またあの夢だ。
納戸にしまわれているはずの朝顔柄の浴衣を身に纏った自分が、父の浴衣を着た誰かと夏祭りに来ている。逸れないようにと浴衣の袖を握りしめて屋台を回りながら、リサの気持ちは高揚していた。楽しくて堪らないのだ。何故そう思うのか分からず、ただ、隣の”誰か”もそうであって欲しいと願っている。
「――、次は何が食べたいですか?」
「君は食べ物ばかりだな」
呆れたような声に照れ臭さを覚えながら笑みを返す。
目新しい屋台を見つけるたびに隣の”誰か”に話しかけているが、自分が彼を何と呼んでいるのかは分からないままだった。
目が冷めては独りぼっちの家に虚無感を覚える。夢の中で”彼”が作ってくれる食事はとても美味しいと知っているのに、現実に自分が作るものはどれもイマイチだ。悪くはないはずなのに、口に運ぶたびに味が分からなくなっていく。溜息と共に食事を止めたリサは、皿に残ったままの料理から目を背けて脇に置いておいた紙袋を手に取った。少しばかり早いが、もう行ってしまおう。
家を出て施錠をして。リサは姿くらましをした。
夏休みが明けたばかりの医務室は忙しい。
長かった夏休みに不摂生な生活を送っていた生徒達の大半は医務室にやって来る。そのたびに薬を処方しながらチクチクと小言を送ってやるのだが、残念ながら毎年この時期に来る生徒の数は減らない。
授業に出れそうな生徒達は授業へ戻し、休息が必要な生徒をベッドへ誘導する――そんな事をしている間に午前中が過ぎてしまった。広間に行っている時間は無さそうだと、しもべ妖精を呼び寄せて簡単なサンドウィッチを頼めばすぐに持ってきてくれた。
あぁ、やっと一段落ついた。午後にはここを訪れる生徒の数が減ることを祈るばかりだと、サンドウィッチに齧りついたその時、暖炉でエメラルドグリーンの炎が上がる。現れた姿にポンフリーは微かに眉を下げ微笑んだ。
「こんにちは、リサ」
「こんにちはー。あ、ごめんなさい。ご飯中でした?」
「大丈夫よ」
サンドウィッチの載った皿を膝に置いてテーブルを空けてやれば、ありがとうと言ってリサが紙袋を置く。中から取り出される薬瓶達がテーブルに並べられていくのを眺めていたポンフリーは、ふとその瓶の縁に目を留めて息を呑んだ。
「これ……」
手に取ってみたそれは”彼”がそうしていたように縁が削られていた。どうして。まさか記憶が戻ったのだろうかとリサを見れば、首を傾げたリサが何かに気付いたような顔をしてから苦笑する。
「うーん、何て言うか……変な夢を見てね」
「夢?」
「そう。凄いんだよ、私が家で誰かと暮らしてるの」
不思議な夢でしょ、と語るリサにポンフリーはこみ上げる涙を飲み込んで俯いた。
夢の中で夏祭りに行った事、花見をした事、”彼”の作る料理が美味しい事――。
「それでね、一緒に薬も作ってたの。その人がそうしてたから私もやってみたんだけど……ごめん、勝手なことしない方が良かった?」
「いいえ……いいえ、とても助かるわ。薬を使う時に量が調節出来るもの」
相槌を打つ声が震えていない事を願うばかりだ。そっかと笑うリサに笑い返す自分はちゃんと笑えているだろうか。
深く息を吸い込んで瓶をテーブルに戻したポンフリーは、リサにサンドウィッチの皿を差し出した。
「昼食はもう済んだ? 済んでないならどうぞ」
「ありがとう。食べてきたから大丈夫――」
きゅるる。言い終わらない内に聞こえた音に目を丸くし、遠慮しなくていいと笑いながら皿を差し出す。けれどリサはそれを受け取る事はしなかった。
「嫌いな具だったかしら?」
「あー……いや、そうじゃないんだけど……何て言うか、その……」
歯切れの悪い様子に首を傾げてリサを見れば、視線を泳がせたリサが椅子を引き寄せてポンフリーの向かいに腰を下ろす。どこか思い詰めたような顔にただ事ではないと悟り、ポンフリーはテーブルの端に皿を置いてリサに向き直った。
