17


自分を英雄だと思った事は一度もなかった。
両親を殺され、生命を狙われたから戦っただけだ。必死に抗って、漸く平和を勝ち取った――ただ、それだけ。最後はヴォルデモートとの一騎打ちとなったけれど、だからと言って一人で戦ったとは思わない。いつだって誰かに助けられた。いつだって友人達が傍にいてくれた。いつだって独りじゃなかった。それがハリーの力だった。

「仕方ありませんよ。それでも貴方は英雄なんですから」
「僕が英雄だと言うのなら、一緒に戦ったみんなも英雄です」
「それでもです。ポッター、変わりませんよ。貴方はこれから来賓として卒業式に出席するのです」

覚悟を決めなさいとマクゴナガルに言われ、ハリーは苦い顔で黙り込んだ。昔からこの人は変わらない。厳格な寮監だ。今では厳格な校長でもある。
今日はホグワーツ魔法魔術学校の卒業式だ。魔法界の英雄であるハリー・ポッターにも招待状が届き、あと十数分後には来賓として臨席する事になっている。「自分はただの闇祓い見習いだ」「英雄でも何でもない」「来賓なんて務まるはずがない」ハリーの訴えはどれもマクゴナガルによって許可された。それでも。そう言われてしまえばもうハリーには打つ手がない。

隅っこの席でひっそりと物言わぬ貝のようにじっとしていよう――ハリーのそんな決意も虚しく、何かスピーチをと要求されたのだが、マクゴナガルはもしかしてハリーに恨みを持っているのだろうか。そう思わずにはいられない。狼狽えながら何とか「卒業おめでとうございます」と告げたハリーは、真っ赤な顔で席に着いた。
もういやだ。来年は絶対に来ない。何が何でも仕事を入れて拒絶してやる――残念ながら大臣直々の指令が下ることになるのだけれど、そんな事も露知らずハリーは決意した。

滞りなく式が終わり宴会が始まると、ハリーは少し離れた席のポンフリーの元へと向かった。今日ばかりはポンフリーもワインを飲んでいる。仄かに赤くなった顔がハリーを見て優しく綻んだ。

「どうしたんです?」
「あの、リサの事なんですけど……今度いつ来ますか?」

どうせホグワーツに行くのならリサに会おう。何せ久しく会っていないのだ。久しぶりと笑い合って、卒業式に出席させられた愚痴でも聞いてもらおうとハリーは思っていた。リサの事だから「お疲れ」なんてちっとも心の篭もらない言葉と共に笑うのだろう。

「リサなら今日来ますよ」
「えっ!? 本当ですか!?」

ラッキーだ。医務室に行って待っていよう――後輩達がチラチラとこちらに視線を向けてくるのに気付いていたハリーは、ポンフリーに礼を述べると足早に広間を出て行った。急いで大理石の階段を駆け上がる。
そう言えばリサは何時に来るのだろうか? ――まぁ良い。どうせ今日は一日休みなのだ。予定もないのだから、リサが来るまでのんびり待っていればいい。

医務室にやって来たハリーはテーブルの上に小さな瓶が並んでいる事に気付いた。瓶を覆う大きな布と、その上に留められた小さなメモ。”今回の補充分です”と書かれたそれに、ハリーは大きな溜息と共にしゃがみ込んだ。もう帰ってしまったらしい。
式の途中に来るなんてずるい。ちゃんとポンフリーに会って直接渡せばいいじゃないか!

恨み言を口にしながらハリーは薄く白い布を捲った。小さな薬瓶がテーブルいっぱいに置かれている。あのリサが医務室の薬を作っているなんて、今でも信じられない。リサの調合の腕はハリーだってよく知っているからだ。自分やロンよりはマシではあったが、所詮その程度だったと認識している。

「あのリサがなぁ……」

まさか失敗なんてしていないだろうかと小瓶を手に取ってじっと見つめ、そんな事を考えた自分を笑う。失敗なんて事があったならばポンフリーは彼女に依頼を続けたりはしない。つまりこの一年、失敗していないという事だ。すごい。呟いて瓶を戻そうとしたハリーは、ふと瓶の縁を見て手を止めた。

「、これ……」

まじまじと瓶を見つめ、ポケットから別の小瓶を取り出す。スネイプの家から拝借した真実薬だ。何となくあれからずっとポケットに入れている。お守りのようにさえ思っていた。
ハリーは二つの瓶を目の高さまで持ち上げて交互に見つめた。やはり同じだ。同じ傷がついている。
どうしてだろうか? 真実薬はスネイプが作ったもので、こちらはリサが作ったものだ。瓶についた傷は明らかに意図してつけたように見える――馬鹿な。そんなはずがない。

「マダム・ポンフリーが言ったのかな……」

きっとそうだ。そうに決まっている。きっと彼女の依頼でそうしていたに違いない。
いやに煩い心臓の音に首を振り、気持ちを落ち着かせる為に深呼吸を繰り返す。そして自分に言い聞かせるように呟くのだ。これは、無関係だと。

