スネイプだった。スネイプが”彼”だった。
どうして忘れていたんだろう。どうして忘れたままでいられたんだろう。
濁流のように一気に流れこんでくる記憶は夢に見たそれと同じだ。今度は鮮明に見える。黒いシルエットではない。”彼”の姿がよく見える。
こちらに杖を向けたスネイプの表情を思い浮かべてリサは唇を噛みしめた。スネイプが何故リサの記憶を消したのか、全て思い出したリサにはすぐに分かった。余りにも簡単すぎる理由に悔しさと苛立ちが募る。
「――ハリー、私を先生の所に連れて行って」
「リサ……君、もしかして記憶が……?」
困惑と動揺を隠せないハリーを見据えて頷きを一つ。
息を呑んだハリーもリサを見つめて、それから力なく首を振った。
「出来ないよ……君をスネイプに会わせるわけにはいかない」
「あの人が私を庇ってるから?」
弾かれたように顔を上げたハリーが悲しげに顔を歪めて俯く。小さな頷きは肯定。
ハリーは懺悔するように言った。それがスネイプの出した条件だったのだと。リサの記憶を戻さない代わりに、彼女の罪を不問にしろと。
「リサ……ごめん、僕は……」
「私は自分の意思であの人を連れて行ったの。それなのにあの人が私の罪まで背負うなんて間違ってる」
そんな事、赦してたまるか。自分の罪は自分で背負う。
スネイプを拾った時に覚悟したのだ。
「”拾うなら最後まで面倒を見なさい”――私はママの教えを守っただけよ。死にかけた人を助けるのは当然の事だわ。誰にも責められる謂れはない」
「リサ……」
「私があの人の事を誰かに話していれば、あの人は自分で生命を断っていた。私は間接的にあの人を殺す事になっていた。そうしていたら魔法省は私を逮捕したはずでしょう? セブルス・スネイプは魔法省にとって必要な存在だもの」
必要。そう、必要なのだ。魔法省にはスネイプを手元に置いておく必要があった。もっと言えば飼い慣らしておく必要があった。リサは体良く利用されただけだ。
「罪には罰を? ふざけないで。自分達を棚に上げて何言ってるんだか」
「リサ、落ち着いてくれ……」
ロンの父アーサーが宥めるようにリサの名を呼んだ。悲しげに眉を寄せる彼は事情を知っていたのだろうとすぐに分かる。
「私は落ち着いてるよ」
「君の記憶が戻った事は我々も嬉しい……本当に良かったと思ってる……だが、今はまだ時期が悪い……頼むから大人しくしていてくれ」
「時期? ねぇ、おじさん。こっちの事情なんて全部無視する魔法省の事情を、私が気にする必要なんてあるの?」
「リサ、頼むから――」
「逮捕したいならすればいい。私があの人を隠した事が重大な罪だって言うのなら、好きなだけ裁判にかければいい」
「リサ――」
「私は! あの人に会いたいの! 今すぐに!!」
言いたい事がたくさんある。勝手な事をしたスネイプへの文句も、伝えたい想いもあるのだ。
必死に言葉を探すアーサーが何度も口を開いては閉じるを繰り返す。やがて、諦めたように首を振った。
「――好きにしなさい」
「アーサー!」
ロンの母モリーが声を上げる。アーサーはモリーを振り返りもう一度首を振った。
「リサの言う通りだ……最初に間違えたのはこちらだ。彼女の言い分は正しい」
「それは……でも、」
魔法省で働く夫や息子達の事を心配しているのだろう。モリーは何度もアーサーとロン、パーシーを見た。けれどアーサーもロンも覚悟を決めているのだと悟ると、助けを求めてパーシーを見る。彼が二人を説得する事を望んだのだろう。だが、パーシーは何も言わずただ一度静かに頷いた。それはモリーに対する肯定ではない。
アーサーが宥めるようにモリーの肩を抱くのを見ながら、ロンが口を開いた。
「リサ、行って来いよ」
「良いの? 私の所為で大変な目に遭うかもしれないよ」
「君達の方がずっと大変な目に遭ってたじゃないか。それに、僕にだって言い分はあるよ。君はこのままだとここにいる全員に呪いをかけてでも行っちゃいそうだから、」
だから。言葉を切ったロンがハーマイオニーの肩を抱いてニヤリと笑う。
「恋人と家族を護る為に仕方なく見逃した――こんなのはどう?」
ぱちぱちと目を瞬いて。リサはロンの隣でくすくす笑うハーマイオニーを見た。目が合うとハーマイオニーはどこか照れたように笑い、頷いてくれる。
「――最高にかっこいい言い訳だね」
「言っておくけど、私達にまで内緒にしてた事は怒ってるんですからね。貴方が望めば、私はいくらでも黙っていたわ」
「うん……内緒にしててごめん」
「僕の所為だろう? 僕がスネイプに会いたいって言ってたから……」
俯きがちに呟くハリーにリサは目を伏せた。
ハリーが会いたいと願っていたから。スネイプがハリーに会う事を望んでいなかったから――確かにそれも理由の一つなのだろうと思う。けれど、スネイプへの想いを自覚してしまった以上、リサはもう一つ理由があった事を認めざるを得なかった。
「それもあるけど……きっと、それだけじゃないよ」
