09


スネイプとの会話は簡潔だ。

「先生、海に行きましょう」
「断る」

リサの提案に対して考慮の余地がないと判断されたものならば、ほんの数秒で終わってしまう。譲れない事であればリサも粘るが、そうでなければ「そうですか」の一言で終わってしまう。今回も会話はほんの五秒で終わってしまった。

けれどリサは知っている。そうやってあっさり諦められると逆に気にしてしまうのだ、セブルス・スネイプという男は。長年相手の裏を読み続けてきたからだろうか。今もいとも簡単に諦めたリサの腹の中を探るように見てくる。開心術を使われないだけマシなのだろうが、言わせて頂くならその疑わしい視線も止めて欲しい。向けられて気持ちのよいものではない。

「これだけ暑いと、誰だって水のある所に行きたくなりますよ」
「海なんて塩辛いだけでいい事など何もないではないか」
「じゃあ山に行きましょう。木陰で涼みたいです」
「魔法で温度を保たれたこの家が一番快適だと思うがな」

快適に決まっている。年中同じ温度に保っているのだ。
だが、スネイプは分かっていない。家からずっと出ていないスネイプにとっては快適だとしても、アルバイトを終えて真夏の陽射しから逃げるように帰って来たリサには少しばかり暑すぎるし、真冬の冷たい風から逃げ帰った時には寒すぎるのだ。つまり、リサにとってはさほど快適ではない環境である。

「たまには外で身体を動かさないと。家の中じゃ全然歩けないじゃないですか」
「毎日家事をしていればそれなりに動く。余計な気遣いまことに痛み入る」

可愛くない。心の中で呟いてリサはすり潰した粉末をスネイプに渡した。手伝いなど無用だと言っていたくせに、容赦なく次の指示をしてくる辺りがスネイプだ。

「大体、外に出て見つかったらどうする気だ? それとも、またマントに隠れていろとでも?」
「まさか。透明マント被りながら歩くのって大変じゃないですか」

マントで身を隠しながら歩く大変さは、ハリー達と過ごした七年間で嫌というほど思い知っている。また深夜に出かけるのかと問われてリサは首を振った。

「もちろん昼間ですよ」
「誰かに見られたらどうする」
「だから人の多い所に行くんですよ。人混みの嫌いな貴方が好んで海に行くなんて誰も思わないでしょう? ――あ、それだと山は危険ですね。薬草採集をするかもしれないって考える人がいるかも……」

そうすると、行くならやはり海だろうか。考え込むリサにスネイプが溜息を落とす。

「我輩は海は好かん」
「山は危険じゃないですか」
「それならば、やはり行かないのが一番だ。答えが出て良かったな、さっさと鼠の脾臓を輪切りにしろ」

ちぇ。呟いてナイフを手にしたリサをスネイプが横目でちらりと盗み見る。
そんなに海に行きたかったのだろうか。どうしても行きたいのであれば、友人達と行けばいいものを。休みを合わせて行けばいいだけの話だ。スネイプの事を話さなければバレる事はないのだから、何の問題もない。

生活を共にしているからとは言え、全ての行動を共にする必要などどこにもない。とは言え、リサの考えも分からなくもないのだ。自由に外に出られないスネイプを慮っているのだろう。こうなると分かっていて望んだのはスネイプで、リサはそれを聞き入れて連れ出してくれた。それだけで十分だというのに。どれだけお人好しなのかと逆にスネイプの方が心配しているのだが、残念ながらリサがそれに気付く事はなさそうだ。

そもそも、よくスネイプの願いを叶える気になったものだとスネイプは思う。大方、記憶を見たハリーから何かを聞いたのだろうが、散々グリフィンドールを蔑ろにしてきたスネイプだ。リサから減点した事だってもちろんあるし、彼女の親友達から減点した回数や罰則を与えた回数など覚えていない程だ。彼女の中でセブルス・スネイプという人間の評価が高かった事など有るはずもないのに。
スネイプ自身、リサが願いを聞き入れてくれる可能性などゼロに等しいと思っていた。彼女が助けを呼ぶ前に生命が終わってくれないかとさえ思っていたほどだ。リサの承諾に愕然とした事を覚えている。

「終わりました」
「あぁ」

輪切りにした脾臓が載ったトレイを受け取り鍋へと流し入れる。あっという間に色を変えた鍋を見てリサが苦い顔をした。確かに臭いは強烈だが、悲しいことにこの薬の効果は抜群な上に、たびたび補充を頼まれていた薬でもある。これから先ずっとこの臭いと付き合っていく事になるだろう。

