20


気が付くとホグワーツの医務室にいた。
ベッドに寝かされている事に首を傾げながら身体を起こせば、ずきりと頭が痛む。思わず呻くとカーテンが開いてポンフリーが姿を現した。

「目を覚ましたのね……頭が痛むのですか?」
「うん……ポピー、私どうしてここに……?」

家にいたはずだ。ポンフリーに頼まれた薬を作っていた所までは覚えている。ぶるぶると頭を振ってみるが痛みは消えるどころか酷くなるばかり。促されるままに横になると、ポンフリーのひんやりとした手が額に触れた。あ、気持ちいい。呟けば濡れタオルを呼び寄せて額に乗せてくれる。ありがとうと呟いてリサは目を開けた。どこか悲しげな顔をするポンフリーをじっと見つめて口を開く。

「私、どうしちゃったの……? 薬を作ってたはずなの……まさか失敗したの?」

悲しげな顔のままポンフリーが口を開いたその時、医務室の戸が開く音がして足音が近づいてきた。現れたハリー、ロン、ハーマイオニー、マクゴナガルの姿に驚き、まさか連絡したのかとポンフリーに問う。

「何も連絡しなくても……つ、次はちゃんと作りますから……」
「リサ……貴方、何も覚えてないのね……」

悲しげなハーマイオニーの声に困惑するしかない。堪え切れずといった様子で両手に顔を埋めてしまったポンフリーの背をマクゴナガルが労るように撫でた。誰も彼もが同じ顔をしている。悲しげで、今にも泣きそうな様子にリサは困惑するばかりだ。

「ハーマイオニー、どうなってるの? 私、どうして……」

分からない。何も分からない。薬を作っていただけなのに、どうして誰もがこんなに悲しい顔をしているのだろう?
教えてくれとハリーに頼んだけれど、ハリーはぐっと眉を寄せて唇を噛みしめるばかりで何も言わない。縋るようにハーマイオニーを見れば、ハーマイオニーも泣き出してしまった。肩を抱いたロンが、自分も泣き出しそうな顔で「スネイプ」と囁く。

「覚えてる?」
「うん……? そりゃ、覚えてるよ。この間のパーティで”生きてれば良かったのに”って話したばかりでしょう?」

息を呑んだのは誰だっただろうか。
死んだ。ハリーが呟いた。

「スネイプは……死んだ、の……?」
「え……? だ、だって……ハリー達も見たでしょう? 叫びの屋敷でナギニに殺されて――あっ、ハリー!?」

突然走り出したハリーに驚いて声を上げるが、ハリーは振り返る事なく医務室を飛び出して行ってしまった。
呆然とするリサをちらちらと振り返りながら、ロンとハーマイオニーも行ってしまう。ポンフリーを椅子に座らせたマクゴナガルが悲しげな顔でリサの肩に手を載せた。

「もう少し、お休みなさい……」
「先生……でもハリー達が……私、何か変な事を……?」

おかしな事を言ってしまっただろうか。ハリーを傷付けるような事を言ってしまったのだろうか? 分からない。
布団をかけてくれるマクゴナガルを縋るように見つめたが、マクゴナガルは悲しげに首を振るだけで何も教えてはくれなかった。




走って、走って、ひたすら走って。足が縺れてハリーの身体は床に叩きつけられるように倒れこんだ。衝撃に呼吸が止まり、一気に肺に流れ込んでくる酸素に盛大に咽る。あまりの苦しさに涙が滲んだ。
起き上がる事も出来ないまま、ハリーは握りしめた拳を床に振り下ろした。何度も、何度も。

リサに忘却呪文をかけたスネイプに、誰も言葉を発する事が出来なかった。握りしめていた杖を放り出し、ソファに上半身を預けるようにして眠るリサを抱き上げたスネイプがソファに横たわらせるのをただ眺めていた。だらりと落ちる手を腹の上へと導き、顔にかかる髪を払う――名残惜しむように涙の痕の残る目元を一撫でしたスネイプの背中を見つめながら、ハリーはいつの間にか自分が泣いている事を知った。

やがて、立ち上がったスネイプが杖を拾い振り返った。こちらに向けた表情はハリーのよく知る”スネイプ教授”と同じそれで、リサに見せていた穏やかさは欠片も見当たらない。
スネイプが杖を一振りすると家の中のあちこちが淡く光りだした。テーブルの湯呑みが一客、光を帯びて静かに溶けて消えていく。スネイプはそれを無感動の目で眺めていた。スネイプが使用していた全てのものが家中から消え去ったのだ。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。

光が消えるとスネイプは無言のままキングズリーに向けて己の杖を差し出した。咄嗟に手を出してそれを受け取ったキングズリーが杖とスネイプとを見る。興味を失くしたように顔を逸らしたスネイプが玄関へ向かうと、慌てたように数人の役人が後を追ってリビングを出て行った。

