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パーティに行っていたリサが帰って来た。
てっきり帰宅は明日の朝になると思っていたが、予想外にも日を跨いで一時間程で帰ってきた。聞けば夕食も取らずに帰って来たのだと言う。

「だってね、聞いてくださいよ。あそこ四人でカップル出来てるじゃないですか。私の前で平気でいちゃつくんですよ」

平気で肩を抱き、寄り添い、頬にキスをする――砂を吐くかと思ったから逃げてきたと笑うリサに、スネイプはどんな顔をしたら良いのか分からず口を噤んだ。
想い人が目の前で恋人と仲睦まじくしているのを見るなど、嫌に決まっている。だからと言って慰めの言葉をかけるべきなのだろうか。そもそもリサはハリーの名前を口にしていないのだから、ここは”友人達”と一括りにして聞き流した方が良いのかもしれない。

スネイプの葛藤など知らず、リサはおにぎりをひょいと手に取り食べ始めた。スネイプの遅すぎる夕食だ。
二人分の食事を作るのであればちゃんとしたものを作るが、基本的に食に対して拘りのないスネイプである。本を読みながら片手で食べられるものをと考えた結果、おにぎりを三つ握っただけになってしまった。中身も先日リサが買ってきた昆布を詰めただけだから、ひねりも何もない。
読書に夢中になっていた所為ですっかり忘れていたのだが、作った時と何ら変わらずに皿にあるそれ。保存魔法をかけておいて良かった。

「先生、私がいないとご飯もまともに食べないんじゃないですか?」

呆れと揶揄を含む声に顔を顰めて鼻を鳴らす。余計なお世話だ。

「そういう君こそ、我輩がいなければまともな食事にありつく事も出来んではないか」
「お互い様ですね」

何が楽しいのか、上機嫌に笑うリサをちらりと見てから本に視線を戻す。ソファに寝そべってのんびり読書を楽しんでいたのだが、リサが帰って来たのなら片側を空けてやるべきだろう。渋々と起き上がろうとすれば、そのままで良いとリサがまた笑った。

「私ここで良いです」

ソファの後ろからにゅっと顔を出したリサがスネイプを見下ろしている。見下ろす側の気持ちは分からないが、見下されているスネイプとしては何だか落ち着かない。さり気なく本を上げてリサが見えないようにしても、もう活字を目で追うだけの作業になってしまった。内容が頭に入ってこない事に小さく溜息を漏らして起き上がると、「そのままで良いのに」とリサが残念そうに漏らした。

「見下ろす側になれて楽しかったのに」
「他人の読書する姿を眺めたって、楽しくも何ともないだろう」

残った最後の一つのおにぎりを薦めたが断られた。あちらでも色々つまんだからお腹いっぱいだと笑うリサに肩を竦めて最後の一つを頬張る。我ながら絶妙な塩加減だ。

「このままずっと見つからずに済むんじゃないかなーなんて思いました」
「不毛な足の引っ張り合いはまだ続いているのかね?」
「どうやら先生が生存しているという方向で捜索する事にしたみたいですよ。ハリーが”きっと生きてる”って言ったから、キングズリーさんが方針を定めたらしいんです」
「余計なことを」

吐き捨てて憎い男に似た”彼”を思い浮かべる。眼鏡の奥に潜む翡翠にどれだけ心を揺さぶられただろうか。あれほど焦がれたというのに、改めてもう一度目にしたいとは思わない。見たくないとすら思っているのだ。一体自分はどうしてしまったのだろうかと溜息を落とすと、隣に腰を下ろし麦茶を飲んでいたリサが励ますように笑った。

「大丈夫ですよ。日本に来たって一軒一軒訪ねて探すわけじゃないでしょうし、私が誘拐犯だなんて疑ったりしませんよ」

捜索の事を悩んでいるのだと思われたのか。とんだ勘違いだが、そういう事にしておこう。自分でもよく分からない心境の変化を伝えた所で、答えなど出るはずもないのだから。
ふと思い立ってスネイプはリサを見た。「何ですか?」と首を傾げながらリサもスネイプを見る。鏡を覗き込んだ時と同じような黒い目だ。厳密には微妙に色の差があるのだろうが、こうして見た限りではそんなに差がないように見える。自分の目よりもリサの目の方が優しく見えるのは顔立ちの所為か、それともお人好しな性格が目にも表れているのだろうか。