鍋に蓋をしてスネイプは洗面所へと向かった。一晩寝かせなければならないから今日の作業はここまでだ。手伝いをしてくれたリサに冷たい麦茶を注いでやれば、へらりと締まりのない顔で笑ったリサが礼を紡ぐ。警戒心の欠片もない、心底信用しきったその顔に心配になってしまうスネイプだが、その顔を嫌いではないと思っている自分にも気付いている。

「さっきの話だが……」
「あぁ、海? 行きたいんですか?」
「そうではなく……君が行きたいと思うのなら、友人を誘って行ってくればいい。我輩に遠慮する必要などない」

考えをそのまま口にして冷たい麦茶で口を潤した。快適な温度を保ってはいるが、鍋に向かって立っていれば暑くもなる。滲んだ汗を拭い、黙り込んだままのリサを見ると、不満気にこちらを睨む目とかち合った。

「何だ?」
「私は、先生と行きたいんです。ハーマイオニー達と行きたいと思ったら、とっくにそうしてます」

ぱちぱちと目を瞬くスネイプの視線の先でリサが麦茶を飲み干す。溶けた氷がカランと音を立てた。

「毎日のご飯とか洗濯とか先生に任せっぱなしだからお礼がしたいんです。それに、花見に行った一回しか外に出てないじゃないですか。近所を散歩する事だって出来ないんだもん。だから、どこかに連れてってあげたいなーって……」

言いながら己の言葉のおかしさに気付いたのだろう。難しい顔をするリサにスネイプは呆れて物も言えなかった。お礼? そんなもの、こうして家に住まわせてくれているだけで十分だというのに。
リサが気付いているのか分からないが、魔法界でスネイプは追われる身だ。ハリーが何を言ったか分からないが、未だ”死喰い人”で”ダンブルドア殺しの犯人”である事は間違いない。魔法省で尋問を受け、全てを告白して漸く身の潔白を証明出来るのだ。それらをせずに逃げてしまったスネイプは間違いなく”逃亡犯”だ。未だ逃げ続ける死喰い人の残党と何ら変わりはない。逃亡に手を貸したリサだって相応の罰を受ける事になってしまうだろう。

だからこそ。スネイプは見つかるわけにはいかない。スネイプが見つかるという事は、目の前で難しい顔をするお人好しの同居人が罰を受けるという事なのだから。

「今のままで十分満足している」
「…………なら、良いんですけど……」

難しい顔でじっと見てくるリサから逃げるように立ち上がり、スネイプはキッチンへ向かった。




ある夜、夕方でアルバイトを終えて帰宅したリサが大慌てで納戸を物色し始めた。何をしているのかと問えば、浴衣を探しているのだという。

「先生! お祭り行きましょう!」
「何?」

意味が分からない。どこにも出かけなくて良いと言ったではないか――訴えるスネイプに、探すことを諦めたリサが部屋へ戻っていき、またすぐに戻ってきた。手には杖が握られている。

「アクシオ!」

呼び寄せられた大きな箱が二人の足元に落ちる。箱を開け薄葉紙を捲ると藍色に朝顔が描かれた反物が姿を現した。顔を綻ばせて広げたリサが嬉しそうに羽織る。浴衣だと分かった。

「毎年、家族で夏祭りに行ってたんですよ」

先生は父のを着てくださいねと言いながら、次の薄葉紙を捲る。出てきた黒地に薄い縞の入った浴衣を渡されてスネイプは口をひん曲げた。今リサは何と言った? 着ろと? スネイプに? 浴衣を?

「要らん」

そもそも着方も分からないと言えば、私がやってあげますと帯や紐を出しながらリサが笑う。どうやら抵抗しても無駄のようだ。毎年の楽しみを奪ってしまった手前、断りづらい。

「夜だし人も多いから大丈夫ですよ。それに、まだイギリスを探してるって五月に会った時にハーマイオニーが言ってたから」

仕舞い込まれていた浴衣を着せられ、下駄まで履かされてスネイプはリサと共に家を出た。当然、途中までは姿を隠した状態だ。堂々と二人で家を出たりはしない。ご近所に噂されてしまう。

「ちょっと離れてるので、姿現しで行きます」
「くれぐれも、誰にも見られないように」
「分かってますよ」

笑うリサに不安しか覚えないのは何故だろうか。どうしても不安が拭えなかったスネイプはリサにも透明呪文をかけて姿を消すと、その状態で移動するように言った。信用してないのかと頬を膨らませるリサの声は無視だ。心配なのだから仕方ない。
二人が姿現しをした場所は屋台が並ぶ祭り会場から少し離れた橋の上だった。後ろに誰もいない事を確認して呪文を解除し、リサが浴衣の乱れがないかを確認する。

