びれずに言ったジョージに、ハーマイオニー達は顰め面でリサに説教を続けているスネイプを見た。
「真っ黒なマントを翻して歩く姿が似てるだろ?」
「まぁ……言われてみれば、確かに……でも蝙蝠だなんて」
「こっち側かあっち側かも分からない、まさに蝙蝠みたいな奴だって話してたんだよ」
フレッドは残念だろうなぁ。笑いながらジョージが繰り返す。
「蝙蝠はこっちでもあっちでもなくて、リサについたわけだ」
騎士団側でも、死喰い人側でもなく、リサ個人に。
誰も予想し得ない結末だっただろう。賭けに負けたと笑うジョージからは悔しさは欠片も見つからない。
良かった。
本当に良かった。
しみじみと零し、笑い合い。ハーマイオニーは意を決してリサの元へ向かった。
「リサ!」
駆け寄れば振り返ったリサが満面の笑みで腕を広げる。躊躇う事なく飛び込めば、勢い余って二人の身体は後ろへと傾いだ。
同時に声を上げ目を閉じた二人だったが、いつまで経っても痛みは来ない。恐る恐る目を開ければ倒れ込んだリサを支えるスネイプの姿。ハーマイオニーは慌ててリサから離れて謝罪を口にした。
「す、すみません……」
「先生ありがとう」
「どうやら忠告は聞き入れてもらえないようですな」
「何言ってるんですか、女同士はノーカンでしょう?」
苛立ちを隠さず吐き捨てたスネイプにリサがさらりと返して。スネイプは嫌そうにリサを見てハーマイオニーを見た。
すぐに逸らされた視線はまたリサへ向き、赤みの残る鼻を抓む。
「ふがっ」
「酷い顔だ」
「誰の所為だと思ってるんですか!」
貴方が私の記憶を消すから! バカ! 先生のバカ!
不満を訴えるリサに、けれどスネイプは顔を背けて知らん振りをする。反省の見えない態度に怒ったリサがスネイプのマントの端を掴んでぐいぐいと引っ張った。
「放せ、伸びる」
「嫌です放しません。放してやりませんから観念してここにいてください」
ここに。リサの隣に。
難しい顔でリサを見下ろしたスネイプは、やがて観念したように僅かに表情を和らげた。
そんなスネイプにリサも微笑んで。ハーマイオニーはジョージの台詞を思い出して微笑んだ。
孤独に生きてきた蝙蝠は、長い年月を経て漸く留まるべき”居場所”を見つける事が出来たのだ。
「さぁ、そろそろ行くとしよう。調書を作らなければならないのでね。悪いが全員に同行してもらう事になる」
「何だって!?」
「少し話を聞くだけだ、ジョージ。協力してくれ」
嫌な顔をするジョージにキングズリーが穏やかに微笑む。せっかくのクリスマスなのにと呻くジョージにロンが笑っている。ハーマイオニーがロンの元へ戻って行くのを眺めながら、リサはこっそりスネイプに耳打ちをした。
「先生、一緒に逃げませんか?」
「まだ罪を重ねる気かね?」
呆れを含む声にリサは唇を尖らせた。何しろ腹ペコなのだ。隠れ穴でも酒を呑んだだけで殆ど食べていない。夢の中でスネイプの作るものを美味しいと感じたのだから、現実でだってそうに決まっている。リサは確信していた。
「このままだとお腹空きすぎて死んじゃいそうなんですよ。優しい貴方は大臣の命令よりも人命救助を優先してくれますよね? それで……拾ったらちゃんと最後まで面倒見てくださいね。途中で放り出しちゃダメですよ」
悪戯な笑みを浮かべるリサにスネイプは目を丸くして。やがて堪え切れずといった様子で笑い出した。
驚いたのはリサだけではない。全員が恐ろしいものを見るような顔でこちらを振り返ったが、そんな事気にも留めずにスネイプが一度だけ頷く。優しく見つめられてリサは破顔した。
「キングズリー、我々は明日の午後そちらに赴く事にしよう」
「すみませんが、今日はそちらの聴取をお願いします」
突然のスネイプとリサの申し出に、待ったをかけたのはハリーだ。
「困るよ! 今日中に終わらせないと、明日はジニーとデートの約束が……!」
訴えるハリーの表情は真剣だ。その隣でジニーがハリーをじっと睨んでいる。何としてでも二人を止めろという事なのだろう。恋人からの重圧を受けたハリーが慌ててこちらに向かって駆け出した。
けれど、これ以上時間を取られたくはない。スネイプもそう考えたのか、リサの肩を抱いて引き寄せた。
「ちょっ、スネイプ! リサ!」
叫びながら手を伸ばすハリー、眉を吊り上げるジニー。
ジョージが口笛を吹き、ロンとハーマイオニーが笑った。
キングズリーとアーサーが苦笑を漏らし、ダリルが不満の残る様子で鼻を鳴らす。
そして、蝙蝠は。
「悪いが、我々は逃亡させてもらう」
手に入れた”幸せ”をマントの内に閉じ込め、蝙蝠は二度目の逃亡を開始した。