10


「あ、満月」

カーテンを閉めようとした時に見えた真円。呟いたのは無意識だった。
ホグワーツに送る薬瓶を箱に詰めていたスネイプが顔を上げた。

「――今は誰かが薬を作ってやってるのか?」
「え?」
「ルーピンだ。脱狼薬を誰かが作っているのだろう?」

さも当然であるかのように尋ねられて。息を呑んだリサはスネイプの顔を見てしまったと思った。

「…………死んだのか」

答えられないリサから目を逸らし、薬を詰めたばかりの箱を見つめたスネイプが「そうか」と呟く。
スネイプと共に暮らすようになって一年半。あの戦いで誰が死んだのかスネイプが尋ねてくる事はなかったし、リサも自分から話さなかったからスネイプが知らなくて当然だ。
けれど、スネイプの驚いた顔がショックを受けていたように見えたから。

「…………ごめんなさい」

リサは小さな小さな謝罪を落としてソファに座った。そんなリサの意図を察したスネイプが静かに言葉を待っている。

「…………全員は把握してないんです。ずっと分霊箱を探してたから……」
「分霊箱?」

あぁ、そう言えばスネイプは知らないのだと気付いて。リサはスネイプに全てを語った。
ヴォルデモートが学生時代に己の魂を分けた事、魂の欠片が入った媒体――分霊箱を全て破壊しなければヴォルデモートを完全に滅ぼす事が出来ないという事。ヴォルデモートが”あの夜”に跳ね返った死の呪文で死ななかったのもそれの所為だと話すと、俯くリサの視界の端でスネイプが拳に力を篭めた。

「ダンブルドアが言っていた。闇の帝王の魂の欠片がポッターに付着していると……ポッターが生きている限り闇の帝王が死ぬことはない、だからこそポッターは帝王自身の手によって死ななければならない……ポッターも分霊箱だったのか?」
「そうみたいです。”あの夜”に生きていたハリーに魂の欠片が入っちゃったとか、そんなような事を言ってました……先生から記憶をもらって、ハリーは自分がどうするべきか知ったみたいで……私達にも何も言わずに一人でヴォルデモートの元へ行っちゃったんです。あいつらが城にやって来て、捕まったハグリッドがハリーを抱きかかえてて……でも、死んでなかったんです」

死にかけたけれど死ななかった。ハリーが言っていた事は難しくてリサにはよく分からなかった。ただ、ヴォルデモートが死の呪文を唱えた事で、ハリーの中にいたヴォルデモートの魂の欠片が消えたのだと言っていた。

「ルーピン先生もトンクスも亡くなりました……フレッドもコリンも、他にもたくさん……」

数える事も出来なくて。広間に横たえられた人達を確認する事すら怖くて。思い出すだけで滲んだ涙を飲み込んでリサは話を続けた。ヴォルデモートが求めた最強の杖の事、杖の忠誠心の事――ハリーがヴォルデモートを滅ぼしたこと。

話し終えて暫くスネイプは無言のままだった。自分の中でうまく消化させようとしているのだろう。目を閉じたスネイプの眉間に皺が深く刻まれている。

「良かったのか?」

目を開けたスネイプが感情の読めない顔でこちらを見ている。僅かに首を傾げれば、まるで自分を嘲っているかのようにスネイプが薄く嗤った。

「前に言った通りだ。我輩の所為で多くの者が死んだ――それなのに、君は我輩を助けた」

そんな事をする必要はなかった。そうするべきではなかった。顔を歪めたリサにスネイプが続ける。

「裁かれるべき我輩を助けたばかりか、逃した君まで犯罪者ではないか。罪人の願いなど聞き入れるべきではなかった」
「何もかも自分の所為だって言うんですか?」
「何もかも我輩の所為だ!」

スネイプが声を荒らげた。顔を歪めたスネイプが立ち上がりリサに背を向ける。

「そうでなければ誰に責任の所在があると言うのだ?」
「ヴォルデモートですよ!! 全部あいつが悪い――」
「加担した我輩も同罪だ。力を求めこの手を汚した……君の大事な親友が両親を喪ったのも、君の友人が死んだのも全て――」
「フレッドを殺したのはベラトリックスだわ! ウィーズリーおばさんが敵を取った! ――こっちを向いてください!」