「ポッター」

不意に聞こえた声にハリーはびくりと肩を跳ねさせた。驚きを隠せぬまま振り返れば、戸口に立つダリルが訝しげにこちらを見ている。

「どうしてここに?」
「君を探してたんだ。少し気になる事があって……」
「気になること?」

頷いたダリルが医務室に入ってくる。テーブルの上の薬瓶とハリーの手の瓶を見て「あぁ」と頷いた。

「確か、君の友人が作っているんだったな」
「え? ――あぁ、うん……そうなんだ」

瓶をテーブルに戻し、真実薬をポケットに戻す。それを見咎めたダリルが言った。

「盗みは駄目だ」
「ち、違います! これは、僕が持ってきたもので……本当だよ。えぇと、その……それで、気になる事って?」

動揺を隠せぬまま話題を逸らせば、神妙な顔をしたダリルが「マルフォイ家に行ってきた」と呟いた。
ダリルは言った。ルシウスに会ってきたのだと。

「君達が言っていただろう? ヴォルデモートの命令でルシウス・マルフォイがスネイプを呼びに行き、スネイプは叫びの屋敷へ行った……」
「うん、そうだった。それで、僕らも急いで屋敷に――」
「聞いてきたんだが、ルシウス・マルフォイが言うには、それを命じられた時その場にはマルフォイ夫妻とベラトリックス・レストレンジしかいなかった」
「どういう事?」

首を傾げるハリーにダリルが不機嫌に眉根を寄せる。分からないのか。向けられた声は刺々しかった。

「ベラトリックスは死んだ。マルフォイ夫妻は戦いを放棄して息子を探していた――もちろん、その間に出会った奴らにスネイプの事なんて話しちゃいない」
「それって……」
「それなのにスネイプは連れ去られた。誰にだ?」

どくん、どくん。心臓の音が煩い。
ダリルの言う事は正しい。けれど、それは間違っている。そんな事、あるはずがないのだ。

「スネイプが自分で――」
「君自身が証言しただろう。”スネイプは確かに死んだ”――奇跡的に息を吹き返したとしても、自力で逃げる事など出来なかったはずだ。ハリー、どんなに力を持った奴だろうと無理だ。屋敷を見ただろう? あれほどの血を流していたのなら、スネイプは造血薬や傷薬を使う事すらままならなかったはずだ。”誰か”がいた――そうでなければ辻褄が合わない」

本当はもっと早くにマルフォイの証言を得たかったとダリルが悔しげに言った。
終戦から二年。死喰い人の残党は粗方逮捕する事が出来たが、まだ逃げ続ける者達もいる。スネイプの真実はキングズリーがホグワーツに赴き、ダンブルドアの肖像画から計画の全てを聞いた。確かに自分が計画した事だとダンブルドアが明言したのだ。
スネイプの捜索を止める事はない。けれど最も優先すべきは、周囲に害を為す死喰い人達だ。今頃は追手を恐れて大人しくしているのだろうが、それがいつまで続くかも分からない。敵と分かっている者から捜索するとのキングズリーの判断は尤もだった。

納得出来なかったのはダリルだ。ダンブルドアの証言でスネイプがこちら側だった事を知った。だからと言って彼の罪が帳消しになる事にはならない。そんな事あっていいはずがない。マルフォイ親子に対する処遇もダリルには不満だった。何度もキングズリーに訴えかけ、それでも聞き入れてもらえなかった。納得出来るはずがない。

捕まえなければならないのだ。
罪には罰を――当然の事ではないか。

朝から晩までひたすらにスネイプを追い続ける事が出来れば良かったが、悲しい事にダリルも組織に属する身だ。与えられる仕事をこなしてからでなければ捜索など出来やしない。
スネイプが死喰い人と疑われていたままならば、ずっとそうしていられたのに。ダンブルドアが余計な告白をしてくださったおかげでこのザマだ。
仕事に追われ、合間を縫って目ぼしい所を探っていったが見つからない。ダリルは原点に立ち返って改めて考えてみた。

マルフォイが証言した。スネイプの居場所を知っていたのはマルフォイ夫妻とベラトリックスの三人のみだった。
ベラトリックスは戦いの最中で生命を落とし、夫妻は行方知れずの息子を探していた。スネイプの事など構っている余裕はなかった。戦いが終わってからは広間の隅にいたと証言していたし、確かにいたとロンやハーマイオニーを含めた目撃者達が証言した。つまり、ロンもハーマイオニーも広間にいたのだ。亡くなってしまったフレッドの亡骸の傍にいたと、ロンの家族達も証言している。

「君は寮に戻っていた――そうだろう?」
「はい……疲れていて、だから寮の部屋に……」
「君が来た事を”太った婦人”の肖像画が証言した。彼女は君を二度通したと言った。談話室に入る時と出る時だ」
「部屋に戻って寝てたんです。でも、二時間くらいですぐに起きてしまって……」

再び寝ようとして、眠れなくて。身体はくたくたに疲れていたのに意識だけが冴えていた。もう全て終わったはずなのに、何故こんなにも目が冴えているのだろうと思った事を覚えている。まるでまだ寝ては駄目だとでもいうかのように意識がはっきりしていて――そして漸くハリーは思い至ったのだ。

