クリスマスの夜、隠れ穴でのパーティを終えて帰って来たリサは、キッチンに立つスネイプをぼんやり眺めていた。鍋を掻き混ぜる後ろ姿はまるで魔法薬を調合している時のようで、こっそり笑みを漏らすと耳聡いスネイプが「何だ」と顰め面で振り返る。
「薬を作ってるのかご飯を作ってるのか分かんないなーと思って」
「残念な事に、魔法薬ではこのような匂いにはならん。――何かあったのか」
「どうして?」
「自覚がないのか」
首を傾げるリサに、スネイプが鍋へと向き直りながら何でもない事のように言う。
「おかしな顔だ」
「失礼な人ですね」
己の頬を押し潰しながら言えば、振り返らないまま「言いたくないなら言わなくていい」と素っ気なく返された。あのスネイプが誰かを気遣うなんて、学生時代の頃は考えられなかった。リサが知らなかっただけなのか、スネイプが変わったのか――スネイプの背中をじっと見つめながらリサは溜息を落とした。
「別に何があったってわけじゃないんです。ただ……会わない間に変わっちゃったなぁって思って。お互いに近況報告したんですけど……みんなの間では当たり前の出来事を私は知らないから、何て言うか、遠く感じちゃったというか……話題についていけなくて、ちょっと寂しかったなーなんて」
言い終えて気付く。これではスネイプを責めているようではないか。慌てて「先生を責めてるわけじゃないです!」と声を上げれば、微かに笑ったスネイプが分かっていると頷く。ホッと息を吐いてリサはスネイプの隣に並んだ。鍋の中では恐ろしい色をした魔法薬ではなく、真っ白なクリームシチューが美味しそうな匂いを漂わせている。
「そろそろ国外を探すそうですよ」
「この極東の地へ辿り着く日も来るのだろうな」
「今の所はイギリス周辺の国から探すみたいですけど……難航してるみたいです。先生死亡説を主張するグループと生存説を主張するグループとで揉めてるらしくて」
「ご苦労なことだ」
人参をすくい上げ、竹串を通しながらスネイプが心の篭もらない声で呟く。リサは肩を竦めた。
「先生死亡説を主張するグループは、探すのは先生じゃなくて先生の遺体を連れ去った人物だって言ってるらしいんです。でも生存説を主張するグループが、貴方は絶対に生きているはずだから世界中を隅々まで探すべきだって」
くだらない。スネイプがまた呟いた。
くだらない。全くもってその通りだ。確認しようのない事についてあれこれ主張し合うなど時間の無駄でしかない。尤も、彼らが互いに足を引っ張り合ってくれているおかげで、スネイプは悠々と暮らしていられるのだ。いっそ、ずっとこのまま互いの足を引っ張り合っていてくれて構わない。
「それで? 君の友人達は何と言ってるのかね?」
「”きっとスネイプは奇跡的に一命を取り留めて逃げたんだ”ですって」
「まるで化け物扱いだ。あの状態でどうやって動いたと思うんだ?」
「貴方なら出来てもおかしくないと思ったんでしょうね。仕方ないですよ、貴方に教わった人なら誰だってそう思います」
笑いを隠しきれないリサをじとりと睨んでスネイプが鼻を鳴らした。
「まぁ、そんな感じなので捜索は難航してるようですよ。探す側がバラバラで、キングズリーさんも困ってるみたい。早く何とか纏め上げて誘拐犯を探し出したいってぼやいてたって」
「我輩は君に拐かされてしまったのかね?」
「誘ったってついて来ないじゃないですか、貴方は。連れ出したのは馬鹿な教え子ですけど、誘ったのは貴方ですよ」
くつくつ笑うスネイプにリサも笑みを零しシチューを覗く。まだなのかと問えばもう少しだと返された。
「あの頃は貴方が笑うなんて思っても見ませんでした」
「Miss.桜井。君は我輩を化け物だと思っていたのかね?」
「いっそロボットだって言われた方が信じられると思ってました。授業と減点と罰則しか出来ないのだとばかり」
「失礼な奴だ」
そう言いはしたものの、スネイプとて自覚している。そのたびに不思議に思うのだ。隣で嬉しそうにシチューを眺める同居人がどうしてスネイプを助ける気になったのだろうか、と。答えは既にもらっているが、納得するには少々弱い。もし本当に彼女の言う通りの理由なのだとしたら――何度だって言う。どうしようもないお人好しだ。
「テーブルは?」
「片付いてますよー」
早く食べたいですと笑うリサに皿を出すようにと指示をする。元気な返事をしたリサはシチュー、シチューと歌いながら食器棚の戸を開けて皿の用意を始めた。
「大袈裟な奴だ」
「貴方の作るシチューがどれだけ貴重か知ってますか?」
「君の作るシチューより貴重でないことは確かだ」
本の通りに作ったのだから、おそらくスネイプの作るシチューは世間一般的なそれと何ら変わらない味になっているだろう。リサの作るシチューこそ、ある意味では貴重な代物である。
尤も、この数ヶ月でリサもだいぶマシな調合が出来るようになった。改めて挑戦してみれば、それなりのものが作れるのだろうとは思う。仕事を奪われるのは癪なので、作らせる気は毛頭無いのだけれど。