立ち上がりスネイプの腕を引くが、スネイプは頑としてこちらを見ようとはしない。そんなの卑怯だ。今更拒絶するなんて、そんなの赦されるはずがない。

「ハリーの両親を殺したのはヴォルデモートだし、居場所を教えたのはワームテールだった! 貴方は予言を伝えただけでしょう? ハリーだと考えたのはヴォルデモートの意思で、貴方がそうさせたわけじゃない!」
「だから我輩には何の罪も無いと? 馬鹿な!」
「確かに貴方にだって責任はあります。でも十分果たしたじゃないですか! 貴方のおかげでハリーは生きてる! それじゃダメなんですか? 貴方がいなければハリーは生きてなかった!」
「我輩がいなければ死なずに済んだ!!」

叫んだスネイプがハッと息を呑む。バツの悪い様子で腕を振り払い、顔を逸らすスネイプが誰の事を言っているのか、ハリーから全て聞いたリサは知っている。だからこそ悔しいと思う。何故そう思うのか分からない。ただ、悔しくて、酷く悲しかった。

「…………貴方は、もう十分過ぎるほど罰を受けたじゃないですか……」

そっと袖を掴むと息を呑んだスネイプがリサを振り返った。涙を溜めて顔を歪ませるリサに、きっと知られている事を悟ったのだろう。顔を歪めたスネイプの袖をぎゅっと掴んでリサは俯いた。涙がぽとりと床に落ちた。

「ずっと苦しんできた貴方に、どうしてこれ以上罰を受けろなんて……もう十分じゃないですか……」
「…………」
「ダメなんですか? 貴方は生命を懸けて戦った。貴方が息を吹き返したのは、貴方が今度こそ自分の為に生きる為だって――そう思っちゃいけないんですか?」

スネイプは何も言わない。

「逃げたって良いじゃないですか。貴方はもう十分に罰を受けたし罪を償いました。楽しんだって良いじゃないですか。自由に生きたって良いじゃないですか……幸せになったって、良いじゃないですか」

ぼろぼろと溢れる涙を拭いながら、反対の手は決して放すまいとスネイプの袖をぎゅっと掴み続けている。
悲しい。だって、もう十分だ。周りが何と言おうとスネイプは責任を果たした。罪を償った。罰を受けた。生命まで投げ打ったこの人に、これ以上何を望めというのだ。

「…………君が泣く事はない」

小さな小さな声を落として、スネイプの手が袖を掴んだままのリサの手に触れた。優しく叩く手に促されてそっと手を放すと背を向けたスネイプがリビングを出て行く。一人きりになった部屋で涙を拭って、鼻をかんで、リサは深呼吸を繰り返した。
泣くべきではなかった。気を遣わせるべきではなかった。
大きな大きな溜息を吐いてソファに沈み込む。自己嫌悪の嵐だ。ツンとする鼻が恨めしい。天井が滲んでいる。悔しい。

明日顔を合わせた時、何と言えば良いだろうか。どんな態度を取れば元通り話せるようになるだろうか。
ぼやける天井を見上げながら、リサはまた溜息を漏らした。




翌朝、リサはスネイプと顔を合わせる事が出来なかった。何と言ったら良いのか分からなかったし、どんな顔をすれば良いのかも分からなかったからだ。いつも通り、いつも通りと言い聞かせながら出した挨拶は、いつもよりほんの少し高い声になってしまった。それに対するスネイプの返事はいつもと同じで、スネイプの凄さをこんな所で思い知る破目になった。

残暑の残る時期だ。天気予報では今日はまた真夏日に逆戻りだと言っていた。秋なんだから涼しくなってくれればいいのにと思いながら、リサは部屋へ戻り再度着替え直す。外は物凄く暑いのだろう。三十度を超えると聞いては七分袖なんて着ていられない。

「行ってきます」
「あぁ、気を付けて」

いつもと変わらない声を背中に受けながら家を出る。既に暑かった。帽子を被ってくれば良かったと思ったが仕方ない。自分の未熟さを痛感させられる場所にいたくなかった。

蒸すような暑さとじりじり焦がす太陽から逃げるように客が入店してきた。申し訳ないことに店内の温度は二十度設定だ。店に入ってきた客達がもっと涼しいと思ったとがっかりしているのがよく分かる。
アイスや冷たいドリンクが飛ぶように売れた。ついでにおにぎりやデザートも買って行ってくれるから、店にとっては歓迎すべき気温なのだろう。レジを打つリサにとっては、行き帰りが暑い上に客足が増えて忙しくなる。それにも拘らず給料が上がらないからちっとも嬉しくない。