「楽しみですね!」

はしゃぐリサが歩き出し、スネイプも後に続いた。初めて履く下駄は、革靴とスリッパに慣れてしまったスネイプには何とも心地悪い。裾が開けてしまうからと小さな歩幅で必死に歩くリサの、高い位置で結われた髪が左右に揺れる。ケンタウルスの尻尾のようだ。

屋台の並ぶ通りに出ると、うんざりするほどの人の多さだった。早々に帰ってしまいたくなる。そんなスネイプの心を読んだかのように振り返ったリサが「多いですねぇ」と苦く笑った。

「やっぱり帰りますか?」

ここまで来て何を言うのかとリサを見れば、窺うようにこちらを見上げている。あぁ、そうか。スネイプは僅かに目を細めて屋台の方へ視線を向けた。

「それは残念だ。いい匂いがしていたのだがな」

ちらりとリサを見れば、喜びいっぱいの笑顔で笑っている。単純な奴だと口元を緩めると突然腕を掴まれた。

「先生! 早く行こう!」

下駄をカラコロと鳴らしながら早足で進むリサに引っ張られてスネイプも慌てて歩き出す。

「たこ焼きが良いかな、あぁでもお好み焼きも捨てがたい! イカ焼きも焼きとうもろこしも食べたいですよね! あっ、唐揚げ! 焼きそばも忘れてた! それから――」
「落ち着きなさい。順に回れば良いだろう――そもそも、そんなに食べられるのか? 後悔しないよう考えて買うように」
「はーい! あっ、かき氷!」

聞いてないな。今の返事は何だったんだと呆れつつ、ちらりとリサに掴まれた腕を見る。人に触れられるのはあまり好きではない。かと言って振り払うタイミングは既に逃してしまっている。この人の多さでは、一度逸れたらそう簡単に見つける事は出来ないだろう。

溜息を一つ。スネイプは腕を掴むリサの手に触れた。驚いた顔のリサが振り返る。

「歩きづらい」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「せめて袖にしてくれ」

ぱちぱちと目を瞬いたリサと目が合う。
あ。小さな声が目の前の同居人の口から漏れたかと思うと、さっと視線を落とした同居人は躊躇いがちにスネイプの浴衣の袖をきゅっと掴んだ。むず痒い。ぎゅっと眉根を寄せるスネイプを見ることなくリサがまた歩き出す。

「は、逸れないでくださいね」
「君がはしゃいで走り回らなければな」
「走りませんよ! 子どもじゃないんだから……」

咄嗟に口を開きかけて、けれど何も言うことなくスネイプは口を噤んだ。同居人が発した台詞に少なからず動揺してしまった事が悔しい。

生まれて初めての縁日は散々だった。
すれ違うカップルや学生達からは好奇の目で見られ、人が多すぎて歩行もままならない。足は踏まれるし、一つの屋台に並ぶのに10分以上待たされる。たこ焼きもお好み焼きも焼きそばも、きっと自分でレシピを見て作った方が美味しいだろうとさえ思った。
魔法で温度を調節していなければ途中で怒り狂って帰っていた事だろう。周囲から頻りに聞こえてくる暑い暑いという声にすら苛々させられた。

「先生、先生。最後はかき氷です!」
「まだ食べるのか?」
「これで最後ですよー。先生はどの味がいいですか?」

どの味と聞かれても。ずらりと並ぶシロップの札を見てスネイプは眉を顰めた。ブルーハワイというのがどんな味かも分からないのだ。無難にイチゴと答えると、おかしかったのかリサが笑った。

「私はブルーハワイにしようかな――イチゴとブルーハワイお願いします!」

ガリガリと削られた氷が透明なカップに降り注ぐ。着色料たっぷりのシロップがかけられるのを、リサは目を輝かせながら見つめていた。まだまだ十分子どもではないか。差し出されたイチゴのかき氷を受け取りながら、スネイプはほんの少しばかり安堵の息を漏らした。そんな自分に首を傾げたが、おそらく考えない方が良いのだろう。

「ブルーハワイ食べてみます?」

差し出された青い液体のかかったかき氷に首を振る。もっと考えてから発言しろとは言わなかった。きっと言ったらまた微妙な空気になってしまうだろうと思ったからだ。

「そんな事言わずに。それで、私にもイチゴください」
「最初からそう言いたまえ」

にししと笑うリサにかき氷を差し出せば、シロップたっぷりの部分を掬って幸せそうに食べている。やはり子どもだ。考えている自分の方が馬鹿みたいではないか。溜息を一つ落とし、スネイプもリサのカップから真っ青な氷を奪うことにした。