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思えば、彼女が屋敷にやって来たあの時から驚かされてばかりだ。

「これ、まるで夫婦ですね」

ぐつぐつと鍋が煮え立つ音に混じって聞こえた声。スネイプはぴたりと動きを止めて声の主へと視線を向けた。こちらに背を向けた声の主が雛菊の根を均等に切り刻んでいるのが見える。
スネイプは微かに笑った。今更何を言っているのかと、呆れを含んだそれにリサも笑う。

「まさか、今気付いたのかね?」
「ついさっき気付いて、今驚いてるところです。手元が狂いそう」
「根は均等に」
「分かってますよ――はい、終わりました。次は何をしますか?」

トレイに移した根を受け取り、スネイプは次の指示を出した。根の具合を確認していると、萎びたいちじくを手にしたリサがくふくふと笑っている事に気付く。どうしたのかと問えば笑いを噛み殺そうとして殺しきれないリサが肩を震わせながら首を振った。

「フリルのエプロンを付けた先生を想像したら面白くて」
「気味の悪い妄想をするな」

何故そんな気色悪い姿を想像したのかと吐き捨てると「男女逆転してるなと思って」とリサが笑う。外に働きに出るリサと家事をこなすスネイプ――言われてみれば確かにそうだが、だからと言ってつけたこともないエプロン姿を想像する必要など皆無だ。

「嫌になったかね?」
「まさか。美味しいご飯が食べれて幸せです」

食欲の塊め。心の内で呟いてスネイプは笑みを浮かべた。
おかしな事に、嫌ではないと言われて安心している自分がいる。まだ暫くはこのまま逃げ続ける事が出来るという事に安心したのだろう。

「それに、楽しいですしね」
「――そうか」
「先生は? どうですか?」

返ってきたのは何てことはない普通の問いかけだ。リサが幸せで楽しいと思っていて、スネイプはどうかと尋ねている。話の流れを考えても何らおかしいところはない。だというのに、何故だろうか。思わず答えに詰まり、それを誤魔化すように咳払い。まるで動揺しているみたいではないか。

「魔法省に追われている身にしては、頗る良い生活を送っていると言えるだろう」

今もなお逃亡を続けている死喰い人達が、スネイプと同じような生活を送っているとは到底考えられない。リサのような奇特な人間など、そうそういるものではないのだ。スネイプは視線をちらりとリサに向け、すぐに鍋へと戻した。まさか全て終わってからこのような平穏を手に入れる事になるとは夢にも思わなかった。ダンブルドアにさえ予測出来なかった事だろう。

「いちじくの皮、剥き終わりました」
「あぁ」

先ほど入れた鼠の脾臓が完全に溶けてなくなったのを確認し、スネイプは鍋の様子を見ながら刻んだ根を少しずつ流し入れた。いちじくを入れるように言えば、やって来たリサが皮を剥いたばかりのいちじくを軽く握り潰しながら鍋の中へと落としていく。
こんな風に誰かと一緒に調合をするのは学生以来だ。鍋を覗き込み満足気に笑うリサを見ながらスネイプは思う。教師として長くホグワーツに在籍していた頃にだって一度もなかった。それが、今になって――考えるな。軽く頭を振ってスネイプは鍋の中で緑色へと変わっていく薬を見つめた。

「――ねぇ、先生」

不意にリサが発した声。常になく真剣なそれに虚を衝れながらも返事をすれば、どこか苦い顔のリサがこちらをじっと見つめていた。視線がかち合うと誤魔化すようにリサが笑う。何とも下手くそな笑い方だと思った。

「前に言ったでしょう、貴方を匿って私に何の利があるのかって……覚えてますか?」
「忘れられると思うかね? 猫と同じだと言われたのは初めてだ」

鍋に視線を落としてリサが笑った。緑色の液体がぐつぐつと煮立っている。

「ミケの事もそうなんですけど――あ、ミケって猫の名前です――私も、離れたかったんです」

日本に帰ってきたかった、帰る口実が欲しかった、けれど理由もなく帰るなんて出来なかった――鍋を見つめたまま話すリサはどんな表情をしているのだろうか。きっとスネイプが見たことのない顔をしているのだろうと思った。

