ひと月もすると、スネイプは完全に前のように動けるようになった。
最初に約束していた通りスネイプが炊事を担当してくれるようになり、微妙な味の食事から解放された。驚くことにスネイプの作る食事はとても美味しかった。
「レシピ通りに作れば失敗するはずがない。逆に尋ねたいものだ。どうしたらあのような味になるのか」
嫌味まで復活しているスネイプにひくりと頬を引き攣らせたリサだが、以前ほど怖いと感じなかった。減点も罰則もないのだから遠慮する必要もないだろう。スネイプが思った事を口にしているのだから、自分もそうすればいい話だ。
スネイプの世話をする必要がなくなり、リサは近所のコンビニでアルバイトを始めた。これで漸く親への負担を減らしてあげられると喜んだのは、リサよりもスネイプの方だっただろう。
日本に戻ってきた最初の週、寝る間も惜しんで両親を見つけ出したリサはその場で両親の記憶を元に戻した。二人はリサが自分達の記憶を消した事を酷く怒ったけれど、無事に帰って来てくれて良かったと抱きしめてくれた。優しく力強い腕に数年ぶりに声を上げて泣いた。
戦いの一部始終を話し、現在スネイプが家にいる事も伝えた。父は娘の傍に男がいる事に顔を顰めたけれど、母の言いつけを守り世話をしているのだと話せば渋々とだけれど納得してくれた。
自分達はこのまま今の家に残るから、あの家で暮らしても構わない――そう言ってくれた両親に感謝した。スネイプの世話の為に働きに出られないリサに、両親がいくらか用立ててもくれた。二人がいなければリサもスネイプも早々に餓死していただろう。
この時、リサは初めて自分がどれだけ無謀な事をしているのかを思い知った。
”歳が離れているとはいえ、警戒は怠らないように”
心配症な父の台詞をそのまま伝えた時のスネイプの顔は忘れられない。顔に”嫌だ”と書いてあるのだ。
「間違いなど、起こるものか」
「分かってますよ」
吐き捨てたスネイプにあっさり頷いて。逆にスネイプに心配されてしまったのももうひと月近く前の事である。
生活の大抵の事を魔法で補ってしまえば、光熱費などの請求はリサのアルバイト代で十分賄えてしまえるものだった。リサの服は元からあったし、スネイプの服とてパジャマとシャツをいくつか買い足せば良かっただけだ。下着や靴下は父用に買い溜めておいた新品のものを下ろせば良かったから、衣服代もそこまでかからなかった。スネイプが文句を言わなかった事も理由の一つだろう。世話になっている負い目からだろうか、スネイプは大抵の事は受け入れてくれた。
「先生もやりたい事あったら言って良いんですよ。ダイアゴン横丁で薬の材料買ってきましょうか?」
「…………いや、今はいい」
たっぷり時間をかけて考えて、スネイプが出した結論はそれだった。
「まだ、暫くはこのままでいい」
存外、スネイプも今の生活を気に入っているらしい。穏やかに微笑むスネイプはきっと無自覚なのだろう。リサの両親が残していった小説を読んだり、テレビでニュースや他愛無いワイドショーを見たり。あの頃のスネイプからは想像も出来なかった光景だ。
リサが朝早くからアルバイトに出かけた日には、洗濯や掃除までしてくれている。完全に主夫だ。下着を洗われる羞恥心というものは早々に捨てた。精々、洗濯に出す際にネットに入れておくだけだ。洗濯機で洗ってしまえば、もう見られたって触られたって恥ずかしくも何ともない。夏休みに帰って来た時だって父が母の代わりに洗濯機を回す時だってあったのだ。だから然程気にならないと言った時のスネイプの何とも言えない顔も忘れられない。
この家に来て、スネイプは色々な表情をするようになった。半分がリサのおかげで、もう半分がリサの所為だ。スネイプに言わせれば九割方リサの所為であるらしい。
夏が終わる頃にハーマイオニーから手紙が届いた。ハリー、ロンと共にホグワーツに復学するというものだった。出来れば一緒に復学したかった、四人で卒業したかったと書いてあるのを見てリサは驚愕した。
「先生」
「何だ?」
「ハーマイオニーに”一緒に卒業したかった”って言われたんですけど、もしかして私、ホグワーツ”中退”ですか?」
「そうなるな」
