07


ホグワーツに在学していた頃、冬になれば必ず雪が降り積もっていた。遠くの山は真っ白だったし、湖は凍りついていた。禁じられた森だって真っ白に染まっていたし、ハグリッドの小屋の周りも、クィディッチ競技場も真っ白だった。
それに比べれば日本は殆ど何も変わらない。寒い地方に行けば雪に困らされるのだろうが、生憎リサの住む地域は大雪というものに縁がない。年明けから年度末にかけて数回降るのみだ。積もる事も少なく、積もったとしてもすぐに溶けてあちこちを水浸しにするだけだ。雪解け水が朝方に凍るのはいただけない。滑って転んで怪我をするなど、出来る事ならしたくないのだ。

「咄嗟に何かに掴めば良かっただろう」

呆れ顔のスネイプをじとりと恨めしげに睨む。掴める”何か”があったのなら、こんな目には遭っていないのだ。擦り剥いた手のひらに薬を塗ってもらいながらリサは痛む腰を撫でた。

前日に雨が降った。しとしとと降り続いた雨は日が変わる頃に雪へと変わり、リサが目を覚ました頃には既に止んでいた。雨と雪で濡れた路面は朝方の冷たい風に曝されて見事に凍ってしまったらしい。アルバイトに向かうリサにスネイプは足元に気を付けろと注意する事を忘れなかったし、朝食の時につけていたテレビの中でお天気お姉さんも「足元にご注意ください」と言っていた。
もちろんリサはその注意を忘れずにアルバイトへ向かった。店につくなり店長に転ばなかったかと尋ねられ、大丈夫だと笑って答えたものだ。

日中、雲間からひょっこり顔を出した太陽はその力を発揮しきれなかったらしい。冷たい風はいっそ人間を凍らせてやるとばかりにびゅうびゅう吹き荒れた。リサがアルバイトを終える頃、朝方に張られた氷達はしっかりと残っていた。風の勝利だ。
辺りはすっかり暗くなっていて足元がよく見えない。そんな状態でもリサは何とか転ばずに家に帰ってきた。よし、もう大丈夫だと気を抜いたのがいけなかったのだろう。家の前が薄っすら凍っていた事に気付かず、見事に転んだ。左の手のひらを擦り剥き、腰から尻にかけて強かに打ち付けた。帰る際に買った肉まんが無事だった事だけが不幸中の幸いだ。

家の前で呻く声を聞きつけたスネイプに運ばれ、現在お小言と共に手当をしてもらっている最中である。手のひらの治療を終えたスネイプが他に怪我をした所はないかと尋ねてくる。

「腰とお尻が痛いです」
「どうしても薬が必要だと言うのであればしてやるが」
「大丈夫です、ちょっと無理です」
「望んだ答えが返ってきて良かった」

塗ってくれと言われたらどうしようかと思ったと零すスネイプにリサも笑う。
服も下着も洗ってもらってはいるが、それはそれ、これはこれだ。下着を見られる事に対する抵抗はないが、肌を見られる事にはありまくりだ。スネイプとて、いくら若い女だからってリサの肌など見たくないだろう。元教え子となれば尚更だ。
ズキズキと痛む腰にはあとで湿布を貼ることにしよう。魔法界の薬ほど治りは早くないが、一晩寝れば治るはずだ。

「先生、肉まん食べましょう」

すっかり冷めてしまった肉まんの袋を渡せば、だから杖を持って行けと言ったんだと零しながらスネイプが肉まんを皿に並べる。軽く杖を振れば、たちまち肉まんから白い湯気が立ち上り始めた。右手を伸ばして皿を取り、ほかほかの肉まんを頬張る。

「うーん、美味しい! 幸せですねぇ」
「大袈裟な奴だ」
「温かい家で誰かと熱々の肉まんを食べる――十分幸せだと思いますよ」

はふはふと口を動かしながら笑うリサを見ていると、スネイプの表情も穏やかなものになっていく。

「夕食が食べられなくなっても知らんぞ」
「今日のご飯は何ですか?」
「カレイの煮付け」
「……先生、日に日にレパートリーが増えていきますね」
「作り方さえ分かれば何だって出来る」

そんな台詞言ってみたい。自分の作った肉じゃがを思い出して溜息を漏らしたリサは、確実に美味しいであろう煮魚の為に慌てて肉まんを口の中に押し込んだ。




桜が綻び始めた。外を歩けば真新しい制服を纏った学生や、大きなランドセルを背負った子ども達をよく見かけるようになり、そう言えば日本では四月が新学期だったと思いながら、リサはパリっとしたスーツを着る若い青年にお釣りを渡した。