漸く太陽が鳴りを潜め始めた頃、四十五分間の休憩時間となった。昨夜あんな事があったというのに弁当を作ってくれるスネイプの仕事ぶりには感服する。昨夜の残りにサラダを加えただけの簡単なものだが、綺麗に敷き詰められたおかずを見ると溜息しか出てこない。

「店長」
「うん?」

隣で仕事をカタカタとキーボードを叩く店長に話しかければ、振り向いた店長が弁当を見て「美味そう」と声を漏らした。

「リサちゃんの弁当っていつも美味そうだよね」
「ありがとうございます。あの……えーとですね、人と仲直りするのってどうしたら出来ますかね」

ぱちくりと目を丸くした店長がじっと見てくる。僅かに距離を取りながら何ですかと返せば、ニヤリと笑った店長が人差し指を立てた。

「男だ」
「まぁ……でもそういう関係じゃないです」
「何だ。それで、仲直りしたいの?」
「……そう、ですね。前のように戻りたいって思うんですけど、何て言ったら良いのか分からなくて」
「”ごめんね”じゃ駄目なの?」

ごめんね。呟いてリサは首を振った。

「言った事は本心なんです。謝るって事は、私が言った事を全部否定しちゃうような気がして……」
「じゃあ簡単だよ」

笑う店長を見て。リサはぽかんと口を開けた。

「そう言えば良いだろう? ”私は思った事を言っただけ、でも貴方が嫌な思いをしたならごめんなさい”」
「……そ、か……そう、ですね」

そうか、それで良いのか。あっさりと出た答えに驚きながら、リサはほんの少しだけ笑った。店長すごい。思わず漏らした呟きに、四十を過ぎたばかりの店長は「もっと褒めて」と胸を張り嬉しそうに笑った。

アルバイトを終えて店を出ると、夜だというのに酷く蒸し暑い。
買ったばかりのアイスが溶けない内にとリサは急いで家へ向かった。早く、早く帰らなければ。アイスを渡して、ちゃんと思いを伝えて謝るのだ。スネイプの反応を思うと不安がこみ上げてくるが、だからと言ってこのまま逃げ続けるわけにもいかない。

歩く足は次第に早くなり、終いには走り出していた。交差点を渡り、小学校の脇を通り抜け、公園を通り抜けようと足を踏み入れる。運動不足だ。足を止め、すっかり上がってしまった息を整えながら歩き出す。早く帰ってスネイプと話をしよう。公園を出てまた走り出せばすぐに着く。アイスの入った袋を握りしめ、再び走り出そうとしたその時――、

「夜は公園を通るなと言っただろう」

闇の中から聞こえた声。驚きながら周りを見渡せば、ある一点でリサの視線が止まった。ぐにゃりと歪んだ景色の向こうからスネイプが姿を現した。明らかに怒っている。

「いくら治安が良いとはいえ、用心するに越した事はないと言っただろう。まさかと思って来てみたが……まったく、君はほんの少しくらい警戒心というものを持つべきだ」
「……心配、してくれたんですか」

ぽつりと零せば途端に苦い顔をしたスネイプが顔を背ける。仕方ないだろう。返ってきた声も苦々しかった。

「君が他人の心配ばかりしているからだ。昨日の事だってそうだ。我輩の事で君が思い悩む必要などこれっぽっちもないというのに。他人の心配をする暇があるのなら、もっと自分の心配を――桜井?」

ぶつぶつと不満気に愚痴を漏らしていたスネイプが驚いた声を上げた。すぐそこにいるはずのスネイプの姿が滲んで見えない。

「……君が泣く事はない。そう言っただろう」

苦い声が降ってきて、リサは漸く自分が泣いている事に気付いた。涙を拭うとアイスの入った袋がガサリと音を立てる。あぁ、溶けてしまったかもしれない。せっかく買ったのに。

「しんぱい、しますよ……だって悲しいじゃないですか……もう全部終わって、みんな前に進もうとしてるのに、どうして貴方だけが辛い思いをしなきゃなんないんですか?」
「……それは我輩の問題だ」
「そんなの悲しい……私がいやなんです。死ななきゃ罪を償えないんですか? 先生はずっと頑張ってきたのに、まだ足りないんですか?」
「…………それを決めるのは我輩ではない」
「じゃあハリーに会えば良いのに! 逃げたからダメだったの? 私が先生を逃さなければ罪を償えたの? 私が……っ、」