「スネイプを広間に運ぼうと思って……屋敷に行った時には、もう……」
「スネイプはいなかった」

頷きハリーは視線を足元に落とした。視界の端にテーブルの小瓶が映る。駄目だ。考えるな。そんなはずはない。

「君と、君の友人達と、マルフォイ夫妻、ベラトリックス――他にスネイプの居場所を知る者はいなかった。あの場に私もいたが、ヴォルデモートはスネイプを殺したと言っただけで、場所までは言っていなかった」

嫌だ、違う。違うんだ。俯いたままハリーは拳を握りしめ奥歯を噛みしめた。
間違っている。ダリルは間違っている。違う。そんなはずはない――けれど知っている。ハリーこそ知っている。ダリルが間違ってなどいない事を。

ポケットの中の小瓶を握りしめて強く目を瞑ったその時、ダリルの静かな声がするりと鼓膜を震わせた。

「リサ・桜井――彼女が最も怪しい」
「違う!!」

咄嗟に叫んだハリーは、けれど二の句を告げられない。疑っているからだ。ロンもハーマイオニーも広間で家族と一緒にいた。それを多くの人間が見ている。ハリーはグリフィンドールの寮にいた。”太った婦人”が証言してくれているし、ハリー本人だってそれを知っている。

「ぼ、僕が広間に行った時、彼女はテーブルに突っ伏して寝てました」

スネイプの元へ行って、消えている事を知って。広間に戻った時、彼女は確かにいた。寝てしまったのだとハーマイオニーが言った。

「ならばグレンジャーに聞けばいい」

そう言うや否や、ダリルは暖炉へ向かいフルーパウダーを投げ入れた。魔法省の魔法生物帰省管理部へと繋げ、仕事中のハーマイオニーを呼び出すと、炎の中からハーマイオニーがやって来た。仕事を邪魔された所為だろうか、不機嫌そうな顔をしている。

「ハリー? 何なの?」
「ハーマイオニー……実は、」
「リサ・桜井について聞きたい」
「リサ?」

目を丸くしたハーマイオニーが説明を求めてハリーを見つめてくる。視線から逃げるように顔を俯かせたハリーに溜息を一つ落としたダリルが経緯を説明した。先ほどの話を繰り返す間に、ハーマイオニーの顔がどんどん険しくなっていくのが分かった。

「貴方達、まさかリサを疑っているの? 信じられない。あの子は私達の大切な友人よ」
「そんな事はどうだっていい。現時点で彼女が最も怪しいと、そう言っている。君はロンと共にウィーズリー一家と一緒にいた。彼女は? リサはどこにいた?」
「リサは広間にいたはずだわ」

顰め面のまま答えるハーマイオニーに、ダリルも譲らない。

「君の意見じゃない。私が求めているのは正確な情報だ。君は見たのか? 彼女が広間で誰かと話しているのを見たか?」
「それは……いいえ、見てないわ。私はロンと一緒にいたから……でも、きっといたはずよ。どうしても疑うって言うのなら、彼女と話した人を探すべきだわ」
「いいや、ハーマイオニー。そんな時間はない」

ぴしゃりと言い放ちダリルはハリーを振り返った。

「マルフォイ夫妻は広間にいた。ベラトリックスは死んだ。ロンとハーマイオニーも広間にいた。君にも目撃者がいる――分かるだろう? アリバイが曖昧なのは彼女だけだ」
「でも、そんなはずないわ」

不安を滲ませたハーマイオニーがハリーを見る。二人に視線を向けられてハリーは益々顔を俯かせた。ポケットの中の小瓶を握りしめ、必死にリサではない理由を探す。見つかってくれればどれほど良いか。

戦いが終わりすぐに日本へ帰ってしまった事、両親を探すと言っていたのに別々に暮らしている事、苦手だったはずの魔法薬作りをしている事――どれもこれも、スネイプが一緒にいるからだと考えると、全て納得がいってしまう。こんな事、考えたくなんてないのに。

「ハリー……」

ハーマイオニーが泣きそうな顔で見てくる。彼女もハリーと同じことを考えているのだとすぐに分かった。
そんなはずはないと、ハリーがそう言ってくれるのを待っているようにも見える。

「ハリー、確かめるだけでいい」

ダリルが静かに言った。

「もしそうでなかったのなら、彼女を疑ってしまった事を詫びよう。彼女にも、君達にも……だが、確かめなければならない。スネイプを見つける事が我々の仕事だ」
「…………分かってます」
「ハリー!」

ハーマイオニーが泣きそうな声を上げた。分かってるよ。返した声はか細く頼りない。
確認。そう、確認するだけだ。スネイプがいない事を確認するだけ。リサが日本に帰ったのは両親を探す為で、一緒に暮らしていないのはリサの言う通り両親が戻りたがらなかったから。薬は、そう。ポンフリーが指示したから――どうか、そうであって欲しい。それ以外の結果なんて欲しくない。

けれど、何故だろうか。
泣きたいほどに、ハリーは納得してしまっている。

スネイプは、リサの所にいる。

確信にも似たそれ。ポケットの中の小瓶が、ぱきりと小さな音を立てた。