「ありがとうございました、またお越しくださいませ」

お決まりの文句を口にして見送り、客の少なくなった店内を見回す。昼のピークも終わりだ。最後の客がいなくなると、レジを閉じて売れ残ったおにぎりやお弁当を並べ直しておく。パンや他の売り場も同じようにフェイスアップをして、リサは満足気に店内を見回した。我ながらいい仕事をした。

アルバイトを終え、スーパーで買物を終えたリサは小学校の脇を歩いていた。校庭の桜の木が桃色の花を咲かせている。もう間もなく満開を迎えるだろう。

「先生、お花見しませんか?」

家に帰るなり言えば、リサが買ってきたものを確認していたスネイプが顔を上げた。

「花見?」
「桜ですよ! 帰りに通った小学校の桜が満開までもうちょっとだったので、きっと近くの川沿いの桜ももう少しだと思うんですよね」
「誰かに見られたらどうするつもりだ」

リサの一人暮らし――近隣の住民達はそう思っている。家の周りに防護魔法をかけているので、スネイプが家の外に出たとしても敷地内ならば姿を見られる事はない。けれど、それはつまりこの一年近くスネイプが家の敷地外に出ていないという事になる。スネイプは何も言わないが、外に出たいと考えているのだろう。リサだったら耐えられない。

「夜ならどうですか? 念の為に透明マントを持って行けば良いじゃないですか。先生だって外に出たいでしょう?」

スネイプは答えずに夕食の準備に取り掛かった。答えないという事は、決めかねているという事だ。外に出たいという気持ちが少なからず有るという事だろう。

「お弁当作って、お酒買って、花見しましょう!」
「……その弁当は誰が作るのかお聞きしても?」
「私に作って欲しいのなら作りますけど」
「君に作って欲しいと頼む人間がこの世にいるとは思えんな。材料の無駄遣いだ」
「じゃあ先生お願いします。玉子焼きは絶対ですよ! あ、私おにぎりなら作れます!」

週末の夜が良いだろう。来週の月曜日はシフトを入れていないから、行くなら日曜日の夜が良い。翌日の仕事や学校の為、夜遅くまで出歩く人は多くないだろう。まだ夜は寒いから暖かい格好をして行かなければ。

「楽しみですね!」
「…………まだ行くと言っていないのだがな」

そう言いながらもスネイプが弁当の中身について思案しているだろう事は明白だった。時折難しい顔で何かを呟くスネイプにこっそり笑みを零し、リサは家の中を引っ掻き回してレジャーシートや水筒を探し始めた。

迎えた日曜日の深夜、リサはなるべく音を立てないよう気を配りながら玄関の戸を閉めた。戸締まりの確認をして寒空の中へ歩き出す。周りの家の電気は殆どが消えていた。

「うー、寒い……」
「何をこのくらいで。イギリスの方が寒かったではないか」

透明マントの下でスネイプが囁いた。
深夜の道に人の姿はなかった。時折、脇の道路を通りゆく車が一際冷たい風を残していく。寒さに震えるリサの横でスネイプが平然としているのが腹立たしい。十数分も歩けば川に辿り着いた。手も足も凍ってしまったかのように冷えきっていたが、満開の桜を見れば吹っ飛んでしまったかのように思える。

「うわぁ……先生、ほら! 桜!」

街灯の明かりに照らされ、ぼんやりと淡い光を帯びた桃色の花が何とも幻想的だ。小学校に通っていた頃は、春になれば学校でいくらでも桜を見る事が出来た。ホグワーツに通い始めてからは四月に日本に帰ることが出来ず、写真などで見るばかりだった。イギリスでも桜が咲くのだとハーマイオニーが教えてくれたが、残念ながらホグワーツでは禁じられた森の奥の方にしか桜の木が植えられていないらしく、城の窓から遠目に眺める事しか出来なかった。

「やっぱり本物を近くで見るのが一番ですね」

綺麗。呟き感嘆の息を漏らすリサの隣で、マントを脱いだスネイプも桜を見上げた。
魔法薬の材料として桜の実を使う事もあったし、イギリスでも何度か桜を見た事がある。幼い頃に通っていた公園だって春には桜が咲いていた。気候の所為か平気で一ヶ月以上咲き続けるものだから、頭に花びらが降ってくるたびに鬱陶しく思っていたものだ。

「日本人の感性はよく分からないな」
「イギリスは長く咲くってハーマイオニーが言ってたんですけど、そんなに長いんですか?」
「ひと月以上咲いていたな」
「うわぁ! それ羨ましい! こっちはすぐに散っちゃうんですよ。来週の水曜に雨予報が入ってたから、きっとそこで全部散っちゃうんだろうなぁ……勿体ない、こんなに綺麗なのに」