「……最終学歴、ない……!」
小学校を中退してホグワーツに入学してきたというのに。そのホグワーツでさえ中退となってしまえば、リサの最終学歴は何もない。どこも卒業していないのだから。驚くべき事実に青褪めるリサは「どうしよう」とスネイプに訴えた。
「い、今のアルバイト先、ホグワーツ卒業って履歴書書いちゃったんですけど……!」
魔法魔術学校などと書けるはずがないから、スネイプに教えられた通り”ホグワーツ校”と記した。怪しまれなかったのは奇跡だ。
「てっきり、分かっていて書いたのだと思っていたが……」
「まさか! いや、まぁそれは良いんですよ。履歴書なんて書いたもん勝ちだってママが言ってたし」
スネイプが微妙な顔をしたのは余談である。
「最終学歴がないっていう事実にちょっとビックリしました。どうしようかな、いつかは向こうで何か仕事もらおうと思ってたのに」
「危ない橋を好んで渡るのか。さすがグリフィンドールだ」
「そりゃ渡りたくないですけど……でも向こうと繋がっていれば魔法省の動向が探れるじゃないですか。ある日突然ここにやって来たら太刀打ち出来ないもん」
ハリー達から探ることも出来るが、あまり聞き過ぎると怪しまれてしまう。だからこそ適度に情報が入ってくる程度の職に就けたら良いと思っていたのだ。それなのに、学歴が無いだなんて笑えない。
「――先生? どうしたんですか?」
黙り込んだままのスネイプを覗き込めば、難しい顔をしたスネイプがリサから目を逸らした。
「先生?」
「………、」
何かを言いかけて、口を噤んで。何度かそれを繰り返したスネイプは、静かに息を吸い込むと身体ごとリサに向き合った。
「――いざという時になったら、君は一人で逃げろ」
「、」
「そこまで面倒をかけるつもりはない」
我輩の為にそこまでする必要はない。君の人生を犠牲にする必要もない。我輩がどうなろうが君には関係のない事だ。我輩は子猫でないからして、君に死ぬまで世話をして頂く必要も――スネイプの言葉はそこで途切れた。代わりにぺちんと小さな音が上がる。リサがスネイプの頬を叩いた音だ。
「私は、私の意思で貴方を連れてきたんです。死にたがってた貴方を生かしたのも、手当てをしたのも、ここへ連れて来たのも全部私の意思だわ。罪に問われるべきは私で貴方じゃない。私の罪まで勝手に背負わないでください」
「…………君が我輩を見つけなければ、罪を犯すことはなかった」
「貴方を魔法省に突き出さなかったのは私の意思です。貴方はただ願っただけ」
スネイプの手にそっと手を伸ばす。強張った手に触れながら、リサはくしゃりと笑いスネイプを見つめた。
「言ったじゃないですか。今の貴方に必要なのはのんびりする事です。心配も不安も全部ダメですよ」
スネイプは何も言わなかった。難しい表情のままリサを見て、ぐっと唇を引き結んで。とうとう観念したように眉根を寄せ口元を和らげた。
「……随分と無茶を言う。出来ると思うかね?」
「出来なくてもしてください。他の事を考えれば忘れられるんじゃないですか? 夕飯の献立でも考えてくださいよ」
「今日は肉じゃがだ」
「え、やった!」
楽しみ! パッと立ち上がり喜ぶリサにスネイプが呆れたように肩を竦める。気を逸らされているのは君の方ではないかと呟いて、仄かに熱を帯びた己の手を見つめた。彼女の熱が移ったのだろう。自分の手には珍しい熱に何だか落ち着かなくなり、気付かれぬようそっと反対の手で何度も擦った。
「考えたんですけど、先生が家事をしてくれるのなら、いっその事こっちで正社員になって安定した収入を得るってのも有りじゃないですか? まぁ、その場合はハーマイオニー達に教えてもらう事になっちゃうけど……」
「君の好きにすればいい」
「良いんですか?」
驚いてリサが尋ねれば、スネイプは調子を取り戻したかのように薄く笑う。
「どれも、君に家事を任せる事に比べれば、よほど現実的な提案と言えるだろうからな」
ひくり。頬を引き攣らせたリサにくつりと笑って。スネイプは夕食の準備に取りかかることにした。
リサの作った肉じゃがより遥かに美味しいものを作ってやろうと決意していた事は、リサには知る由もない事である。