顔を上げたハリーが僅かに首を傾げてリサを見る。リサは照れ臭さに頬を掻きながら言った。
「たぶん、独り占めしたかったんだと思う」
ぽかんと揃って間抜け面をする親友達に声を上げて笑うと、堪え切れなかったのかハリー達も笑い出した。
「信じられない! そんな理由で隠してたって言うの!?」
「よりによってスネイプなんて、君、趣味悪いよ!」
笑いながら怒るハーマイオニーと、呆れたように笑うロンに笑い返して。リサは手を差し伸べるハリーを見た。
「一度でいいから、ちゃんと話がしたいって伝えておいてくれよ」
「話しかければちゃんと応えてくれるよ。背中向けてても聞いてくれてる。そういう人だから」
他愛ない話だってちゃんと聞いてくれていた。無視せずに答えてくれた。
相手が誰だろうと関係ない。セブルス・スネイプとはそういう人間だ。
目を丸くしてからくしゃりと笑ったハリーの手に自分の手を重ねて。リサはジニーを見た。
「ずっとごめんね」
「本当よ。でも、これでやっと私も安心出来るわ」
「何の話?」
首を傾げるハリーとロンにリサはジニーと顔を見合わせて笑う。わけ知り顔のハーマイオニーを見るに、気付いていたのだろう。それについても後で文句を言われそうだと苦笑を漏らし、リサはハリーに言った。
「それじゃ、お願いします」
「ばらけたらごめんね」
「ちょっ、そんな不安になるようなこと――」
リサの言葉はそこで途切れた。
ぐにゃりと視界が歪み、次の瞬間には見知らぬ家の前に立っていた。窓から覗く明かりが家の中に人がいる事を教えてくれる。
ここがスネイプの家なのかと見つめていると、この時間の監視を任されていた役人が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「ハリー! 何故こんな……彼女を連れて来るべきではなかった!」
「分かってます。でも……でも、ダリルと僕の正義は違う。感情に左右されて道を誤るのは悪いことだと思うけど、でも、感情を押し殺し続けたって誰も幸せにはならない。少なくとも、僕の親友と生命の恩人の幸せはない」
それは僕にとって耐え難い事だとハリーが続ける。役人は見るからに迷い、困り果てていた。
だが、二人の問答を聞いている暇などリサにはない。深呼吸を一つして戸のベルを鳴らすと、中から夢で聞き慣れた――そしてリサがずっと聞きたかった声が聞こえてきた。
「誰だ」
「私です、先生。リサ・桜井です」
返ってきたのは沈黙。やがて、動揺どころか感情すら篭もらない声が「帰れ」と吐き捨てた。
「いいえ、帰りません。一発ぶん殴ってやろうと思って来たんです。開けてください」
驚いたのはリサの背後にいたハリーと役人だ。
「リサ、何言ってんの!」
「ちょっと黙ってて」
声を上げるハリーにぴしゃりと返し、未だ開かない戸をノックする。
「先生、開けてください。全部思い出した私には貴方をぶん殴る権利があるはずです。何で勝手な事するんですか。私は貴方に庇われるつもりで貴方と一緒にいたわけじゃありません」
また沈黙。いっそ扉を吹き飛ばしてやろうかと考え始めたその時、漸く戸が開いた。
姿を現したスネイプの冷めた目がリサを見下ろす。リサは怯みそうになるのを必死に堪えてスネイプを見つめた。
「帰れ。今すぐにだ」
「嫌です」
「二度は言わん。Miss 桜井、今すぐにだ。でなければ――」
「減点ですか? 罰則ですか? それとも夕食抜きですか? 私としては三番目が一番堪えるんですが」
「生憎、君に振る舞う食事はない」
いつの間にか杖を手にしたスネイプがリサにぴたりとその先端を向ける。
「また、消すんですか。私の記憶を」
「互いの為だと思わんかね? 君は犯罪者として逮捕されずに済む。そして我輩は鬱陶しい君から解放される」
「無駄ですよ。貴方が何度そうしたって、私は何度だって貴方を思い出すもの」
スネイプが僅かに眉を寄せた。突きつけられた杖に怯むことなく、リサは一歩スネイプに向かって踏み出した。
「何度だって思い出して、何度だって貴方に会いに来ますよ。貴方が仰る通り、鬱陶しい奴なので」
顔を歪めるスネイプにもう一歩踏み出す。
杖先が額に触れた。チリリと微かに感じる痛みに顔を歪めると、スネイプが舌打ちと共に杖を下ろす。
「帰れ!」
決してこちらを見ないまま吐き捨てるスネイプに、けれどリサは従わない。従う理由がない。たとえスネイプが本気でそう願っていようと、素直に聞いてやるような優しさは持ち合わせていないのだ。
一歩、また一歩と近寄ると顔を背けたままのスネイプが同じだけ後退る。
「逃げないで」
「帰れ、ここにいるべきではない……」
「帰りません。私が帰る場所は貴方がいる所です」
顔を歪めたスネイプが漸くこちらを見た。何か言いたげにこちらを見て、けれど叶わないと知って目を逸らす。
必死にリサを追い返す方法を考えているのだろう。無駄だと分かっているくせに。