18


それはあまりにも突然の報せだった。

「先生……」

ポンフリーから送られてきた手紙を握りしめてスネイプを見上げる。手紙を読んだ時に僅かに目を見開いたスネイプは、けれど今はもうその表情に動揺や不安を宿してはいなかった。

”貴方が疑われています”

つい今しがた届いたばかりのそれは、ポンフリーにしては珍しく動揺を露わにした走り書きだった。何故疑われるに至ったのかは分からないが、リサが疑われていると知り急いで手紙を送ってくれたのだろう。
イギリスから日本までの距離を考えると不安ばかりが募る。スネイプを捜索している人達が今にもここへやって来るのではないかと不安がるリサに、スネイプは動揺の欠片も見えない様子で茶を注いだ。

「先生、逃げてください」
「逃げてどうする。この家には我輩がいた痕跡がたっぷり残っているではないか」
「そんなの、どうにかします! 早くしないと、もし今来たら……」
「落ち着きなさい」

落ち着けるわけがない。差し出された茶を受け取ることも出来ずにリサはスネイプをじっと見つめた。どうにかして逃さなければ。スネイプを逃し、彼に関する全てを処分するしかない。いつ誰がやって来るとも分からないこの時に、呑気に茶など飲んでいるわけにはいかない。

「先生、お願いだから――」

早く逃げて。リサの訴えは突如鳴り響いた玄関ベルの音に掻き消された。びくりと身を震わせるリサに苦笑を漏らしたスネイプが「出てきなさい」と穏やかに諭す。誰が来たのか分かっているくせに。

「ダメです、ダメ……先生、お願いだから逃げてください」
「断る」
「どうして!」

逃げたいと言ったのはスネイプの方なのに。だからここに来て隠れて暮らしていたはずだ。それなのに、何故。スネイプが何を考えているのかリサには分からない。理解出来ない。急かすように鳴り続けるベルの音に苛々して、逃げてくれないスネイプに苛々して。泣きたくなりながらリサはスネイプの腕を掴んだ。

「ねぇ、先生……逃げて、お願いです。貴方だって捕まりたくないって言ったじゃないですか」
「捕まる事を恐れたわけではない。我輩はただ、魔法界から消える事を願った」

あの場所に留まる理由がなかった。そう続けたスネイプの意図が分からない。それならば逃げてくれれば良いのに。そうでなければ魔法界に連れ戻されてしまうのに。ベルの音が止み、今度はけたたましいノックの音が響いた。

「リサ! 僕だ――ハリーだ! 頼む、開けてくれないか」

次いで聞こえた声はハリーのものだった。切羽詰まった様子の声に唇を噛みスネイプを見る。早く逃さなければ。今すぐ行ってもらわなければ。
スネイプが魔法界から去る事を望んだ。それはつまり、スネイプにとっての幸せがあそこには無いという事だ。
逃さなければ――リサは強く思った。幸せになるべきだ。スネイプこそ、誰よりも幸せになって欲しいと思うのに。

「先生……!!」

涙を滲ませて訴えると、微かに溜息を落としたスネイプが湯呑みを置いてこちらを見る。
焦燥感に駆られ泣きべそを掻くリサに、彼はその無表情を初めて困ったようなものへと変えた。そして言うのだ。「本当に、君はどうしようもない」と。

「お願い、早く行って……行ってください」
「自分の心配をするべき時にすら、他人の心配しか出来ないのかね?」
「お願いだから……」

遠くで爆発音が聞こえた。リサが息を呑む音とスネイプの溜息とが重なる。騒々しい奴らだと零しただけで、スネイプは逃げようとはしない。今しかないというのに。慎重に廊下を進む足音が聞こえてくる。あちらも緊張しているのだろう。あぁ、早くしなければ。早く、今すぐに逃さなければ。

「逃げて……お願いだから、早く逃げてよ……」

泣いても縋ってもスネイプは首を振るだけ。どうして。幸せになって欲しいのに。自由になって欲しいのに。ここを離れれば良いだけの話だ。リサにさえ分からない場所へ行けば、彼は完全に自由になれるというのに。

扉がゆっくり開き、誰かの息を呑む音が続いた。溢れ出る涙を止める術も分からないまま、リサはソファに座るスネイプの足元で肩を震わせる事しか出来ない。
見つかってしまった。逃げて欲しかったのに。