キングズリーは受け取った杖とソファで眠るリサとを交互に見た。悲しげに目を伏せ、己の杖でダリルを拘束する縄を解いてやるとダリルはすぐに立ち上がり外へ行ってしまった。

”…………これで、良かったんだろうか”

ハリー、ロン、ハーマイオニーしか残っていない部屋でキングズリーがぽつりと零す。己の判断が間違っていたのではないかと後悔すらしているような声音に、ハリー達は何も言う事が出来なかった。キングズリーと同じ事を考えていたからだ。

”リサをホグワーツに運んでやってくれ。医務室へ……”

疲れたような声音で言い、キングズリーが部屋を出て行く。残されたハリー達は暫くその場を動くことが出来なかった。

数分後ロンが「連れて行こう」と言葉を発し、ハリー達は漸くリサを医務室へ運んだ。驚くポンフリーにリサがスネイプを匿っていたと説明すれば、どうやらスネイプがリサと共にいる事に気付いていたらしい彼女は、悲しげに目を伏せてリサをベッドに寝かせるように指示した。

キングズリーから連絡を受けたマクゴナガルが医務室へやって来て、何がどうなっているのかとハリー達に説明を求めて。ハーマイオニーが二人に詳細を語り始めた。ハリーとダリルが気付いた事、リサの家へ行った事、スネイプがリサと共に暮らしていた事――悲しげに話を聞いていたポンフリーは、スネイプがリサに忘却術をかけたと聞くと雷に打たれたような顔で固まった。

”幸せだって、そう言ったのよ”

ベッドで眠るリサを見つめながらポンフリーが零した。
リサが幸せで、スネイプ自身も自分にはリサが必要だと自覚していたのだと。

目を覚ましたリサは何も覚えていなかった。この二年余りの生活は全て違う記憶で塗り替えられ、スネイプを死んだものと思っている――リサの中でスネイプは生きてはいない。スネイプがそれを望んだ。共にいる事を望んだはずなのに。

遠くから聞こえてきた足音がハリーの近くで止まった。

「ハリー……」
「僕が奪ったんだ」

気遣わしげなロンの声にハリーは顔を伏せたまま言った。床を殴り続けた手はもう感覚がない。瞼の裏に焼きついた二人の姿が胸に突き刺さるのだ。苦しくて、悲しくて、痛い。

「探すべきじゃなかったんだ……リサが匿ってるって分かった時に止めるべきだった……踏み込むべきじゃなかった」

そうすれば二人は一緒にいられた。幸せだった。
スネイプはリサの記憶を消す事はなかったし、ずっと笑い合っていられたはずだ。

「貴方の所為じゃないわ……私達が行かなかったとしても、ダリルがそうしていた……スネイプを憎んでいたのよ、お母さんを殺されて……だから、」
「僕が言ったんだ。スネイプは生きてるって……」
「ハリー!」

ハーマイオニーが縋るような声を出した。

「ねぇ、ハリー。自分を責めないで……貴方が言わなくても結局はダリルが見つけていたはずよ。そうすればきっとスネイプはリサの記憶を消して自分一人で罰を受けようとした……」

本当にそうだろうか。上半身を起こしながらハリーは思いを馳せた。そしてすぐに思い至る。そんなはずはない。時間さえあれば――もっと時間があれば、二人は違う道を選んでいたかもしれない。互いに気持ちを自覚して愛を育んでいたかもしれない。そうすればスネイプはリサの記憶を消さなかったかもしれない。

憂いの篩の中で見たスネイプの姿がずっと消えなかった。
ひたすらにリリーを想っていたスネイプ。リリーに想いを伝えられないまま喪ってしまったあのスネイプが、リサの髪にキスをした。抱きしめた。ハリー達の視線など気にも留めずに、リサへの想いを露わにした――それがどれほど奇跡的な事であるか、ハリーは嫌というほど分かった。ロンにだって、ハーマイオニーにだって、あの場にいた全員が分かったはずだ。

スネイプが。過去に囚われ続けていたスネイプが漸く前に進もうとしていたのに。
リサがそうさせたのに。スネイプの生命を救い、心さえも救っていたのに。それなのに。

「僕が奪った……僕が、また……」

ハリーの為に生命を落としたリリーだけでなく、リサまで。




魔法省に連行されたスネイプは何も語らない。何を聞いても沈黙を返し、リサの容態を伝えても眉一つ動かさないのだとキングズリーが溜息混じりに教えてくれた。
あんなに会いたいと願ったのに。話をしたいと願ったのに。ハリーはスネイプに会いに行くことは出来なかった。どんな顔をすれば良いのか分からなかったし、何を言えば良いのかも分からなかったからだ。
リサにもあれから会っていない。翌日には退院して家に戻ったとハーマイオニーから聞かされた。

スネイプ発見の報せは、人目を避けるかのように新聞の片隅に小さく載せられた。