不思議だなぁ、と独りごちてリサは目の前の鍋にクサカゲロウの翅を入れた。
ぐつぐつと煮え立つ鍋を掻き混ぜながら、拭えぬ違和感に首を傾げる。
気が付いたら医務室にいた。調合に失敗してしまったのだろうが、それにしてはポンフリーやハリー達の様子が尋常ではなかった。突然スネイプの名前を持ち出され、死んだという事実を告げただけなのにハリーが飛び出して行ってしまった。ポンフリーやハーマイオニーは泣き出すし、分からない事だらけだ。
違和感は家に帰って来てからも拭えなかった。
見慣れた家のはずなのにそこかしこで違和感を覚え、それの正体が分からずに苛々する。おかしな事だらけだ。
買い物に行けば何故か食料を大量に買い込んでしまうし、今までそうしてきたはずなのに自分で食事の支度をする事にさえ首を傾げてしまう。自分でなければ一体誰が食事の支度をしてくれるというのだろうか。出来上がった料理をテーブルに運んでも、向かいの席に何もない事にまたモヤモヤする。分からない。これが普通だというのに、何故こんなにも奇妙な感覚を覚えてしまうのか。
風呂に入って、気まぐれに酒を飲んで。飲まないはずのビールを冷蔵庫に見つけた時にも一瞬首を傾げたが、そう言えばこれはハリーやロンが来た時の為に買っておいたのだと思い出す。
決して拭い切れない違和感は、日を追うごとに強くなっていった。
何もおかしな事などないのに、何故か違うと感じてしまう自分に困惑して苛々する。
困った事に、悩みの種はそれだけではなかった。
夢を見るのだ。毎晩ベッドに入り眠りにつくと夢の中で目を覚ます。
あぁ今日もか、と心の内で呟きながらリサは寝ぼけ眼を擦りながらリビングへ向かった。リビングへ続く戸を開ければ、分かるはずもないのに美味しそうな匂いが漂ってきたように思えて大きく息を吸い込んだ。
「珍しい事もある。もう起きたのか?」
驚きと揶揄を含んだ声に寝ぼけ眼を擦りながら頷きを返してソファに座る。重い瞼に負けないようにと瞬きを繰り返していれば先ほどの声の主が「どうせまた寝るんだろう」と言いながらブランケットを寄越してくれた。
「ねませんよ」
「その台詞が正しかった時が一度でもあったならば、信じてやれたのだがな」
呆れに染まる声に嫌悪感や苛立ちはない。優しさに甘えてブランケットに包まれば、ソファから落ちても知らんぞという台詞を残して声の主はどこかへ行ってしまった。
声の主の姿はいつもはっきりとしない。真っ黒なシルエットは見た事があるような気もしたし、全く知らないような気もした。かけられる声にはどこか優しさが滲んでいるのに、その声が誰のものなのかも分からない。
ただ、夢の中の自分はとても満ち足りた気持ちで、これが現実だったらどんなに良いかと目を覚めるたびに思うのだ。
誰もいないリビングへ下り、朝食の支度をして洗濯をして――独りぼっちの味気ない生活に溜息すら出てくる。今までは何とも思わなかったというのに、あの日医務室で目を覚ましてから自分は一体どうしてしまったのだろうか。
「どうしたの? 元気ないね」
アルバイトに向かった先で店長にまで心配されてしまった。そんなことないと答えれば「また喧嘩したの?」とどこか楽しげな店長の声。喧嘩? 一体何の話だろうかとリサは首を傾げた。
「前に喧嘩したって言ってただろう? 仲直りの仕方が分からないって」
「私が……言ったんですか?」
記憶にない。困惑を隠せぬまま問いかければ、店長は訝しげにリサを見返してきた。覚えてないのかとの問いかけに頷きを返すと今度は店長が困ったような顔をする。けれど、何かしらの答えを見つけたのだろう、蒸し返してごめんねと肩を叩かれた。慰めるようなそれにリサは益々困惑するばかりだ。蒸し返すも何も、そんなこと相談した覚えがないのだから。
帰り道、リサは近道をしようと公園へ足を向けた。薄暗い公園を突っ切れば家までもう少しだ。
けれど入り口にやって来た所でリサは足を止めてしまった。何故だろうか、ここを通ってはいけないと頭の片隅で誰かが訴えている。ここを通ったら誰かに怒られてしまうような気がするのだ。
リサはくるりと方向を変え、公園の外をぐるりと周って帰路についた。
数年ぶりに帰って来た家は荒れに荒れまくっていた。
容赦なく家探しをしたダリルが後片付けもせずに帰ったからだ。崩れた書物や散らばった引き出しの中身、クローゼットにしまわれていたローブがベッドに投げ出されているのを見て溜息を一つ。よくもまぁ、ここまでやってくれたものだと、スネイプは自分を憎んでいた元同僚の息子を思い浮かべた。
杖を一振りすると、それらは独りでに元の場所に戻っていった。その光景をぼんやり眺めながら、スネイプはこの二週間を振り返る。沈黙を貫いたスネイプの扱いに困り果てていた役人達の何と愚かな事か。ダンブルドアの証言があろうとも、死喰い人として罪を犯した事に変わりはない。ジョージの片耳を削いだのは事実で、バーベッジを見殺しにしたのも事実なのだ。さっさとアズカバンに放り込むなり、吸魂鬼にキスを執行させるなりすれば良かった。
”君の罪は不問とする”