「スネイプ……リサ、どうして……」

ハリーの困惑と悲しみの混じった声に首を振る。”どうして”なんて、リサには返せる答えを持っていない。
自由になって欲しかっただけだ。幸せになって欲しかっただけ。彼の願いを叶えてあげたかっただけ――どれもハリーが望む答えではないのだろう。

「セブルス・スネイプ」

鋭い声に顔を上げればハリーの隣に誰かが立っていた。見た事がある。スネイプの捜索を指揮していた魔法使いだ。
彼らの後ろには動揺を隠せないハーマイオニーやロンの姿もあった。目が合うとハーマイオニーが悲しげな顔で何かを言いかけて、けれど何も言えずに口を噤む。
リサは俯きスネイプのシャツを握りしめた。

「何という事だ。ハリー・ポッター、君と共に戦った友人がスネイプを隠していた」
「リサ……どうしてなんだ? 何で君が、そんな……」

答えられずリサはもう一度首を振った。どうしよう。どうしたら良い? ――分からない。
スネイプはどうして逃げてくれなかったんだろう。どうしてこんなにも落ち着いているのだろう。リサはどうすれば良いのか分からないのに、彼はどうすれば良いのか分かっているのだろうか?

見上げるとスネイプもリサを見た。
涙で濡れた顔を歪めるリサに僅かに目を細め、手の甲で涙を拭ってくれる。誰かが息を呑んだ。
こんな所で優しさを見せるくらいなら、逃げてくれれば良かったのに。そうすればリサは安心出来たのに。優しさの使い所が間違っているのだと訴えるように頬に触れる手を掴めば、頭上でスネイプが微かに笑ったのが分かった。

「ばか……せんせいの、ばか」

唐突に理解した。理解してしまった。
スネイプが何故この場に留まったのか。何故こんなにも落ち着いているのか。

”どうやら君は我輩の心配をする事で忙しいようなのでね”

一年近く前に言われた事を思い出し、また涙が溢れる。
リサの心配なんてする必要はなかった。自分の心配だけをしていてくれれば良かったのに――そう訴えれば、彼はきっとリサがスネイプの心配をしているからだと答えるのだろう。
リサがスネイプを心配すればするほど、スネイプもリサを心配するのだと。

「なんでそんな……どうして、」
「だから何度も言っただろう。”どうしようもない”と」

不可抗力だとスネイプが続けた。
自分達にはどうする事も出来ない事だと。抗えない事なのだと。そんな言葉で納得など出来るはずもないというのに。

「話の途中で申し訳ないが――スネイプ、貴方には魔法省まで同行して頂く」
「魔法省へ同行?」

スネイプが冷笑する。指揮官――ダリルの顔が醜く歪んだ。

「てっきり我輩を殺しに来たのだと思っていたが」
「もちろん、そうする。貴様が妙な行動を取れば、すぐにでも」
「ダリル……!」

低く唸るような声を出したダリルに、ハリーが焦った声を上げる。リサがスネイプを庇うように立ち上がったのと同時だった。
咄嗟に動いてしまった事に驚きながらも、リサは油断なくダリルを見据えた。ハリー、ロン、ハーマイオニーの顔に困惑と動揺が走ったが、構っていられない。スネイプの言う通り”不可抗力”なのだ。
スネイプがリサの後ろで微かに溜息を漏らした。

「なるほど、君はそちら側か」

吐き捨てたダリルが目を眇めて睨みつけてくる。リサは杖を握りしめ深く息を吸い込んだ。

「この人は、殺させない」
「桜井、退きなさい」
「嫌です。貴方が言ったでしょう、”これは不可抗力だ”って」

舌打ちを漏らしたスネイプが突然リサの杖腕を掴んだ。
振り払おうとしたが敵わず、引っ張られるままにソファに倒れ込んでしまったリサの上を赤い閃光が過ぎていく。息を呑むリサの耳に「リサに攻撃するな!」とハリーの怒った声が届いた。

「彼女はスネイプの逃亡をほう助した。見ただろう? 奴を庇い、我々に歯向かおうとした罪人だ」
「それは……」
「私情を挟むな、ポッター。我々がすべき事は罪人を捕まえる事だ」
「”私情を挟むな”とはよく言ったものだ。Mr.バーベッジ」