「…………えーと、」

リサが困ったように笑ったのを見て、スネイプは漸く自分がリサの目を凝視していた事に気付いた。ぱっと顔を背けて小さな謝罪を紡ぐと、困ったような声が返事をする。こうして隣に座る事などよくある事なのに、今に限ってこの距離が落ち着かない。苦い顔のまま咳払いをして立ち上がったスネイプは、空になった皿を持って逃げるように流しへ向かった。

「あ、先生」

そのまま部屋へ戻ろうとすると呼び止める声。平静さを保ったまま振り返れば、リサはポケットから羊皮紙を取り出してひらひら振った。

「これ、臨時でポピーに頼まれたんです。”なるべく早く”ですって」
「随分と薬の減りが早いな」

受け取った羊皮紙を確認しながら呟きを漏らす。この一年間薬を作っていて気付いたが、使用頻度がやたらに増えているのだ。授業で事故が起きれば大量の薬も必要になるが、その為に十分なストックを置いてあるはずだ。

「最近多いんですって。平和ボケしてきた生徒」
「嘆かわしい事だ」
「マクゴナガル先生が校長になって忙しくしてるから、厳しい先生がいないんですって。ほら、前は貴方もマクゴナガル先生もいたから……スプラウト先生やフリットウィック先生は貴方達ほど厳しくありませんしね」

スラグホーンに至っては問題外だ。さらりと毒を吐くリサに苦笑しながら研究室へと向かう。
寝なくて良いのかと問われたけれど、生憎まだ眠気はない。リストにある薬は手間のかかるものだから、早めに作り始めておいた方が良いだろう。

「”スネイプ先生が戻ってきてくれたら規律を乱す生徒が減るのに”って、マクゴナガル先生がぼやいてましたよ」
「”だから早くイギリスへ戻れ”と?」
「次それ言ったら怒りますからね。貴方の幸せがあそこに無いのなら”戻れ”なんて言いませんよ」

調合の準備をしていたスネイプはぴたりと手を止めた。振り返れば不満そうなリサの顔がこちらを見上げている。
彼女は気付いているのだろうか。だって、それではまるで、スネイプの幸せがここにあるかのようだ。じっとこちらを見るリサから視線を逸らして準備を再開しながら、スネイプはそっと口を開いた。

「君の言う”幸せ”とはどんなものだ?」
「そんなの分かんないですよ。ただ、何となく”あぁ、幸せだな”とか思う時があるじゃないですか」
「例えば、どんな時に?」
「どんなって……うーん、そうだなぁ……美味しいご飯を食べた時とか、」
「君に聞いた我輩が馬鹿だった。もう結構」

決して大食いというわけではないのに、食に対する欲が強すぎる。年頃の女がそれで良いのかと心配さえ覚えてしまうのだ。溜息を落としたスネイプに不満気な唸り声を上げたリサが、スネイプの手から材料とナイフを奪い取った。

「そりゃ、好きな人と一緒にいる時が幸せなんだろうなって思いますよ。でもしょうがないじゃないですか、私、そういう幸せ感じたことないです。失恋しましたから。他で考えたら貴方の作る美味しいご飯食べた時しか浮かばなかったんですよ」

悪いですか。どうせフラれましたよ。今日だって散々見せつけられましたよ。泣いて欲しいんですか。泣きますよ。先生のバカ――拗ねたような声が矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。スネイプは溜息と共に謝罪した。

「分かった、悪かった。そんなつもりで言ったわけではない」
「じゃあ答えてください。先生、今は幸せですか?」

自分が酷い顔をしているという自覚はあった。何て事を聞くのだとも思った。

「ちょっとくらいは楽しいと思ってますか?」
「……それは答えなければならないのかね?」
「どうしても答えたくないなら良いですけど……だって、気になるじゃないですか。ずっと一緒にいて楽しませてあげられないのかなーとか……私ばっかり幸せじゃ悪いなーって」