お人好し過ぎる魔法省大臣の台詞を思い出して鼻を鳴らした。反吐が出る。大方、リサの一件でスネイプに同情でもしたのだろうが、そんなものをスネイプが望むはずがない。同情などした所で何が変わるわけでもないというのに。
あまつさえ、あのダリルすら抗議しなかったというのだから笑うしかない。たったあれだけの事で憎しみが消えるはずもないというのに。
”お前は俺の母を見殺しにした――だが、お前も彼女を失った”
去り際に言われた事を思い出してスネイプは酷薄な笑みを漏らした。リサを失った――それだけで赦すなど、どうかしている。
スネイプが堪えたとでも思っているのだろうか。そうだとするならとんだお笑い種だ。
何が変わると言うのだ。吐き捨ててスネイプはティーセットを呼び寄せた。長年慣れ親しんだソファに腰を掛け、気に入りの茶葉で紅茶を淹れる。
”先生の紅茶って美味しいですねぇ”
すごい、すごいと馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返していたリサの姿が不意に脳裏を過った。くだらん。吐き捨てて紅茶を啜り、スネイプは食事の支度をする為に立ち上がる。冷蔵庫の中を覗いてみたが目ぼしいものは何も残っていない。校長としてホグワーツに戻る際に殆どの食材を捨ててしまった事を思い出して溜息を漏らした。買い物に行かなければ。
マグルの格好に着替えて近所のスーパーへ向かう間、スネイプはこうして外に出るのが久しぶりだという事を思い出した。
日本で生活していた頃は、リサにチラシを持って帰って来させて買うべきものを指示していた。時には重くなってしまう荷物に文句を言いながらも、出来上がった料理に目を輝かせ「また作ってください!」なんて笑う姿に単純な奴だと笑ったものだ。
当然ながらイギリスと日本では売っているものが違う。すっかり舌に馴染んでしまった日本の調味料は日本食を取り扱うスーパーへ行かなければならないが、残念ながらこの近辺には存在しない。姿現しも考えたスネイプだが、もう日本食を口にする必要などないと考えを打ち消した。まるでこの二年余りの歳月を恋しく思っているようではないか。
適当な食材を仕入れて家に帰ると、静かな家がスネイプを迎えた。テレビなど置いていない室内はスネイプが立てる物音以外、何の音もしない。それが当然であるはずなのに、どこか落ち着かないのは何故だろうか。
食事の支度を始めてからも部屋の中は静かだった。ベーコンを焼き始めると香ばしい匂いが部屋中に広がる。
”うわぁ! 美味しそう!”
匂いを嗅ぎつけてきては、ちょこまかとフライパンや鍋を覗き込んできた姿が無い。大人しく待っていろと何度叱りつけた事かと吐き捨ててスネイプは食器を呼び寄せた。こうして自分で呼び寄せる方が遥かに早い。用意をしろと命じる必要もなければ、盛り付けた皿を運べと命じる必要もない。
魔法を使えば全てが思い通りだ。
美味しい、幸せだと締まりのない顔が向かいの席に無いのだって、静かな食事を好むスネイプにとっては嬉しい限りである。そもそもあれは煩過ぎたのだ。スネイプを家に置いた理由だって、猫を拾った時と同じ事をしただけだと言うのだからふざけた奴だ。
洗濯の際に気を遣う必要もなければ、風呂上がりに髪を乾かしてやる必要もない。魔女なのだから髪くらい魔法で乾かせば良いだろうに、どうせそのうち乾くだなんて女らしさの欠片もない事を言っていた同居人だ。自分の事に無頓着で、しかもあのハリー・ポッターに想いを寄せていた過去を持つ女だ。どうかしている。
そう、どうかしている。これが正しいのだ。
何故あの時に連れ去ってくれと願ってしまったのだろうかと、スネイプはかつての己に呪いをかけてやりたくなった。最初から黙秘を貫いていれば良かったのだ。ハリーが来れば追い返してやれば良かったし、ダンブルドアの証言が適用されるのならスネイプが語る必要など何もなかった。リサと関わる必要もなかった。
”ちょっとくらいは楽しいと思ってますか?”
思うはずがないではないか。どうしてそんな事を思えるのだ。
スネイプが愛しているのはリリー一人で、彼女はもうこの世にいない。スネイプがヴォルデモートに告げた予言の所為で生命を落としてしまった。自分の所為で愛しい女性を死に追いやってしまったというのに、楽しむなど出来るはずがないではないか。
”貴方は、もう十分過ぎるほど罰を受けたじゃないですか”
止めろ。思い出すな。考えまいと、頭から追いだそうとすればするほど声が響く。
”わたしはっ、あなたに幸せになってほしいんです……!”
「止めろ!!」
思わず口に出して叫び、スネイプは頭を抱えた。
止めろ、思い出すな。駄目だ。忘れろ。取るに足らない事だ。偶然が重なって共にいただけだ。情など移ってはいないし、今更思い出す必要もない。既に道は分かれた。
彼女は彼女の幸せを見つけて道を進んで行くのだ。
自分はこれまでと変わらず、ただ一人を想い続けて生命が尽きるのを待てばいい。
”君のおかげで”楽しい”時を過ごす事が出来た”
あんなもの、ただ流されただけだ。ぬるま湯の中で戯れに吐いた嘘だ。
スネイプが吐いた言葉も、リサが吐いた言葉も、何もかも、全て。
だから、そう。この胸の内に渦巻く感情も、全て。
嘘に決まっている。