息を呑んだのはハーマイオニーだ。
信じられないという顔でダリルとスネイプとを交互に見て、どういう事なのかと問いかけるロンに「バーベッジ先生よ」と囁きを返す。

「マグル学の……同じ名前だわ。先生はずっと行方不明で……」
「彼女を見殺しにした我輩を殺しに来たのだろう?」

見殺し。息を呑んだのは、今度はハーマイオニーだけではなかった。
ダリルの顔が怒りで歪んでいくのをリサは見た。

「母はお前に助けを求めたが、お前はそれを拒んだ――ルシウス・マルフォイがそう証言した。ヴォルデモートが余興で母を殺し、その身体を蛇の餌にしたと……!!」

吼えるようなダリルの声がリビングに響く。
言葉を失い動けないハリー達の視線の先で、ダリルがスネイプに杖を向けている。握りしめた杖先は怒りの所為か微かに震えていた。

「母を見殺しにした……ジョージ・ウィーズリーの耳を削いだのも貴様だ! 罪には罰を――貴様は報いを受けるべきだ」
「止めて!!」

リサが叫ぶと同時にダリルとスネイプが杖を振った。
ダリルが放った呪文がスネイプの一メートルほど手前で弾けた。飛散したそれに安堵する間もなく、また新たな閃光がぶつかり合い火花を生む。ばちばちと弾けて飛び散る火花にハーマイオニーが悲鳴を上げた。
目も開けられない状態の中、リサは手探りでスネイプを探し当てた。けれどすぐにスネイプの腕がリサを自分の後ろへと押しやる。

「先生……!」
「そこから動くな」

言うと同時に今度はスネイプが攻撃に転じた。
一瞬の隙を突いて放たれたそれに、今度はダリルが防戦一方となる。魔法警察部隊に属するダリルは常日頃から犯罪者を逮捕してきたが、死喰い人のような凶悪犯に対峙するのは特殊部隊であり、ダリルが相手取るのは”小物”ばかりだ。
対してスネイプは元死喰い人という経歴を持ち、こちら側にきてからも常に危険な位置にいた。この二年こそ平和に暮らしてきたが、染み付いた戦いの勘が消えるにはまだまだ短すぎる。勝敗は明らかだった。

とどめとばかりにスネイプが杖を振ると、縄で縛り上げられたダリルの身体は無様に床に伏せた。
憎しみの篭った目がギラギラとスネイプを睨めつけているが、スネイプは意に介した様子もなく背にしがみつくリサを肩越しに振り返る。小刻みに震える手の振動が伝わってくる。涙をぼろぼろと流しながらスネイプの背に額を擦り付けるリサに、スネイプは苦笑いを禁じ得ない。

「何故泣く」
「だ、だって……っ、ひぐっ、」

どうするんですか。泣きじゃくりながらリサが言う。
逃げてくれれば良かったのに。こんな事をして、どうなるのか分かっているのか――その質問はむしろスネイプがする側だ。
友人達に裏切りが知られてしまったリサは状況が分かっているのだろうか? 

ついとハリー達の方へと顔を向ければ、動揺を露わに身を震わせたハリーがこちらをじっと見つめ返してくる。丸眼鏡の奥の翡翠は”彼女”と同じだというのに。実際に目にして、動揺していないという事実を突きつけられて。溜息しか出てこない。
そんなスネイプを責めるようにリサが額をぐりぐりと押し付けてくる。聞いてるんですか、何考えてるの、先生のバカ――馬鹿はどっちだ。

「本当に、どうしようもない」

杖をしまいながら零せば背中を殴られた。決して弱くはないそれに一瞬息が詰まり、不機嫌を露わに振り返ったスネイプはぐしゃぐしゃの顔を見てまた溜息。そんなスネイプの態度にまたリサが拳を振り上げてどんどんとスネイプの胸を叩く。嗚咽を漏らすばかりで声が出ないからだと分かるが、無視出来ない程に強く殴られるのは頂けない。
三度目あたりで腕を捕らえる事に成功したスネイプは、涙も鼻水も垂らすリサに顔を歪めた。どうしようもない。何度だって言う。どうしようもなさすぎる。

「君がこれほどまでにどうしようもない人間だと知っていたなら、連れ去ってくれと願いはしなかった」

リサの友人達の誰かが息を呑む音がする。
手を放し、呼び寄せたタオルを押し付けてやれば、涙を拭い盛大に鼻をかんだリサが恨めしげにスネイプを見上げた。目はすっかり腫れて鼻も真っ赤だ。

「そんなの、何で今になって言うんですか……」
「今を逃せば機会を失うと思ったのでね」

頬に張り付いた髪を払ってやり、怪我の有無を確認する。首を振り怪我はないと答えるリサに頷きを返したその時、複数の足音が聞こえてまた何人かがリビングに飛び込んできた。