言葉を失うスネイプに気付くことなく、準備を終えたリサが材料を刻み始める。この同居人は、己の発言をほんの少しでも顧みた事はあるのだろうか。こんなの、まるで告白だ。リサにその気がないと分かっていても、言われたスネイプは落ち着かない気持ちになるし動揺だってする。

「先生、聞いてます?」
「…………聞いている」

聞きたくなんてなかったけれど。残念な事に聞こえてしまった。
さりげなく背を向けるスネイプに気付かないリサが返事を催促してくるのだが、正直それどころではない。

あぁ、くそ。心の内で吐き捨てて顔を顰める。深呼吸を繰り返して漸く落ち着く事に成功すると、今度はそこまで必死に落ち着こうとしていた自分の動揺ぶりに舌打ちを漏らした。情けない自分に腹が立つ。

けれど、それも仕方のない事なのだろうとスネイプは思った。
何せ、この二年間ずっと一緒にいるのだ。長く離れている時などリサがアルバイトに行っている時しかない。家の中に閉じ篭もったスネイプにとって、自分とリサしかいない。話し相手はリサで、テレビを除外すれば顔を見るのもリサだけだ。

人間とは順応する生き物である。悲しいが抗う事など出来やしない。
自分はもうあの頃のセブルス・スネイプとは別人なのだと気付かざるを得なかった。今のスネイプにはリサしかいないのだ。
極力言葉を交わさずにいれば、あの頃のままでいられただろうか。そうしていれば今も”彼女”が脳裏を占めていただろうか――今更だ。既に変化を自覚した今、過去の選択の誤りなど考えても何の意味もない。

大きな溜息を落としたスネイプに、リサが不満気な顔で振り返る。赤も緑も見当たらない黒髪と黒目を見て、また溜息。

「人の顔見て溜息つかないでくださいよ。さすがに傷付きます」
「つきたくもなる」

よりにもよって教え子だ。歳だって二十も離れているではないか。
間違いなど起こるはずがない。起こすつもりもない。けれど、今の自分には必要な存在なのだと自覚している。溜息などいくらついても足りないくらいだ。

「先生? どうしたんですか?」
「見れば分かるだろう。酷く落ち込んでいる」
「見れば分かります。理由を聞いてるんですよ、私何かしましたか?」

リサに自覚がないから質が悪い。
スネイプの方は自覚をしていて、困った事にそれを受け入れてしまっているのだ。仕方がない事だからと、まるで言い訳のような真似までして受け入れている――その事実に打ちのめされている真っ最中だ。リサを気遣う余裕などあるはずもないし、リサの疑問に律儀に答えるなど出来るはずがない。口に出せるものか。

「不満があるなら言ってくださいよ。直せる所なら直しますから」
「いや……違う、そういう事ではない」

そういう事ではない。不満など、この状況を受け入れてしまったスネイプが持つはずもない。

「今のままでいい」
「……なら、いいですけど……」

釈然としない様子のリサを見て、目を逸らして。咳払いを一つ。

「幸せかどうかは別として、おそらく、今の我輩には君が必要だ」

ぱちり。瞬きをしたリサを見て、スネイプは自分の言い方が不味かった事を悟った。

「ち、違う。そういう意味ではない! ただ、単純に、今の生活が必要だと考えたからであって――笑うな!」
「だ、だって……! 先生、顔真っ赤……っ、」
「……!」

腹を抱えて笑い出すリサから目を背けてまた舌打ち。言われてみれば顔が熱い。
くそっ。吐き捨てると笑い声は一層大きくなった。

「大丈夫ですよ、一緒にいますから」

一頻り笑った後、目尻に溜まった涙を拭いながらリサが言う。
自分だって顔が赤いではないかと言おうとして、スネイプは口を噤んだ。教えてやらないのは、散々笑ったリサへの小さな仕返しだ。近い将来、彼女が自覚した時には今度はこちらが盛大に笑ってやろう。