「失恋しちゃって……あ、ここ笑うとこです」

この状況でどうやって笑えと言うのだ。心の内で吐き捨ててスネイプは鍋の中にヒルの汁を数滴垂らした。翡翠色だった液体が明るい黄緑色へと変わっていくのを眺めていると、隣で鍋を見つめていたリサが吐息を漏らす。
唐突にスネイプは気付いてしまった。気付いて、それが正解なのだと理解して。苦い気持ちになりながら鍋を掻き混ぜた。まるでそれまでの色を掻き消すかのようなそれにリサが微かに笑う。

「あの時はそんな事考える余裕なかったけど、改めて考えてみると、そうなのかなーって」
「我輩を利用したと?」
「だって、そうじゃないと無謀すぎません? お金もなくて、仕事もなくて……貴方は動けないし、親に援助してもらわなかったら私達とんでもない事になってましたよね」

だから、もしかしたら。
考えたことはなかったけれど、もしかしたら――失恋の痛みから逃げたくてスネイプを利用したのではないか、なんて。自分の事なのによく分からないとリサが笑う。いつもと同じ調子で、いつもと違う下手くそな作り笑いで。

「…………二年近く共に過ごしてきた我輩に言わせれば、」

静かに口を開けばリサがスネイプを見た。鍋の中はもう完全に黄緑色に変わっていて、先ほどまでの翡翠に似た色はどこにも見当たらなかった。”彼女”と、”彼女”から受け継いだ”彼”の色はもう完全に消えていた。

「君はどうしようもないお人好しで、考え足らずの愚か者だ。自分がどれだけ重大な罪を犯したのかも分かっていない……無謀? まさにその通りだ。君はそういう人間だ」
「先生、そろそろ泣きそうです」
「だが……だからこそ、君はそんな奴ではない」

ひゅっとリサの喉が鳴った。
そんな奴ではない。スネイプは知っている。この二年、朝から晩まで殆どずっと一緒にいたのだ。知っているに決まっているではないか。
ぐっと眉根を寄せ、唇を引き結んだリサが泣くまいと必死に堪えている。馬鹿な奴だ。呟いてスネイプはそっと手を伸ばした。アジア人特有の黒髪をくしゃくしゃと撫でる手はぎこちない。当然だ。誰かの頭を撫でる機会など無かったのだから。

伝わるだろうか。必死に言葉を探しながらスネイプは発していく。
リサが自分の事が分からないと言うのなら、少しばかりリサを知っているスネイプが教えてやれば良いだけの話だ。

「酷い顔だ」
「が、まん、じでる、ですよっ」
「出来ていないがな」

呼び寄せたタオルをぐしゃぐしゃの顔をに押し付けてやると、くぐもった唸り声が聞こえてくる。構わずタオルで涙を拭ってやれば悲鳴が上がった。

「いだいっ!」
「我慢しろ。元はと言えば、君が不愉快極まりない話をするのが悪い」

よりによって”奴”だなんて。気に入らない。気に入らないに決まっている。
決して短くない時間を共に過ごしている相手が、またあの顔に心を奪われたという事実が。気に入らない。全くもって気に入らない。自分の周りの女性達は”奴ら”に想いを寄せる決まりでもあるのだろうかと疑いたくなるほどだ。

「告白はしてないんです。本当にそうなのかもよく分かんなかったし……ジニーとキスしてるの見た時に気付いたんですよ、可哀想だと思いませんか?」
「そんな話を聞かされている我輩が可哀想でならない。その話はまだ続くのかね?」
「もう終わりですよ。気付いてすぐに失恋したって話だもん」
「泣くほど想っていたのなら告げれば良かったではないか」
「それ、貴方が言いますか」
「黙れ、この話は終わりだ」

矛先をこちらに向けられては堪らない。さっさと背中を向けて部屋を出るとリサが後からついてくる。後ろで笑っているような気配がしてスネイプは舌打ちを隠さず漏らした。笑い声が大きくなった。

「その笑いを、止めろ。今すぐにだ。さもないと――」
「減点? それとも罰則ですか?」

楽しげに笑うリサに目を眇め、酷薄な浮かべる。リサの顔が一瞬で引きつった。

「君の夕食は抜きだ」
「ごめんなさい!! 謝りますから、それだけは……!」

縋りついて謝るリサは、もうすっかりいつも通りだ。
それを見たスネイプも、漸く胸の内につかえた何かが取れたような気がする。

「先生! どうか! お願いですから!」
「っ、は、離れろ馬鹿者!」

危機感と羞恥心を今すぐ拾って来い。
しがみついて謝り倒すリサにあっさり降参してしまった事は、セブルス・スネイプ一生の不覚である。