たった一週間足らず。その中で一生懸命咲くからこそ、人の目を惹き付けるのだろうとリサは思う。ハーマイオニーは桜にあまり興味を持っていないようだった。日本では花見と称して宴会を催すほどなのに。

「先生、レジャーシート敷きましょう!」
「寒いのは消えたのかね?」
「まさか! でも花見したいですもん」

歯をガチガチ鳴らし、鼻を真っ赤にしながら笑うリサを呆れたように見てスネイプは杖を取り出した。頭をコンコンと叩いてやれば、リサがふにゃりと頬を緩め幸せそうに吐息を漏らす。

「あったかい……あ、もしかして先生ずっとこれ使ってたんですか?」
「かけてやろうとしたのに、先に家を出てしまったのは君の方だ」

恨めしげに見てくるリサから顔を背けてバッグを開ける。杖を振るとレジャーシートがすぐに出てきた。喜びシートに座るリサに弁当と酒を渡し、スネイプもシートに腰を下ろす。

「聞くが、こんな時間に食べられるのかね?」

スネイプが問いかけた先でリサが玉子焼きをつまんでいる。あ。声を上げたリサがへらりと笑った。聞くまでもなかった。

「……後悔しても知らんぞ」
「頑張って働きます」

本人がそう言うのであれば問題ない。缶チューハイと缶ビールを一つずつ取り出して置くと缶チューハイを取ったリサがプルタブを起こす。

「先生、先生! 乾杯しましょう! 綺麗な桜と、寒い夜と、美味しいお弁当に!」

本当は他にもある。けれど、きっとまだその時ではないのだろう。
スネイプのビールにコツンと缶を当てて飲み始めると、スネイプも微かに微笑んでビールを飲み始めた。

「冷たい! 寒い!」
「君はもっと考えて行動するべきだ」

呆れ顔のスネイプがポットからお茶を注いでくれる。真っ白な湯気を見るだけで暖かくなったように思えるから不思議だ。受け取ったお茶は嫌がらせなのかと思うほどに熱かった。

「火傷しました」
「薬は家だ」

馬鹿にしたように笑うスネイプに向けてヒリヒリする舌を突き出す。火傷を負った舌を冷やそうと酒を飲むと、口の中でお茶と酒の味が入り混じって何とも言えない奇妙な味となってしまった。苦い顔をするリサにくつりと笑ってスネイプがビールを飲む。
まぁ、たまには悪くない。興味などなかったが綺麗なものは綺麗だ。逃亡中の身であるが、一年も我慢したのだから今夜くらいこんな風に花見を楽しんだって構わないだろう。

このままではいけないのだろうと思う。傷はとっくに完治しているのだから、さっさと自分一人で逃げるべきだ。あの時は仕方がなかったとしても、リサを巻き込み続けるべきではない。分かっている。分かっているのだ。

「先生、もう一回乾杯しませんか」

まるで心を読んだかのようにリサが笑う。飲みかけの缶を突き出して、スネイプの葛藤などお構いなしに言うのだ。

「あのスネイプ先生とお花見なんて奇跡ですもん。先生と一緒に暮らしてるのも、ご飯作ってもらってるのも全部――だから、そんな奇跡に乾杯」

目を細めて笑うリサを見ていられず、スネイプはさり気なく視線を落とした。奇跡だなんて。こんな奇跡を願った事など無いだろうに。好いた相手ならまだしも、相手はこのセブルス・スネイプだ。例えば、あの時スネイプを見つけたのがネビル・ロングボトムだったとしたら――断言出来る。ネビルは毎日飽きることなく泣き続けていただろう。最高学年時には寮の名に恥じない勇敢さを見せてくれたが、スネイプと二人で生活するとなればその勇敢さはあっという間に逃げ去ってしまった事だろう。

「…………君は、」
「はい?」

仄かに顔を赤くしたリサが首を傾げる。度数の弱いジュースのような酒で真っ赤になるくせに、よく酒を飲もうなんて言えたものだ。残念な事に、彼女の発言がスネイプに酒を飲ませてやる為だけの口実だと分かっているのだけれど。一緒に暮らしていると考えている事まで何となく分かってしまうから嫌だとスネイプは思う。閉心術を得意としているスネイプの心も、彼女には筒抜けなのだろうか。

「先生?」

首を傾げるリサに何でもないと首を振ってビールを飲み干す。溜息を一つ落として上を仰ぎ見れば、綺麗に咲き誇る桜。
酒の所為という事にして、スネイプはリサが望んでいるであろう言葉を口にする事にした。
きょとんと目を丸くしたリサが、頭上の桜のように顔を綻ばせるのは数秒後の事である。