涙が止まらない。昨日あんなに泣いたのに。
私の所為なのだろうか。嗚咽を漏らしながらリサは思った。あの時スネイプが生きている事を他の人達に報せていれば、今頃スネイプは罪を償って前に進めていたのだろうか。

「――あの時、君が誰かに報せていれば……我輩は自分で生命を断っていた。どんな手を使ってでもそうしていただろう」

だから君が自分を責める必要もない。我輩の事で君が心を痛める必要もない――それは完全な拒絶だ。
分かっている。スネイプの声がいつもより優しいという事くらい気付いている。リサの為にそう言ってくれているのだと分かる。けれど、それはスネイプが一人で苦しみ続けるという事だ。そんなの嫌だ。一緒に暮らしていて、ほんの少しも心を癒してあげられないなんて。

「わたしはっ、あなたに幸せになってほしいんです……!」

朝から晩までずっとそうじゃなくたっていい。辛い時があったっていい。苦しい時があったっていい。それが生きているという事だ。ほんの少しでいい。ほんの一瞬でいい。ふとした時に幸せを感じる事が出来るのならそれで良い。ほんの一瞬でも楽しいと思える時があるならそれで良い。

「ハリーのママだってきっとそう思ってくれてます」
「……、」
「会ったことないから分からないけど、だってそうでしょう? あのスネイプ先生が好きになった人だもん、優しいに決まってるじゃないですか」

想像することしか出来ないけれど。温かくて、優しくて、心の強い人だと思うから。そんな人なら、生命をかけてハリーを護ったスネイプの幸せを願ってくれているはずだ。そう思ったって良いじゃないか。

「…………ごめん、なさい」

ぐすぐすと鼻を啜りながら謝るリサにスネイプは何も言わない。

「でも、私は、そう思う、から……いやなおもい、させて、ごめんなさい」

予定ではもう少し上手く話すはずだったのに。結局また泣き喚いてしまった。落ち着きたくて深呼吸を繰り返しているのに、ひっく、ひっくとしゃくり上げるたびに涙がこみ上げてくる。

「…………いや」

そう呟いたきり黙り込んだスネイプがリサの手首を掴む。暑さの所為だろうか、スネイプの手のひらは熱かった。
手を引かれたまま無言で歩き出すスネイプにリサも足を進める。いい加減治まってくれればいいのに、静かな夜道にリサの喉が鳴らすひっく、ひっくという音と鼻を啜る音が響く。恥ずかしいことこの上ない。

「……だれかに、みられちゃいますよ」
「あぁ……そうだな」

相槌を打つくせにマントを被ろうとしないスネイプの背中をぼんやり眺めていると、あっという間に家に到着した。

「……アイス、溶けちゃった」

もう一度凍らせれば食べられるだろうが、味は格段に落ちるだろう。せっかく高いアイスを買ったのに。

「また買えばいい」

玄関を開けながらスネイプが答える。家の中は涼しかった。明るい部屋で振り返ったスネイプがリサを見て苦く微笑む。

「酷い顔だ」
「みないでください」
「君は、本当に……」

言葉を切ったスネイプの手が伸びてきて、頬に張り付いた髪を直してくれた。そんな事をされたのは初めてだ。動揺を隠せないリサにまた苦い笑みを浮かべたスネイプが溜息を一つ。

「…………どうしようもないな」
「しみじみ言わないでください」
「心配しているんだ。どうやら君は我輩の心配をする事で忙しいようなのでね」
「……しょうがないじゃないですか、先生が自分の心配しないんだもん。私がするしかないじゃないですか」
「だからどうしようもないと言っている」

呼び寄せた薬瓶を開け、新たに呼び寄せたタオルに染み込ませるのを眺めていると、唐突に顔に押し付けられた。

「ぶっ」
「当てていなさい」

言われるままにそうしていれば、リサの手から袋を取り上げたスネイプがキッチンの方へ歩いて行く。冷凍庫にしまってくれるのだろう。手探りでソファに移動しようとするとテーブルに脛をぶつけた。

「本当に、どうしようもない」

ソファに倒れ込み悶絶するリサに、スネイプの呆れた声が降ってくるまであと十秒。