「私だって、おにぎりなら美味しく作れますよ」
「お粥よりマシである事を願うばかりだ」
「あぁ……あれ本当に酷かったですもんね」
自分の作ったお粥の味を思い出したリサが笑う。笑い事ではない。吐き捨てたスネイプの顔は苦い。
「てっきり毒を盛られたのかと」
「まさか! でも先生が料理の出来る人で良かったです。毎日美味しいご飯が食べられるんですもん」
へらりと笑うリサに意図せず溜息が漏れる。
スネイプの作るご飯など、食べる状況になりたくなかっただろうに。
「欲がないな、君は」
「ありますよ。明日のお昼はオムライスが食べたいです」
「訂正しよう。食欲しかないな、君は」
すぐそこにある額を小突いてやれば、きょとんと目を丸くしたリサがまたへらりと笑う。
何がそんなに面白いのかと訝しむスネイプに、リサはくふくふ笑いながら言った。
「先生に小突かれるのも貴重ですねぇ」
笑うリサと、緩く握られた己の拳とを交互に見て。
「……さっさとパンを焼きたまえ」
スネイプはさりげなく拳を隠しながらぶっきらぼうに言った。
リサ・桜井は不思議な奴だとスネイプは思う。
教師として接してきた時には彼女に興味を覚えた事などなかったが、こうして二人で暮らしていると自然と興味も湧いてくる。
「当然か」と呟いてスネイプは洗ったばかりのシャツを手に取った。ハンガーにかけ、飛ばされないように上のボタンを閉じて皺を伸ばす。魔法を使えば勝手にやってくれるが、幸か不幸か時間はたっぷりとあるのだ。
全然外に出ていないとリサは言ったが、その気になればスネイプは好きに外出する事が出来る。己に透明呪文をかければ誰にも見られないし、箒がなくても自在に空を飛ぶ事が出来るのだからどこへだって行く事が出来るのだ。それをしない理由なんてただ一つだ。インドア派なのだ、スネイプは。
こうして洗濯物を干していればベランダで陽の光を浴びる事が出来るし、窓を開けてほんの少し手を加えれば新鮮な空気が家を通って行く。ホグワーツでは一日の大半を地下牢で過ごしていたスネイプだ。苦労など有るはずもない。リサが気にしすぎているだけで、スネイプにとって今の生活は何ら苦ではないのだ。生徒達に煩わされる事もなければ採点に追われる事もない。気晴らし程度に調合をして、リサの勉強に付き合って、他愛ない話をして――本人を前にして言うのは憚られるが、正直、とても快適な生活である。家に置いてある小説を読んだり、テレビを流し見たり。以前のスネイプでは考えられない穏やかで退屈で平和な日々を送っている。
全てが終わり魔法界を逃げ出したスネイプは、自分がどんなに卑怯者なのか理解している。多くの者が傷つき、悲しみ、それでも立ち上がろうとしているというのに、自分一人だけ逃げたのだ。”彼女”の忘れ形見を助けたのはただの自己満足だ。責任でも何でもないとスネイプは思っている。
”逃げたって良いじゃないですか”
大概お人好しだ。甘すぎる同居人を思い浮かべてスネイプは苦く微笑んだ。
因果応報――スネイプはただ報いを受けただけで、負った傷に対してリサが心を痛める必要などなかった。何もかも自分が悪いのだとスネイプは知っていた。
”貴方が息を吹き返したのは、貴方が今度こそ自分の為に生きる為だって――そう思っちゃいけないんですか?”
泣きじゃくりながらも必死に訴えたリサに、スネイプは何も言えなかった。
適当に相槌を打って話を終わらせる事だって出来たはずなのに、それすら出来なかった。情けない己に溜息しか出ない。
どうしようもない。彼女に送った言葉を呟いてスネイプは首を振った。
どうしようもないほどお人好しで、愚かで。リサ・桜井はスネイプの嫌いなタイプの人間だ。偽善者だと以前のスネイプなら彼女を嘲り罵った事だろう。
それなのに今それが出来ないのは、スネイプも彼女と同じくらいどうしようもない人間だからなのかもしれない。
粗方の洗濯物を干し終えたスネイプはカゴの下に残ったネットを見下ろして低く唸った。スネイプがリサを不思議だと思う理由の一つだ。家族でもない、恋人でもない男に下着を見られて平然としているリサが不思議でならない。それともスネイプが知らないだけで、世の女性は皆そうなのだろうか?
すぐそこにある杖を手にして軽く振れば、ネットが開いて残った洗濯物が独りでに角ハンガーの内側へと滑りこんでいった。さすがに自分で干そうとは思わない。リサが気にしていなくとも、スネイプが気にするのだ。
洗濯を終えてリビングへ降りていけば、ソファの背もたれからひょっこり突き出た頭がぐらぐら揺れているのが見えた。朝に弱いリサは、スネイプが洗濯を終えて降りてくるといつもこうして頭をぐらぐらと揺らしている。もうすぐ力尽きて倒れるのだろう。何となく眺めていれば、とうとう力尽きたリサの頭が背もたれの向こうに消えていった。いつも通りだ。
キッチンへ向かう際にちらりと視線をやれば、クッションを抱きしめて眠るリサの幸せそうな寝顔が見える。
「いい夢を」
零したスネイプは自身が優しく微笑んでいた事に気付かない。