「あの……笑わないでね。夢の話をしたでしょう? 実際に味は分からないんだけど、すごく美味しいって知ってるの。それで……何か、自分で作ったの食べてもあんまり美味しくなくて……美味しくないなーって思ってたら、その……あんまり分かんなくなっちゃって……」
「味が分からないの?」
眉を寄せて聞き返すポンフリーにリサが苦く笑う。自分で作ったものも店で買ったものも、まるで最初から味がついていないかのように分からなくなってしまった――そんな事を聞かされて、どうして平常心でいられるだろう。
「リサ……貴方、」
「変だよね。ただの夢なのに……上手く言えないんだけど、えーと……まるで、そっちが本物のような感じがして……ポピー、これ、やばいかな? 私、何かの病気だと思う?」
真剣な表情で尋ねてくるリサに、ポンフリーは何と言ったら良いか分からなかった。
リサの話す夢の内容は実際にスネイプと暮らす中で起きた出来事なのだろうと思う。けれど記憶を失くしたリサにそれを言うことは憚られたし、かと言って適当な言葉を並べても意味が無いだろう事もポンフリーは分かっていた。
「ごめんなさい、それは私の分野ではないから……だけど、味が分からないというのはきっと精神的な部分の問題だと思うわ。リサ……」
言いたくはないけれど。出来れば思い出して”彼”の元を訪れて欲しいと思うけれど。
「……夢に、囚われては駄目よ」
絞り出すように発した台詞に、リサは俯きがちに微笑み小さく頷いた。
夏が終わり、冷たい風に身を震わせる季節がやって来た。
暫くは魔法省の監視が続くと言われていた通り、一歩でも家の外に出ればどこからか視線を感じる。姿を消すのなら、この気配さえも消してくれれば良いだろうに。未熟な監視役に苛立ちすら覚えた。
「気配を消す事が出来ぬのなら、いっそ姿を現したらどうかね」
吐き捨ててやれば少し後ろで衣擦れの音がした。振り返る事はしない。誰かなど興味はないし、これほど下手くそな尾行をする人間など、一人しか思い当たらなかったからだ。
「すみません、いつまで経っても上手く出来なくて……」
「話しかける許可を出した覚えはない」
背後から聞こえた声にそう吐き捨ててやれば、後ろを歩く相手が微かに笑んだのが分かる。相も変わらず忌々しい奴だとスネイプは心の内で吐き捨てた。
「すみません。でも一応規則なので……これからどこへ?」
「これは驚きだ。君が規則を口にする日が来るとは」
学生時代を引き合いに出してチクチクと嫌味を口にしてやれば、背後で小さく唸る音が聞こえてくる。嘲るように鼻を鳴らしてスネイプは足を止めた。数歩後ろで止まった相手を振り返る事なく告げる。
「ダイアゴン横丁」
くるっと回転し、スネイプはその場から姿を消した。
ぽかんと間抜け面をした青年が慌てて姿くらましをするのを想像すれば、ほんの少しばかり溜飲を下げられたように思える。
賑わうダイアゴン横丁の一角に姿現しをしたスネイプは、監視役の青年などお構いなしに目的の店へと向かった。長年通っている小さな薬問屋はダイアゴン横丁とノクターン横丁をつなぐ路地のすぐ傍らに建っている。
天窓から差し込む陽光にのみ照らされた店内は常に薄暗い。初めて訪れる者には足元も覚束ない事だろう。通い慣れたスネイプは迷うことなくまっすぐカウンターへと向かった。小柄で陰気な老人がスネイプを見てニタリと不揃いな歯を見せて笑う。
「お久しぶりですね、スネイプ教授」
「もう教授ではない」
「あぁ、あぁ……そうでした。それでは”ただのスネイプ”様。今日はどんな御用で?」
わざわざ言い直す老店主に僅かに顔を顰めたスネイプだが、気にしている時間も勿体ない。買い付ける品を記したリストを差し出せば、皺だらけの手で受け取った店主は一つ一つ読み上げてから頷いた。
「三日ほどお時間を頂ければ揃えておきます」
「あぁ、頼む」
用は済んだとばかりに踵を返して店を出ると、息を切らして走る未熟な監視役の姿が見えた。向こうもこちらに気付いたらしく、慌てて駆け寄ってくる。
「な、なんで……っ、先に、行っちゃうんですか……!」
どれだけ探し回ったと思ってるんですか、ちゃんと行く店まで教えておいてください――訴えるハリー・ポッターにスネイプは口元を歪めて教えてやる。これまでの監視役達はそんな泣き言を吐いた事はなかった、と。言葉に詰まり狼狽えるハリーに目を眇め、脇を通りすぎて行くと少し遅れて足音が追ってくる。
「監視役の間では我輩が訪れるであろう場所をリストアップしてあるのではないのかね? これまでは行き先を告げずとも、勝手についてきていたようだが……さすがは英雄殿だ。我輩ごときの行き先など考えるに値しないから、毎回告げろと――」
「すみませんでした!」
噛みつくようにハリーが声を上げる。何年経っても癇癪持ちで幼稚な奴だと心の内で嘲った。きっとハリー自身も成長しない己を恥じているのだろう。そんな事はスネイプにとってどうでも良い事なのだけれど。
「…………こんな事を言いたかったんじゃない」
小さな小さな声。スネイプは今この瞬間ほど己の耳の良さを呪った事はなかった。
数歩遅れてついてくるハリーは小さな声で呟き続けている。本人はスネイプに言う為の練習のつもりなのだろうが、残念な事に――非常に残念な事に――全て丸聞こえだ。
「たくさん失礼な事を言ってすみませんでした。貴方の事をずっと信じなかった。貴方はずっと僕を護ってくれていたのに……ごめんなさい。助けてくれてありがとうございました――」
えーと、それから……スネイプに言わなければならないリストでも作っているのだろうか。ガサガサと紙が擦れる音がしたかと思うと、ハリーがまた言葉を連ねていく。練習をするならスネイプのいない所でやれと言ってやりたいが、それを言うという事はつまりスネイプが全て聞いていたという事を知らせる事になる。悲しい事にこれほど煩わしいダイアゴン横丁の喧騒でさえ、ハリーの声を掻き消してはくれないらしい。
まるで拷問だ。漸く辿り着いた書店に逃げるように入ると、漸く羊皮紙から顔を上げたハリーが店の前で「あれ?」と慌てた声を上げているのが聞こえた。よくアレを監視役にしたものだと、決定権を持っているであろうキングズリーの愚かさを嗤いながら、スネイプは魔法薬に関する書物が並ぶ棚へと向かった。
スネイプが日本に隠れていた二年余りの間にも研究は進み、書物もいくつか出版されたはずだ。暫くは家でのんびり薬の研究に励むとしよう。頭にチラついて離れない姿を追い出す為にも、研究に没頭している方が良い。ただの逃げだと分かっていたが、それでも今のスネイプにはそれが必要だと自覚していた。
朝起きてから夜寝るまで、ひたすらに声や姿がチラつくのだ。研究に没頭していなければ気が狂ってしまいそうだとさえ思った。
棚の上の方に目的の本を見つけたスネイプは、舌打ちを漏らして近くにあった脚立を持ってくる。魔法を使えば一瞬だが、魔力を帯びた本が多い店内での魔法の使用は禁じられている。一段、また一段と脚立に足をかけてスネイプは棚の上部に並ぶ目当ての本に手を伸ばした。
「、スネイプ先生……!?」
不意にかけられた声。
まさか。そんなはずはない。違う。動揺を押し殺そうとするが、殺しきれていない事をスネイプは知っていた。
落ち着け。大丈夫だ――何が大丈夫なのかも分からないまま、振り返ったスネイプの呼吸が止まる。
”先生!”
もう二度と会わないと思っていた。そう決めていた。そうするべきだと知っていた。
自分の知らない所で、知らない誰かと幸せになるだろうと、そうなるべきだと思っていた。
彼女が。
リサが、驚きに目を見開いてこちらを見上げていた。